弘子
作者は大学時代、同好会で廻しを締めて相撲を取っていた。会員はみんな四股名を付けていて、普段もその四股名で呼びあっていた(本名、なかなか覚えられませんでした)。
で、この小説の主要な登場人物に、当時の会員たちの四股名を付け、キャラクターも彼らを元に造形してみました。
なお、現実の力士に、照ノ富士がいますが、照富士というのが、上記の会員の中のひとりが名乗っていた四股名だったので、使わせていただいております。
もう、母を慕って枕を涙でぬらすことはやめよう。
美しく生きたいと思った。一度きりの人生である。おのれの選んだ道に、自らの精神と肉体の全てを捧げて、その道のはるか高みに到達する。
そんな生き方をしたいと征士郎は思った。十一歳のときである。
中学を卒業してすぐに角界に飛び込んだ里井は、入門して二年目の夏、三段目の力士だったときに、弘子と知り合った。弘子は相撲が好きな一ファンだったが、国技館に観戦に行く日は朝早くから入場して地位が下の力士の取組から見るのが常だった。
その弘子から声をかけられたことが、ふたりが付き合うきっかけだった。里井のほうは、女の子に対してはシャイで、自分から話しかけることなどそれまでしたことがなかった。声をかけられたときはどきまぎしたが、弘子は、派手目の、充分に美人とよべる顔立ちをしていたから、そんな女性から声をかけられたことは嬉しかった。年齢は弘子がふたつ上だった。
国技館にしばしば現れていた弘子の姿に注目していた若い力士は少ない数ではなかったので、ふたりの交際が周知のこととなると、里井は多くの同輩の力士からやっかまれたし、そのことにより先輩力士からのいじめに近いような荒稽古も何度か受けた。
弘子は性格も明るく、彼女との付き合いは、もともとは大人しい性格だった里井の力士生活にとっても、よい影響を与えた。彼女に上手く引き立てられ、早く強くなりたいという里井の気持ちに拍車がかかった。
里井は、上背は、力士として平均レベルであったが、体重は、まだ体の出来上がっていない若い力士の中でも軽量の部類であった。が、柔らかい足腰をはじめ、肉体的な素質に恵まれ、大人しい分、素直な性格でもあったから、十九歳で関取になった。
給与を得られる身分となった里井は、すぐに弘子と結婚することになった。
弘子が、それを当然と思っているのは明白だったし、里井にも、それを断る積極的な理由はなかった。
取的(幕下以下の力士のことをこう称する)時代の里井の四股名は、本名に山をつけただけの「里井山」だった。
関取になり、あらためて四股名をつけることになったが、その四股名は弘子が考えた。
里井が所属していた瀬戸内部屋の瀬戸内親方は、四股名に対しては鷹揚で、部屋の力士の四股名に特に決まったルールはなかった。力士本人、親や恩師、後援者が名付けることが多かったのである。
「又造君の四股名、これに決めましょう。」
里井の名前は、又造という。一世紀か二世紀前なら、この国でも結構ポピュラーな名前だったのかもしれないが、今では、相当に珍しい名前であろう。
弘子が四股名を書いた紙を又造に見せた。
又造は、その四股名をしばし見つめた。
又造が、言葉を発するまで約二十秒かかった。
「冗談だよね」
弘子がにっこりと笑う。
「ううん、冗談ではありません」
その紙には「金の玉又造」と書かれていた。
それが弘子の考えた四股名だった。
「ね。面白いでしょ。又造君、人気でるわよ」と弘子が言う。
そうか、これがこのひとの笑いのセンスか。あざとすぎるではないか。
結婚するのは、やめたほうがよいかもしれない。
と、又造は思った。
しかし、取りやめた場合、どれほどの困難が待っているかを思うと、又造から、それを言い出せるわけがない。
ふと、思いついたことがあった。
「ねえ、もしかして、僕に声をかけたのは、この名前のせい」
「そうだよ」
弘子はあっさりと言った。
「お相撲さんとお友達になりたいな、とずっと思っていたら、相撲の専門雑誌で、あなたの本名が又造だと知ったの。こんな素敵な名前の人がいたなんて。そう思って胸がときめいたの」
そうだったのか。それにしても自分のこの名前に、胸をときめかす人がいるとは。想像したこともなかった。
「それで本人を見たら、これがまあ、なかなかハンサムじゃない。この人に決めた、って思った。付き合い始めてからも、又造君、素直だし、優しいし、有望力士だし、すっかり気に入ったのよ。声をかけてよかった、と思っているの」
四股名については、結局、押し切られた。
弘子が決めたことで、又造が断ったことは、これまでの付き合いの中でもなかった。
親方が許さないだろう。
又造は、そこに望みをかけた。
だが、瀬戸内親方は
「ふうん、いいんじゃないの」
とあっさり認めた。
協会が受理しないだろう。
又造は、最後の望みをかけた。
却下されなかった。
弘子が言う通り、たしかに金の玉又造は、十両力士としては、異例の人気を得た。
相撲ファンは、この四股名は、当然受け狙いであり、力士として三枚目路線で生きていくことの決意表明と受け取った。なかなかの二枚目なのに、勿体ない。なぜ、自らそっちの道を選ぶのだろう。まあ、そういう性格なんだな、と受け取られた。
だが、力士金の玉又造はマスコミに対して、いいとこを売る(「冗談を言う」の相撲界での隠語)わけでもなく、その土俵態度は極めてストイックなものだった。
四股名のイメージから世間が期待するような態度は、まるで取らなかった。マスコミやファンは、あてがはずれた思いだった。
「金の玉」という四股名は、一般的に連想されることではなく、多分、何かもっと深い意味があったのだろうと推測した。
登場時の衝撃が収まると、「金の玉又造」は、特に珍名と言うわけでもなく、普通の四股名として受け取られるようになったのであった。
ふたりが結婚した翌年、男の子が生まれた。名前は弘子がつけた。
「将来、お相撲さんになったら、お父さんの四股名を継ぐことになるから、赤ちゃんもそれに合った名前をつけようね」
弘子が考えた名前は、
「征士郎」
だった。
勝手にしろ、
と、金の玉は思った。
この受け狙いのセンスには大いに閉口していたが、そのことを除けば、弘子は、決して悪い女房ではなく、金の玉は、弘子との毎日を結構、楽しく送っていたのだった。
征士郎が生まれた年、金の玉又造は幕内力士になった。
体重はまだ軽量であったが、柔らかく粘りのある足腰を持ち、基本に忠実な、相撲っぷりの性質のよさ。そして、その出世の早さにより、金の玉は、識者の間でも将来有望な若手力士と見られていた。
将来、三役力士となることは確実であり、大関、横綱も望める。というのが金の玉の評価だった。その時期の角界は、横綱照富士の、第一人者としての君臨が始まり、彼の時代を確立しようとしている時期にあたっていたが、いずれは貴花田と金の玉が照富士に対抗する、照貴金時代がやってくる、と予測する評論家もいたのである。
やや問題はあるが二歳年上の美人妻と、元気な息子に恵まれた若手有望力士。
金の玉の前途には輝かしい未来が待っているはずだった。
翌年、金の玉の人生が暗転した。
土俵の上で重傷を負ったのである。
その場所、金の玉は前頭の上位だった。序盤戦で、連日、横綱、大関と対戦した。まだ三役に昇進はしていない。
二場所前、初めて横綱、大関と対戦する地位に番付をあげた金の玉のその場所は、大関ひとりを破ったが、五勝十敗に終わった。
が、翌場所前頭中位で十勝五敗の星を残し、金の玉は、その場所、自己最高位の前頭筆頭になっていた。
二度目の挑戦となった横綱照富士に勝つことはできなかったが、もうひとりの横綱から初めての金星を得て、ふたりの大関に対しても、内ひとりから勝ち星をあげた。
そして、対戦した五人の関脇、小結に対しては、計三勝二敗。三役以上の力士五人に勝利した。
十一日目までで七勝四敗。進境著しい活躍だった。
あとひとつ勝てば勝ち越し、来場所の三役昇進がほぼ確実となるというところまでこぎ着けていた十二日目。金の玉の対戦相手は、平幕とはいえ、三役経験が豊かなベテランの巨漢力士、北嵐。
北嵐の寄りに耐え、土俵際で打棄り気味の投げを放ち、その技が決まるか、と思われた瞬間、北嵐の右足が金の玉の右足に絡まり、二百キロ近い北嵐の全体重が、金の玉の右足だけにかかった。巨漢北嵐の下敷きになった金の玉の右膝が破壊された。翌日から金の玉は土俵人生で初の休場。三役昇進の絶好のチャンスが潰えた。
金の玉は翌場所から四場所全休した。再び土俵にあがったとき、金の玉の番付は、幕下三十五枚目まで落ちていた。前途有望な幕内力士が、十ヶ月後には無給の幕下力士に転落したのである。
その後、金の玉は三場所で再び関取となり、さらに二場所をかけて幕内に再昇進した。が、彼の天性であった下半身の粘りは失われた。怪我をする前は、軽量ではあっても、正統的な相撲をとっていた金の玉は、変則的な相撲に活路を見出すしかなくなった。以降も金の玉は幕内の座を維持した。だが、彼を大関候補として評価する識者はもういなかった。
そして、数年後、二度目の悲劇が金の玉を襲った。
二十一歳で結婚。二十二歳で母親になってしまった私には青春時代が短すぎた。もう一度青春時代を取り戻す。との言葉を遺して、弘子が、あっさりと家を出たのである。
俺が結婚したのも、父親になったのも、それより二歳若かったんだぞ。
金の玉は、思った。
征士郎にとって、弘子はいい母だった。時に激しく叱ることもあったが、天性の明るさで征士郎に接していたので、征士郎も母親のことが大好きだった。
自分はともかく、なぜこの子を置いていけるのか。金の玉には理解できなかった。
母の出奔後、征士郎は、金の玉の傍らから離れようとしなくなった。母がいなくなってしまった征士郎にとって、残された親は、父しかいなかった。
金の玉は、普段は、再び瀬戸内部屋で居住するようになった。征士郎も、金の玉の個室で、一緒に暮らした。
父が部屋の土俵で稽古をする際は、征士郎も稽古場にともにおりた。やがて征士郎は自分用の稽古廻しを買ってもらい、父の姿を見習って、土俵で稽古に励むようになった。幼くして母を失った五歳の少年を、親方も、親方の家族も、部屋の力士たちも可愛がった。
金の玉は、妻の付けた四股名を変えることはしなかった。
「戻りたくなったら、いつでも帰ってこい」
その思いをこめたつもりだった。
しかし、力士には、地方での本場所があり、巡業がある。小学校に入学する前は、通っていた幼稚園を休み、征士郎はついて行った。
小学校に入学したあとは、父と一緒に過ごすことができない日は、征士郎は親方の家族とともに暮らしたが、年間の内、かなりの日数を父と離れなければならなかった。
金の玉は、二十七歳の若さで引退した。結局、三役力士になることはできなかったが、幕内の位置は保ち続けた。力士としては最も力が出る年代であるが、弘子を失ったことは、特に気力の面で、金の玉の力士としての生命を縮めることになった。そして、金の玉はできるだけ多くの時間を征士郎と一緒に過ごしてやりたい、と思ったのである。
引退後、金の玉は年寄「武庫川」を襲名したが、瀬戸内部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたった。
自らの部屋をもつことはしなかった。部屋を持てば多忙となり、征士郎と過ごす時間が減ることが明瞭だったからである。