68.〈砂痒〉星系外惑星系―2『戦闘空域哨戒、あるいは豚の放牧/要員篇―2』
「どうかした?」
フリーズといった程ではないが、動きを止めてしまった深雪に、実村曹長が声をかけてきた。
呼子を持つ手を宙に、すこし怪訝な顔をしている。
心配させてしまったのかも知れない。
「いいえ」
何でもありませんと首を振り、深雪はモップをとんと床に突き立てた。
床面に膜を張るように、室内全域を覆った液体がピチャンと小さく音をたてる。
脂だ。
深雪は顔をしかめると、唇をへの字にひん曲げた。
やってられない――そう思っていた。
毎日のように掃除をしているにもかかわらず、見渡す限りにおいて室内は脂に塗れ、異臭がし、踏みしめる床面はぬるぬるとして、歩く度にぺちゃぺちゃ湿った音を響かせるのだ。
言わずと、この部屋の主たち――パイロットたちのせいである。
連中は、総じて汗っかきだ。
〈あやせ〉の艦内は、どこも空調が行き届いているにもかかわらず、常に変わらず、だらだらと身体にまとわりつくような気色の悪い汗をかき、始終、ふぅふぅと喘ぐような息づかいで臭い吐息を漏らしている。
人間とは思えないくらいに肥っているから仕方ないのだろうが、かてて加えて、為かあらずか体温も高い。
結果、汗は、より揮発しやすくなり、油分の高い蒸気となって部屋のあちらこちらにへばりつく。
部屋いちめんに霧状の油分がたちこめた状態で、見通しもいまいちきかないし、何より臭くてたまらなくなってしまうのだ。
どこかの過程で濃縮……、煮詰められたと言うべきか――体臭が一段とキツさを増して、科員居室の内部空間を正常な嗅覚を持つ者なら、誰もがいたたまれない濃度に染めあげることとなるのであった。
そして、凝結した湯気が再び液体に戻って滴となるように、過飽和状態となった油分は床面に滴り、そこを脂溜まりに変えてゆくのである。
こうした汚染が、ほんの数日――いや、もしかするともっと短い時間で進んでゆくのだ。
正直、たまったものではない。
微速度撮影などしなくとも、普通にビデオカメラを回して記録をするだけで、室内環境が劣化してゆく様は、きっとわかるに違いない。
一生懸命掃除する。
あっという間に汚される。
一生懸命掃除する。
あっという間に汚される。
一生懸命掃除する。
あっという間に……。
まさしく家政婦の無間地獄である。
それが仕事だとは言え、深雪に限らず、パイロットたちの世話をしている者に共通の、心が折れそうになる、それは現実であった。
(事実、飛行科員に関わる必要のある女性科員たちの間では、そうした課業を『冥土仕事』と呼んでいた。課業を終えて、自分の身体にへばりついた汚れが、いわゆる『冥土の土産』である)
艦に装備されてある半自律式人型汎用作業機械が使えればいいのだろうが、そうもいかない。
極限環境での使用にも耐えうるように出来ている筈なのに、そんなことをさせれば、数回と保たず壊れてしまうからだった。
どうしたって、人間がやるしかないのだ。
深雪でなくとも、ウンザリしてしまう筈だった。
とまれ、
眉をしかめ、やれやれと息をつく深雪。
そんな深雪の様子を見て取って、実村曹長は相手が焦れているものと判断したらしかった。
「もう少し待っててね。お瀆尉様たちを飛行一科のブリーフィングルームまで連れ出してしまうからさ」
ピッピッピッとテンポ良く呼子を鳴らしながら、そう言ってきた。
飛行科員居室に入った女性要員ふたりの内、深雪の仕事が部屋の掃除であるならば、実村曹長の仕事は、三人の男たちをパイロットとしての任務に送り出すこと。
この待機室から外に連れ出すことだった。
鏑木瀆尉を筆頭に、パイロットたちはこれから戦闘空域哨戒に出る。
そこで、待機室から艦載機格納庫まで彼らを連行するのが、実村曹長の本日の仕事だったのである。
深雪は、その後、空っぽになった飛行科の科員居室をひたすら掃除することになっている。
とにかく必死になってやらないと、どんどん自分が(男たちの脂で)汚れて(男たちの体臭に)染まっていくから、まさしく乙女の死活問題である。
いくら仕事を終えた後、たった一人で規定以上の長時間、大浴場を独占使用できるといっても、チッとも全然うれしくない。
そもそも、同室者たちや仲良くなった同僚たちも、深雪が飛行(一)科の科員居室から出て来たばかりと知ると、さりげに距離をとろうと後退るのだ。
理由はわかるし、あからさまに鼻をつままれ、こちらが見ている前で触れた手を手布で拭われるわけでない。
立場を置き換えてみれば、自分だってきっとそうするだろうと確信できるから、そんな引いた態度をとられても、決して相手を怨んだりはしない。
が、
もしも、お当番を代わってくれる人間がいるならば、感謝感激雨霰――その奇特な聖人の要求だったら、きっと何でもきくだろう、と思っているのも、また事実ではあった。
と、
まぁ、そんなこんなで、さっさと掃除に取りかかりたい深雪がしびれを切らし、待ちきれなくなって焦れているのだと、実村曹長は思ったようなのだ。
「いえ、催促してるわけじゃないですよ」
とりなすように手を振り、深雪は言った。
「ちょっと考え事をしていただけです」
そう言いながらも、実村曹長に対して申し訳ない気分になったのは、子供の頃から深雪が縦社会な体育会系の育ち方をしてきたためだろうか。
目上の人間に気をつかわせてしまったと内心焦り、
「それよりも」と続けて、
「瀆尉たちも、いざという時はやるんですね」と、初めて目にするテキパキ動く男たちを横目にしながら、実村曹長の耳許にコッソリ囁いた。
場の方向性を変えようと、別の話題を振っていた。
確かに……、
体格を除けば、確かに、いかにも軍人らしいキビキビとした動作で、パイロットたちは部屋の出口へ向かって行進していっている。
ぶよよんぶよよんぶよよんと、全身の贅肉が前後左右、ついでに上下にゆさゆさ弾んでいるのがなんではあるが、全体的な印象としては、まぁ人並み程度には動けている。
やればできるじゃん、というのが、深雪の感想であった。
が、
「ああ、あれ?」
新たな話題を振られて、深雪が見ている先を同じように見て、
「もちろん違うわよ。連中にあんなことができるわけないじゃない」
しかし、いかにもつまらなさそうな口調で実村曹長は返してきたのだ。
「え? でも……」と言いかける深雪を手で制し、
「垂水瀆尉」
最後尾を行くパイロットに呼びかけると、実村曹長は再び呼子を口にする。
よく見てなさい――深雪に目配せでそう伝えると、何やら呟き、ピッピリピ……と抑揚をつけて、今までにない調子で呼子を鳴らした。
途端、
やおら爪先立ちになった垂水瀆尉が、実に鮮やかなスピンをキメた。
身のこなしも軽やかに、その場でふわりと小さく跳び上がる。
両掌を胸(?)の前で祈りを捧げるかのように組み合わせる。
そして、
一回転、二回転、三回転……。
その体型からして、到底不可能としか思えない高速回転を、しかし、危なげもなく無限に続け、深雪たちの前に披露してきたのだ。
クルクルクルクルクル……。
実村曹長の笛の音に合わせ、いつまでもいつまでも際限なく身体を回転させ続ける垂水瀆尉。
たっぷりとついた贅肉が、遠心力で円盤状にひろがり、バレエの衣装のようにふるふると震えているのが、いっそ幻想的な眺めであった。
やがて、
回転の継続時間が一分、二分とたつにつれ、体温が上昇してきたのだろう、垂水瀆尉の全身からもうもうと水蒸気がたちこめ、煙となってあがりはじめた。時折、ピピッと湯気になりきれなかった飛沫が周囲に飛び散っていたりもする。
十分に離れた場所にいたおかげで、実村曹長にも深雪にも、迸りがかからなかったのは幸いだった。
(これ、ピルエットっていうんだっけ……)
バレリーナのように見事な妙技を目の当たりにしつつ、あまりの異常事態に呆然となった深雪は、真っ白な頭の隅でそんなことを考えている。
あまりのことに、思考がほとんど停止しかかっていた。




