或る月下夜の憂鬱
連載にするか思案中の作品をひとまず短編にして書いてみました。
連載するかもしれないしこれで終わりかもしれない和風物語。
アァ、悲しい。実に憂鬱で不愉快。あまねく星々を押しのけて、天に輝くお月さん。一人歩むは獣道。行きはよいよい帰りは暗い。
いいえ、いいえ。行きだってちっともいいもんじゃありません。だってホラ、さっきから足音がひとつ、ふたつ、みっつ。三人かしら。
「えェ、お兄さん方、いつまでアタシを付け回すんです?」
わざわざこうして人目を忍んで歩いているっていうのに、ずぅっと町から付けて来てる。
「お貴族サマが供も付けず一人で外出たァ。そんなに急いで逢瀬かね」
「危険を犯してまで逢いたい奴ってなァ、たいそう惚れ込んでんだねェ」
下卑た笑い方。ボロボロの着物を尻端折りして、えらく尊大な態度の男ども。風貌からみてもまあ間違いなく賊の類。けれど、持っている武器はそれほど悪いものではないようで。
「急いでいるんです。なンのご用事で?」
「俺達がそいつのとこまで送ってやろうかァ」
これはこれは、どうにも厭らしい目をしていらっしゃる。一体どんな勘違いをなさっているのでしょう。華美な着物を着ている自覚はありますが、趣味なのでどうにもできません。
おまけにこんな夜更けに顔を隠して人目を忍んでいる、なんて。確かに金目のものを持っていそうだとみられてもおかしくありませんけれど。
「いいえ、結構です。大人しく帰ってはいただけませんか」
騒ぎを起こしたところで町からは随分離れてしまったから人がくることはないでしょう。彼らの定石なのでしょうね。えェ、同じ立場なら私もそうします。
「ぶっははははははは。面白ぇ冗談だ。そりゃこっちの台詞さ。大人しくこっちに来なァ。痛いこたァしねえ…っ」
そんな無遠慮に腕を掴むのはよしてくださいな。その態度は構いませんが、そればっかりは着物が汚れるのでやめていただきたい。
ホラ、そんなにぐいと引っ張るから顔が少しみえてしまったじゃありませんか。せっかくお貴族様を装って被衣などと洒落たことをしていたというのに。運のない。
「おお、こいつァ…とんだ上玉だ」
なんて精に満ちたお顔かしら。お若いこと。けれど、これじゃいけません。生きるのに必死なのは誰だっておんなじことですから。何をしてでも生き延びる。そういう生き意地ってものは好きなんですけど。
「気が変わったァ。さぞやいいお育ちのお嬢さんなんだなァ。気の毒だが、女衒に行く前に俺達が遊んでやろう」
「アラ、育ちのいいお嬢さんだなんて…」
ごりゅ。なんてちょっとだけ嫌な音が聞こえた気がしましたけど、気のせいです。お兄さん、腕がトンでもない方向にひしゃげてますけど仕方ありませんよね。あァ、可哀想に。なにが起きたか分かってらっしゃらない?
「あァ本当に可哀想な方々。運のないこと。アタシの顔をみなければ、生きて帰ることができたのに」
「ひっお、おま、お前!!?腕っ腕がァっ」
嫌ですよ、そんなに驚いちゃァ。ほんの少ぅし捻りあげただけじゃありませんか。
「ふふ、ふふふ…お生憎と。アタシは溝で育った溝鼠。見た目に騙されちゃァいけません」
「あ…あんた、お、男か…!!?」
「やっとお気付きで?旦那方」
ようやく気付きなすったようで。汚れてしまっては嫌ですから被衣は脱ぎ去りましょう。あァ、とてもいいお顔だこと。怒りと恐怖と…あとは、何かしら。
この出会いが今この瞬間でなかったならば。お相手して差し上げたって良かったんですけれど。そう、出会った時が悪ぅございました。
「て、めえっ騙したなクソ野郎!!!女々しい格好しやがって!!その綺麗な顔ずたずたにして奴隷商に売り飛ばしてやる」
「騙したなどと、勝手に騙されなすったのはそちらサマで」
いい武器だ。しかし、刃先がどうにも研ぎが甘い。それじゃあせっかくの武器もただの鈍と変わらない。武具はきちんと手入れしてこそ真価を発揮するのです。おそらくどこかで盗んだものでしょう。
造り自体は一級品だ。そこらのゴロツキが手に入れられるような一品じゃありません。なんと勿体ないことか。
悲しいこと。実に悲しいこと。アタシの顔さえ見なければ、ここらで見逃して差し上げても良かったというのに。所詮、どれだけ忠告しようともこういう輩は聞き分けが悪いのが多くていけません。
「そちらにはそちらの事情がおありでしょうが、アタシにもアタシの事情ってぇものがあります。お覚悟を」
武器の扱いも碌に分かっちゃいないらしい。アタシがちょっと懐に入り込んだだけで簡単に手放してくれてしまってはなんのやりがいもないのですけれど。
「クソっお前ひとりで―」
なんてうるさい口かしら。奪い取った彼の武器を咥えさえて差し上げたら動かなくなってしまいました。
「言ったでしょう。アタシは急いでいるんです」
「ひ…」
残った無傷の男は一番気の小さそうだ。喉から悲鳴が漏れたのがはっきりと聞こえましたから。というか、いま二人を置いて自分だけ逃げ出そうとしていらっしゃったのかしら。
腰を抜かして地面に伏した姿は滑稽に見えてしまいますね。力無きものと勘違いして害そうとしてきたのはそちらだというのに。なんて理不尽なこと。
尚も逃げようとするのは少々醜いというもの。アタシが言えた立場じゃありませんがなんて考えてたらいつの間にか彼も息絶えて。
「あ、が、はっ…その目、金の双眸」
「おやァなんです。アタシのこと、知ってらしたの」
血濡れた刃の先がいまにも喉を裂きそうというのに、なんていい目をしているのでしょう。アタシの正体を知りながらこういう真っ直ぐなめは嫌いじゃありません。
「女のような、美しい容姿をした…金の目の男が、いると。噂を聞いたことがある…」
美しい、だなんて。血生臭さの中にいるというのに少しだけ笑ってしまったのは仕方のないことでしょう。
「あんた…胡蝶、か」
あァ、赤が舞う。唖然とした顔、ほんと勿体ないくらいいい反応をしてくださって。今、アタシはどんな顔をしているのでしょうね。その名を口にしなければ、もう少しお話していても良かったのに。いえ、やはり急いでいる途中でしたね。
「行きはよいよい帰りは暗い。ま、どうせアタシには戻れる道なんぞないのですが」
片付けはせずとも獣の餌か、ここを通る奇特な人間が見つけるか。この武器はもう必要ありませんから置いていきましょうや。良かった、着物に汚れは無いようですね。
待ち人が待ちくたびれてアタシの首が撥ねられては堪りません。急がなくては。
「アタシが向かってるのは、地獄への入り口なンですから」