第三幕・ジークフリート編 第四話 心惑わす復讐心
呪いから無事に解放された二日後。私はやっと悪夢の後遺症が消え、ジークフリートとも普通に接することができるようになった。ここ二日間は、悪夢で体験したジークフリートのことが頭の中でチラつき、どうしても彼と接する時に及び腰になってしまっていた。
(悪夢の中のジークは本当に怖かったからなぁ。殺気もすごいし毒も吐くし、挙句の果てには平然と大剣で斬ってきたし。普段優しい人は怒ると怖いって聞くけど、あれはもう別人だよ。現実でまた『黙れ。目障りだから消えろ。生意気な小娘が』なんて言われたら、もう私号泣するね…)
私は城の廊下を歩きながら、悪夢でのジークフリートを思い出して身震いする。
今私は城の東にある半壊した訓練場を目指して歩いている。今朝魔王に呼び出され、ジークフリートと共にある戦場の援軍に行くよう頼まれたのだ。私はこの二日間大事を取って休ませてもらっていたのだが、ジークフリートはカイトたちの援軍に派遣されていた。彼はカイトたちの援軍を切り上げ、もうすぐこちらに戻ってくる手筈となっている。訓練場で合流したら、すぐに次の戦場に向かう予定だ。
(本当にジークは働き者だよね~。散々戦場で戦った後に、毎日報告のために戦場と城を往復して疲れてるだろうに。休む暇もなく次の戦場に向かわされるなんて。……やっぱり魔王軍はブラック企業だ。早く戦争を終わらせてジークにまた休みを与えなくては!)
サラマンダーとの戦いで半分崩落した訓練場に着いた私は、妙な使命感を帯びながらジークフリートの帰還を待った。
それからしばらくした後、ウィンスに跨ったジークフリートが猛スピードで空を駆けて来た。訓練場でポツンと一人で待っている私の姿を見つけるや否や、更にウィンスは速度を上げてこちらに急降下してきた。私は一瞬このまま激突されるのではないかと思ったほどだ。もちろん実際はそんなことはなく、最後はちゃんと翼で速度調整して私を少し横切ったところに着地した。
「すまないえり殿!だいぶ待たせてしまったか」
兜を被っているので表情は見えないが、ジークフリートの声はかなり焦った声だった。
「ううん、全然待ってないよ。むしろ急がせちゃってごめんね。連日長距離移動したり戦って疲れてるのに」
私が申し訳なさそうに言うと、ジークフリートは首を左右に振って何でもないように答える。
「いいや。俺は特段疲れていないが。人間の時より体力は増えているからな。むしろそういう意味ではウィンスの方が疲れているだろう。俺を乗せて飛んでいるし、いくら神の使いとはいえまだ子供だからな」
ジークフリートはウィンスから下りると、その頭から鬣にかけてゆっくり優しく撫でた。ウィンスは嬉しそうに一つ鳴いたが、自分はまだまだ元気だと首と前足を上げてアピールした。
(記憶の中で話したウィンスの声は少年のような声だったもんね。まだ子供のペガサスなんだ。……それにしては体はそれなりに大きくてしっかりしているけど)
「ウィンスって子供の割にはもう結構体大きくない?ペガサスって普通どのくらい生きるの?」
「あぁ、子供と言っても成人の一歩手前といったところか。元々俺の父の代からウィンスに乗っていて、その頃は長く飛んだりできなかったんだ。翼が成長しきっていなくて負担をかけられなかったから。今はもう成人に近づいて体もほぼ出来上がっているから問題ないが。一般的にペガサスは千年以上生きると伝えられているな」
「千年!?ふぁ~。長生きだね~、ウィンス~」
私もジークフリートにならい、感心しながらウィンスの頭を撫でる。おじいちゃんが三百年以上生きている時も驚いたが、ペガサスはそれ以上の衝撃だった。
「えり殿。一度ウィンスに水と食料を与えてから戦場に向かってもいいだろうか」
「もちろん。ウィンスと一緒にジークも少し休みなよ」
そういうわけで、ウィンスの休息後に城を発つことになった。
ウィンスが水と野菜や果物を食べているのをじっと見ていたジークフリートは、ふと私の方をチラッと盗み見た。私がその視線に気が付き首を傾げていると、彼が安心したように口を開いた。
「もうすっかりいつも通りに戻ったのだな。昨夜会った時も大丈夫そうではあったが」
彼が私を盗み見たのは、私が怯えていないか確認するためだったらしい。呪いの後遺症のせいで、彼にはずいぶんと失礼な態度を取ってしまった。
現実のジークフリートは私を助けるために、またしてもかつての部下であるアレンをその手に掛けてしまったと聞いた。過去では力になれなかったが、今度は力になると言ったくせに、肝心な時に私は彼の力になることができなかった。ただただ後悔しかない。わざわざウィンスに過去を見せてもらったというのに何の意味もない。
「色々ごめんねジーク。ジークは何も悪くないのに、私ひどい態度ばかり取って」
「えり殿が謝ることはない。全ては呪いのせいなのだから。一体あの呪いで何人もの人間を不幸にすれば気が済むのだ」
兜を取っていたジークフリートは、茶色の前髪を掻き上げて頭を押さえる。その横顔には憎しみと苛立ちが宿っていた。
呪いから解放された次の日、あの呪いを生み出した元凶が今敵対しているクロウリーだと魔王から聞かされた。すぐにでもクロウリーを倒すべきだと伝えたが、ことはそう簡単に運ばないということは前々から聞かされていた。下手にクロウリーを討てば、反魔王派の反感を買って大変なことになる。せめてクロウリーを除く七天魔全員を味方につけてからでないと動けないとのことだった。
そういうわけで、私たちはこれからネプチューンの戦場に行くことになっている。
「……それだけじゃないよ。いくらでも力になるとか大口叩いたのに、肝心な時にジークの力になってあげることができなかったから。ごめんね、私のせいでまたアレンと戦うことになっちゃって」
「…なんだ、そのことを気にしていたのか。大丈夫だ。お互い納得して最後は戦いあえたからな。アレンは俺に対する復讐心という目的でずっと腕を磨いてきたようだったが、それでも以前より強くなったアレンと戦えて、俺はかつての上司としてその成長が嬉しかったし、再びアイツと手合わせできて良かったとも思っている。アレンの命を救えなかったことは確かに残念だが、それをえり殿が責任を感じる必要はどこにもない」
ジークフリートはそう言って私に微笑みかけた。
口では吹っ切れているように言っているが、本当のところはわからない。ジークフリートはとても真面目な性格で責任感が強い。大事な部下を二回も手に掛けたのだ。大丈夫なはずがない。しかし、本人が私に気を遣ってここまで言ってくれているのだ。これ以上アレンのことに口を出すべきではないだろう。
「…今度はいざという時絶対に力になるから!遠慮せずたくさん頼っていいからね!」
「あ、あぁ。わかった。その時は頼りにさせてもらう」
私が身を乗り出して意気込むものだから、ジークフリートは若干気圧されながら苦笑いで答えた。
その後私たちは雑談をしながらウィンスを軽くブラッシングし、次なる戦場へと飛び立つのだった。
ネプチューン軍の戦場であるヤマトの国へとやって来た私たちは、上空から戦場であるシラナミ海岸を見下ろした。もう朝はとっくに過ぎているのでてっきり戦闘中なのかと思いきや、海岸は静かなものだった。魚人族の影はどこにも見当たらず、ヤマト水軍の者たちがせっせと壊れた船の修繕を行っている。
「あれ?魔族はどこにもいないね。今日は攻めてこないのかな」
「報告によると、三日ほど前から戦術を変えてきたそうだ。隠密の能力を持つ殿様に少しでも対抗するため、日が落ちてからネプチューン軍は攻めてくるようになったそうだ。夜の闇に紛れれば少しは被害を減らせると思ったのだろう」
「なるほど。じゃあ今日も夜になったら攻めてくるってことね」
「あぁ。だからそれまでに色々と打ち合わせる必要がある。俺たちはまだここの詳しい戦況を知らないからな」
地上で私たちの姿に気が付いた数人が、慌てた様子でどこかに走って行く。おそらく殿様である凪に知らせに行っているのだろう。
私たちはひとまず海岸の開けたスペースに降り立つと、星の戦士の凪と佐久間と合流するため兵が走り去った方向に向かって歩き出した。
海岸線から少し離れた陸に、人間側の陣地がいくつか張られていた。見たところ兵糧や武器が置いてある場所と怪我人の収容所、軍議を行う場所と分かれていた。私たちはその一つである軍議を行う陣幕に入ると、中で待ち構えていた凪と佐久間に挨拶を交わした。
「お久しぶりです。凪さん、佐久間君。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、援軍に感謝するでござるよ。しかし、神谷殿はクロウリーの呪いに掛けられて大変だったと聞いているが、もう体の方は問題ないのでござるか」
殿様は気遣わし気に小首を傾げた。一つに結い上げた長髪がサラッと流れる。女の私より綺麗に手入れされているのではないかと思ってしまった。
「心配していただいてありがとうございます。もうトラウマの後遺症も克服しましたので大丈夫です」
「トラウマの、後遺症?」
何だそれはと佐久間が聞き返してきたが、それはまたの機会にゆっくり話すことにした。今は目先の戦の方が大事である。
まず私たち二人は昨日までの戦況結果の説明を凪の口から受けた。凪の話によると、夜戦になってからは戦況が魔族有利に傾いているという。それまでは五分五分の戦いを繰り広げていたのだが、夜だと敵の攻撃に反応するのが一瞬遅れてしまうらしい。凪ほどの実力者ならば、普段から視覚に頼らず相手の気配を読んで行動しているため昼間通り戦えるのだが、他の者はそうはいかない。未熟な武士であればあるほど、後手後手に回って討たれてしまうそうだ。
ヤマト水軍は主に四つに軍が分けられている。凪直属の武士で、全員が居合を扱うことができる実力ある武将集団。次に工作や攪乱、情報収集が得意の忍び集団。そして船上での戦いを得意とする水軍の要、弓矢や砲撃を得意とし、船を操る操舵も極めた投擲集団。最後にどこにも属さない白集団。彼らは陸では騎馬に乗って戦ったりもするが、大半は下級武士や徴兵されて集まった民たちが多い。他の三つの集団の戦力としてくっつけられる者たちだ。
夜戦になってからはこの白集団の被害が一番多いそうだ。白集団は一番数が多いが、実力は一番下だ。慣れていない夜戦でもあり、魚人たちの恰好の餌食になっている。逆に暗闇を得意としている忍び集団があちこちで攪乱を行い、被害を最小限に食い止めているのだという。
「夜と昼間じゃ全然勝手が違うもんね。いくらところどころに篝火を焚いてるにしても、夜じゃほとんど真っ暗でしょ。ただでさえ足場の悪い砂浜や船の上で戦ってるし。…ところでジーク、魚人族って夜目も利くの?」
「いや。人間とそこまで変わらなかったと思うが。しかし、彼らはああ見えて嗅覚も優れている。匂いで居場所を探ることは容易だろう。それに、彼らの住んでいる魔界の領域はキュリオの治める暗黒地帯の隣だ。魔界で戦争をしていた時期は隣り合っている暗黒地帯での戦闘も多かったと聞く。暗闇での戦闘には慣れているだろう」
「う~ん。ますます分が悪いねぇ」
私は渋い表情で腕組みをする。
「夜だと投擲部隊が機能しなくてな。船上では専ら白兵戦になるでござるよ。そうなると力のある魚人族が自ずと有利になる。拙者直属の武将たちも奮戦してくれているが、それでも劣勢は変えられぬ」
「挙句の果てに昨夜はネプチューンの奴が巨大な鉄砲水を何発もぶちかましてきて、そのせいでこっちは船が何隻もやられたんスよ」
私は佐久間の言葉に、先ほど上空から見た修理中の船を思い出す。結構派手に壊れている船も見受けられたが、そういうことだったのかと納得する。
「神谷殿やかつて聖騎士として名を馳せたジークフリート殿のお力添えで、なんとか現状を打破できるとよいのだが」
カイト辺りからジークフリートの正体を聞いていたのか、凪は期待をするように視線を送る。
「……もうご存知の通り、俺は魔族だ。全力は尽くすが、昔のように魔族を打ち払う力はないぞ」
「それは心得ておる。しかし、浄化の力はなくとも、聖騎士として培った経験はそのままでござろう。類まれなる剣技と判断力、そして他を束ねる統率力も見事なものだったと伝わっている。拙者も武を極める者として、そなたの剣技、楽しみにしているでござるよ。機会があれば、いつか手合わせもお願いしたいでござる」
凪はどこかわくわくした様子で微笑む。周りに控えていた兵たちは、殿のまた悪い癖が出ていると言葉を交わし合っていた。落ち着いた優しい雰囲気とは裏腹に、実は血気盛んな人なのかもしれない。
「そういえば、神谷さんの能力って何なんスか。カイトさんからも聞いたことないけど。魔王が援軍で寄こしたってことは、かなり強い能力ッスか?」
期待に胸を膨らませる佐久間に、私は何とも言えない表情を作る。自由度の高い能力だが、私の能力には回数制限という厄介なものがある。そんなに期待のハードルを上げられるとデメリット部分を話しづらくなる。その場にいる全員の視線を受けながら、私は居心地悪そうに口を開いた。
「えぇっと、私の能力は妄想を現実にする能力です」
「妄想を、現実に…?何スかそのチート能力!最強じゃないッスか!妄想で何でも現実にし放題ってことでしょ!?てことは、ネプチューンが死ぬ妄想をすれば一発じゃんか!いや、待てよ…。もしかしてその能力で、死んだ日向さんを生き返らせることもできるんじゃ!」
「す、ストップ!ストーップ!佐久間君が思ってるほど万能な能力じゃないから!妄想を現実化できるって言っても、きちんと細部まで妄想できていないと失敗しちゃうから。経験したことや見たことがあるもの、強い想いとかないと成功しない能力なの。何より……、一日三回しか使えない能力だから、役に立てる場面は限られてる」
すっかり興奮していた佐久間は、みるみるうちに萎んでいった。やはりハードルを上げ過ぎるのはよくない。
「ふむ。一日三回妄想を現実に反映させる能力でござるか。実に不可思議な能力に目覚めたな神谷殿は。ニコ殿の能力となかなかいい勝負でござる」
「一日三回だけって、かなり微妙な能力じゃないスか?なんか妄想も色々制限ありそうだし。早い話、三回使い切ったら神谷さんはただの人ってことでしょ」
「うっ!いきなり痛いとこ突くわね。確かに佐久間君の言う通りだけど、この私もいつまでも弱点をそのままにしとく訳にはいかない。今回はなんと!その弱点を補うために、事前に能力を使って私専用の武器を現実化させてきました!」
私は人差し指を前方に突き出し、えっへんと胸を張った。
前回ジークフリートと一緒に戦場に行った時は、回数制限を気にしてあまり援護をすることができなかった。一緒に戦場に立つ以上、いつまでも彼の足手まといにはなりたくない。何より、自分の身くらい自分で守れないと、またこの間のように敵に連れ去られる羽目になる。今度こそ肝心な時に彼の傍にいられるよう、自衛手段を確保したのだ。
私は三人に見えるよう、首に付けているネックレスのパーツを指で掴んでみせる。
「それは……、筆をモチーフにしたネックレスか?変わったデザインだな」
絵描きのジークフリートはすぐにそのパーツを言い当てた。
私はニコッと笑うと、その小さな筆を指でネックレスから引き千切る。すると、たちまち筆は私の手の中で大きくなり、クルクル手で回せそうなバトンくらいの大きさになる。特に穂首の部分はミニサイズだった時と比べてフサフサで、絵筆というより垂れ幕に文字を書く時に使いそうな極太の習字用筆だった。
私は自慢げにその新しい武器を三人に見せつける。
「これぞ、私が今朝苦労して生み出した武器、魔法の筆です!」
「…はぁ。それで、どんな効力があるんスか?魔法の筆ってことは、描いたものが意思を持って動き出すとか?なんかそんな漫画ありましたよね?」
「うーん。惜しい!この筆はね、色によって属性の違う魔法を撃ち出すことができる筆なんだ!見ててね!まずは~、黄緑!!」
私の意志に従い、筆の毛先が黄緑色の絵の具を付けたみたいに変化した。私はそのまま空中に色付けするようにぐるぐる円を描く。すると、空中には黄緑色の絵の具がベタッと塗られた。最後にそれを筆で叩くと、そこから一陣の風が発射された。黄緑色を纏った風は、かまいたちのように鋭く斬り裂く疾風の刃だった。
「どおどお?それなりの威力のあった風の魔法でしょ?円を描く大きさによって威力も変わるんだ。お次はコレ!」
今度は筆の色が赤に変わる。私は先ほどより大きな円を上空に向けて描き、赤で空中をサッと塗りつぶす。そして再び筆で叩くと、そこから大きな炎の弾が発射された。炎の弾は斜め上空に飛んでいき、爆発音を伴って掻き消えた。
魔法の筆の威力を目の当たりにしたみんなは、ポカンとした口を開けて目が点になっていた。
「や、やっぱりチート能力だ。魔法使ってんのと変わんねーじゃん!何だその筆!俺も欲しいんスけど!」
「あ、ダメダメ!これ私専用だから。敵に悪用されないように、私しか使えないよう妄想した時に設定したから」
「何スかそれ~!ずりぃ~!」
異世界人同士でわいわいはしゃぐ二人を見ながら、年長者二人組は落ち着いて戦力分析をしていた。
「今日の能力を使える回数があと二回だとしても、あの筆があれば神谷殿は十分戦えるな」
「あぁ。俺も傍に付いているから問題ないだろう。でもまさか、あれほど強力な武器を生み出すとは」
ジークフリートはたった今見た光景を思い出す。
「妄想からあの武器を生み出したということだが、神谷殿の想像力はとても豊かなのだな。筆を武器にしようなどとは、拙者なら一生思いつかぬ」
「こっちの世界の人間だったらそうそう思いつかないッスよ。俺たちのいた世界なら、筆を武器にして戦うキャラクターぐらい漫画やゲームでいましたもんね。……ていうか、もしかして神谷さんてオタクなんスか」
佐久間の問いかけに、私は満面の笑みでしらばっくれる。
「ううん。いたって普通だよ。でも上に兄が二人いるから、同年代の女子よりかはそういうのに詳しかったかもね」
「へぇ~。兄貴が二人いるんスか」
私のスムーズな受け答えに、佐久間は何も怪しまなかったようだ。別にオタクとバレてもこの世界なら何ら問題ないと思うが、万が一佐久間もオタクだった場合、変にオタクトークで盛り上がってしまう可能性がある。それで傍にいるジークフリートにドン引きでもされた日には凹んでしまうだろう。せっかく克服した後遺症がぶり返す勢いだ。
(どうせならジークには良く思われていたいもんね)
別にジークフリートに恋をしているというわけではないが、最近はよく一緒に行動しているので変に思われたくないだけだ。特別な感情はない、はずだ。
「それにしても筆の武器か。絵を描く俺としては、とても親しみが持てるな」
ジークフリートは私が手に持つ筆を見つめると、どこか嬉しそうな表情をしている。
「えっと、おじいちゃんの魔法みたいのを制限なく使えたらいいのにって想像したんだ。最初は魔法を撃ち出す銃を考えたんだけど、そこから今までの思い出とかを振り返ってたら、ジークがお休みに絵を描いてたことを思い出してね…。ずっと働き詰めのジークのために早く戦争を終わらせて、また絵を描くところが見たいなぁって妄想してたら、自然と武器の方向性がこうなりました」
最後の方は照れてどんどん声が小さくなってしまった。きっと私は今耳まで赤くなっているだろう。鏡を見なくてもわかる。
(私ってば正直に何を言ってるんだろう。オタクとか関係なくドン引きされたかも。自分のこと思い出されて妄想されたら気持ち悪いって思うよね)
私は心の中で自己嫌悪に陥った。
そんな私にジークフリートはフッと笑うと、優しい声音でこう言った。
「俺との思い出からこの武器は作られたのか…。そういうことなら、頑張って早く戦争を終わらせないとな。せっかくだから今度はえり殿をモデルにして描こうか」
「え、えぇ!?私をモデル!?それはちょっと…。私には到底務まらないと思う」
「大丈夫だ。途中途中休憩を挟みながら描くから問題ない」
到底務まらないという意味をジークフリートは違う意味で解釈したようだ。モデル中は動いてはいけないから私では無理だという意味で受け取ったようだが、私は自分には魅力も華もないからモデルには向かないという意味で言った。
ちぐはぐなやり取りを続ける私たちを、殿様と日の浅い側近は面白そうな目で眺めていた。
「あの二人、付き合ってるんスかね」
「う~ん。神谷殿は好意を抱いているように見えるが、ジークフリート殿は真面目で堅物のようでござるからなぁ。きっと気づいてないでござるよ」
「兜被ってるからわからないけど、硬派そうですもんね」
それから私たちは今夜の作戦や陣立てを考え、ネプチューン軍との戦に備えるのだった。
日が沈み、各所に篝火が焚かれた頃、海の向こうから波に乗って魚人族の大軍が現れた。夜の海は暗くてよく見えないが、大きな塊が続々と陸に向かって来ているのはわかる。
私が緊張に胸を押さえていると、横にいた凪が佐久間に注意を促していた。
「勇斗、今回は援軍として神谷殿やジークフリート殿にも来ていただいている。くれぐれも復讐心に我を忘れて突っ走ってはならぬでござるよ。勇斗のみならず、周りの者にまで危険が及ぶ」
「…わかってます。アイツを見かけても我慢ですよね。我慢我慢。俺の能力は溜め込めば溜め込むほど強力ですから、せいぜい我慢して溜め込んで、最後にアイツに強力な一撃をお見舞いしてやるッスよ」
佐久間は拳を握りしめて目をギラつかせた。その瞳には、つい最近身近で見た憎しみの炎が宿っていた。
私の不安な心が伝わったのか、ジークフリートは小声で話しかけてきた。
「佐久間殿が憎しみを抱いている相手は、確か以前凪殿の側近を殺したネプチューンの腹心だったか」
「うん。佐久間君のすごくお世話になった人が殺されて、剣の師匠でもあったって凪さんが言ってた」
「そうか…。それは、辛いな。大切な人が亡くなるのは、誰にとっても哀しく辛い事だ。だがしかし、復讐に囚われると身を滅ぼすことになる。俺も先代の魔王様にそう諭されたし、アレンの末路が身をもってそれを示している。まぁアレンの復讐心は呪いのせいでもあるが」
ジークフリートは声を沈ませながら言う。
彼は少し考える素振りを見せた後、佐久間の正面へと移動した。
「佐久間殿。俺からも一つ忠告させてもらおう。俺の詳しい過去は話していなかったが、俺はかつて、七天魔の一人クロウリーの手によって国を滅ぼされた。その時に聖騎士としての力も失い、魔族となった。魔族になってから復讐することももちろん考えたが、先代の魔王様に止められたんだ。今の佐久間殿のようにな」
ジークフリートはチラリと凪に視線を移す。凪はそれに一つ頷いて答えた。
「復讐に心が囚われている時は、視野が狭まり周りが見えなくなる。己の力量に関わらず、復讐相手に後先考えず向かって行くものだ。そうなれば最後、仇を取る前に自分の身を滅ぼすことになるぞ。気をつけることだ」
「クロウリーがジークフリートさんの仇って…。え、今までクロウリーと会う機会はなかったんスか?魔族になってからもう何十年も経つんでしょ」
「会う機会ならしょっちゅうあったぞ。なにせ俺は魔王城の門番をしているからな。七天魔の定例会議の際は必ず顔を合わせていた」
「そ、それなのにずっと我慢してたんスか。会っても平然として?」
佐久間は信じられないという顔をジークフリートに向けた。
私は過去の記憶でジークフリートが復讐に駆られて先代魔王に剣を向けた時の事を思い出す。まるで抜け殻のような状態だったのに、先代魔王に煽られた彼は憎しみに囚われすごい剣幕で襲い掛かった。その光景を目にしたことがある私は、ジークフリートが普段どれほど我慢していたのかがわかる。いくら先代魔王に諭されたからと言っても、クロウリーと顔を合わせる度にその心は荒れ狂っていたに違いない。だからこそ、佐久間の今の気持ちが彼にはわかるのだろう。
「平然…、と周りには思われるように振る舞ってはいたな。だが、心中はいつも穏やかじゃなかった。お仕えしていた国王や姫、部下たちや国民全員の命を奪った男だからな。いつも兜の下で奥歯を噛みしめていた」
ジークフリートは一度そこで言葉を切ると、佐久間の肩に手を置いた。より彼の心に言葉を響かせるように。
「そこで自分の気持ちを優先して復讐を果たそうとしても良かったのだろうが、俺も聖騎士の力を失った今の自分ではクロウリーには勝てないと頭では理解していた。それでも命を投げ打って一矢報いる道もあるだろう。だが、それをすればまた別の者に哀しみを背負わせることになると先代の魔王様に諭された。こんな俺でも、今死ねば魔王様の御心に影を落とすことになる。お優しい方だからきっと今後も引きずってしまうだろう。これ以上、クロウリー絡みで哀しみを背負う者は増やしたくはない」
哀しみの連鎖。復讐が復讐を呼び、終わりのない螺旋のように続いていく。これは個人間だけでなく、時には一族を巻き込み、村や街に広がり、国や人種を越えても発生する。最悪血で血を洗う戦争へと発展するのだ。奪われた人々の哀しみや怒り、復讐の炎は、そう簡単に消えるものではない。しかし、どこかで断ち切らなければ永遠に続く業となってしまう。
「…佐久間殿の復讐を否定するつもりはない。俺にもその気持ちは痛いほどよくわかるからな。だが、凪殿が止めるくらいだ。佐久間殿の今の力量ではまだ勝てる相手ではないのだろう。ならば、あまり無茶はしないことだ。今ならばもう、佐久間殿を失ったら悲しむ者の一人や二人いるだろう」
「ジークフリートさん……」
佐久間は同じ復讐心を持つ者の言葉で心が動いたようだった。ジークフリートの低音で落ち着いた声はスッと頭に入りやすく、それでいて優しい口調のためすんなり受け入れられたのだろう。
戦いの直前で佐久間の逸る心が落ち着いて凪もほっとしたのか、柔らかい笑みを浮かべて未熟な側近を茶化した。
「勇斗が死んだら拙者が悲しむのはもちろんだが、一番悲しみ傷つくのは桃華でござろうなぁ」
「ちょ、何言ってるんスか凪さん!姫様は別に、俺がいなくたって、どうも、しないですよ」
明らかに動揺してしどろもどろになる佐久間を見て、私の目が怪しく光った。追及モードへと移行する。
「なになになに!お姫様って!佐久間君てどこかのお姫様と良い仲なの!?」
「エ!?いや、だから違いますって!何でもないッスよ!」
ずっと静観していた私が突如グイグイ言い寄って来たため、佐久間は焦りながら言い訳する。
「桃華は拙者の年の離れた妹でござる。勇斗の世界の話を聞くのが好きで、いつも二人仲睦まじくしているでござるよ」
「なるほどなるほど。それはぜひとも詳しい話を聞きたいですねぇ」
「凪さん!余計なこと言わなくていいッスから!ほら!もう敵は目前ですよ!集中してください!」
顔を赤くして照れている佐久間にせっつかれ、仕方なく私は戦闘に集中することにする。
(この戦いが終わったら根掘り葉掘りゆっくり聞かせてもらいましょう。異世界に召喚された人間が異世界でお姫様と恋に落ちる。なんてド定番な展開!ぜひとも佐久間君にはそのままハッピーエンドに突き進んでもらわねば!)
私はいざとなったら恋のキューピッドをせねばと心に誓うのだった。
夜の海にヤマト水軍の船が複数浮かんでいる。船の上には投擲部隊と武将部隊がそれぞれスタンバイしており、作戦決行と同時にいつでも動けるようになっていた。
私たちはその船の一つに乗船しており、どちらかと言うと陸地に近い船に乗っていた。今はまだネプチューン軍をおびき寄せている段階で、こちらは特に目立った動きを見せていない。十分ネプチューン軍が自陣内に進軍してきてから作戦を決行することになっている。今回の作戦でネプチューン軍の戦力を大幅に削り、私たちはこの戦いに終止符を打とうと考えていた。
「先頭の船が交戦を開始したみたいだね。暗くてよく見えないけど、敵がかなり多そう」
私は風に乗って届く争い声を聞きながら、前方に目を凝らしてみる。
「目には見えないが、気配がそこら中からしている。神谷殿の言う通り、かなりの兵力を揃えてきているようだ。まぁ、こっちとしては好都合でござるが」
「一気に一網打尽にできますからね!あいつらが逃げないように、少しずつ後退しながらもっと奥深くに誘い込むんスよね?」
「あぁ。なるべく被害が出ないよう防戦しながら後退し、陸地付近まで来たところでえり殿の能力を発動する。そこから俺とえり殿は空中から敵兵の足止めに当たるから、佐久間殿たちは逃げようとする敵の背を討ち取っていけばいい。敵が能力発動で動揺している間になるべく多く戦力を削るんだ」
「敵が態勢を整える前に勝負を決する。今回の作戦は速さが命でござるな」
凪は話しながら近くの兵に合図を出す。すると、ゆっくり船が後退をし始めた。私たちの船が後退し始めたのに気づき、周りの船も徐々に後退し始める。魚人族と交戦している前方の船も、敵に圧倒されて撤退しているように見せかけて陸地へと船を進める。
前方の船にある程度の魚人族が飛び乗り襲撃し終えたため、次は中盤の船に狙いを付けて魚人族が襲い掛かり始めた。魚人族は暗い海の中泳ぎ、突如海から飛び出して船に飛び移って来るようだ。
そう離れていない場所から悲鳴や怒鳴り声が聞こえ、私は思わず体をビクッと跳ねさせる。それに気づいたジークフリートが、私の頭に手を置いてそっと撫でた。
「大丈夫だえり殿。もし魚人族が襲い掛かってきてもこの俺が指一本触れさせない。魔王様にも懇々と説教されたからな。守るべき大事なものからは目を離すなと。この間のように、もう人任せにはしない」
「…ジーク。ありがとう…」
私は頬を染めながら軽く俯いた。今が夜で本当に良かったと思う。もし真昼間だったら一目で顔を赤くしていることがバレていただろう。
ジークフリートは前回カイトに任せて私を連れ去られたことを反省したのか、今日の作戦ではずっと私の傍にいてくれることになっている。
「ジークフリートさん、サラッと恥ずかしい台詞言いますね~。俺にはとても無理ッスわ」
「ジークフリート殿は紳士な騎士でござるからな。勇斗なら恥ずかしくて口にできない素直な気持ちも、彼ならば自然と口にできるのでござろう」
「…でも、女からしたら勘違いしそうですよね。好意を抱いてるのかと錯覚するッスよ。お気の毒に」
佐久間は憐みの目を同じ異世界人に向ける。
「優しすぎるのも困りものでござるな。これからも神谷殿は苦労しそうだ」
凪は天然で鈍そうな魔騎士を見て苦笑いする。
中盤に位置していた船が一通り魚人族に襲われたのを見て、更に凪は兵に合図を出した。私たちが乗っている船はどんどん後退し、浅瀬まで達した。もう船から下りて陸地を目指してもすぐ着く距離だ。
私は陸地に見える篝火でこことの距離を測り、だいぶ奥まで敵を誘い込めたのを確認すると、精神を集中して作戦準備へと取り掛かった。
「凪殿、佐久間殿。えり殿が能力発動の準備に取り掛かった。能力が発動次第、俺たちはペガサスに乗ってここから離脱する。二人とも、くれぐれもネプチューンとは真正面から当たらぬようにな」
「心得ているでござるよ。あの女王は一筋縄ではいかぬからな」
凪は兵に再び合図を出す。兵は船に積み込んでいた筒状の物から飛び出ている導火線に火をつけると、手っ取り早く周囲の船に合図を出した。数秒後、夜空に一筋の光の弾が走り、そして赤い花が咲いた。見慣れぬその光景に、魚人族は何かの合図と捉える者もいれば、広範囲を照らす灯りと思う者もいた。少なからず敵に動揺が走る。
「これで作戦決行目前と言うのは味方に伝わったッスね。この船にも敵が押し寄せて来たし、順調じゃないスか」
佐久間は腰から刀を抜くと、海から這い上がってきた魚人族を睨みつける。ジークフリートと凪もそれぞれ武器を手にし、蒼白の光を放ち始めた私を庇うように前に出た。
「えり殿の妄想が終わるまで敵兵を近づかせるわけにはいかん。何としてもここは死守するぞ」
「改めて言われなくてもそのつもりッスよ!」
佐久間は群がって来る魚人族に向かって行こうとするが、それをすぐさま凪に止められる。凪は佐久間を私の守りにつくよう命じると、隠密能力で姿を消して敵の掃討に移った。佐久間が出張るより自分が動いたほうが敵を早く仕留められると思ったのだろう。実際凪の居合は強力で、敵が次々と倒されていく。船の上には数個の篝火しかないと言うのに、凪は普段通りの実力だった。
佐久間は目に見えない隠密殿様に向かって口を尖らせる。
「凪さんが先頭きって戦ったら、俺の出る幕がないじゃないッスか」
「本当に見事なものだな。凪殿の太刀筋は。こちらから手合わせをお願いしたいくらいだ」
ジークフリートは私を狙って近づく魚人族を斬り捨てながら言う。佐久間は殿様が褒められて嬉しいのか、少し自慢げな表情をしている。
(みんなが時間を稼いでくれている間に妄想を固めないと。まず昼間周囲を歩き回って把握した地形を思い出して、そこから見える景色を頭の中で効果範囲として指定する……。よし、そこから肝心の現実化したい妄想をイメージして……。昼間目に焼き付けた光景を蘇らせる。疑う余地なく、それが当然のように存在するよう信じる!)
私の集中力と妄想は最高潮に到達し、夜の闇を照らすように蒼白の光が辺りに満ちた。
魚人族は慌てて私を妨害しようとするが、ジークフリートたちが立ち塞がり為す術がなかった。
「よし!みんないくよ!『昼夜逆転!!』」
私は溜め込んだ妄想を現実へと解き放つ。私が体から発した蒼白の光は、あらかじめ妄想で指定した範囲内に広がり空間全体を蒼白で染め上げていく。ヤマト水軍、ネプチューン軍共々攻撃の手を止めて目を細める。そして光が止むと、辺り一帯から視界を奪う暗闇は消えていた。
「な、なんだ!?どういうことだ!?どうして昼間に戻ってる!?」
「一体何が起こった!星の戦士の能力か!?ぐあっ!」
突然の出来事に動揺を隠しきれない魚人族に対し、合図をもらっていたヤマト水軍は落ち着いた様子で次々と魚人族を討ち取っていく。夜戦の間実力を発揮できなかった投擲部隊は、我が意を得たりとどんどん敵に矢や大砲を撃ちこんでいく。今回の作戦が決まった段階で、各船には大量の弾薬と矢を積み込んでいた。当分弾切れの心配はないだろう。
夜の闇に乗じて多くの兵がヤマト水軍の至近距離まで攻め込んでいたネプチューン軍は、もろに投擲部隊の射程に入っており、逃げる間もなく倒されていった。なんとか態勢を立て直そうと海に逃げ込もうとする魚人族には、武将部隊が凪仕込みの居合で真っ二つにしていった。
「すっげー!作戦大成功だな!奴ら面白いくらいに動揺してるじゃん!」
「神谷殿の能力でここの戦場一帯を昼間へと変える。まさか本当に妄想の力で実現するとは、神谷殿の能力はすごいでござるな」
佐久間と凪は手を動かしながら興奮気味に言った。
「いやぁ~。ぶっつけ本番だったけど、無事に上手くいってよかったよ」
私は強い眩暈を起こしながら二人に答えた。さすがに妄想が妄想だけに、かなり体に負担をかけたようだ。範囲指定しているとはいえ、夜を昼に変えるのはいささか強引な妄想だった。
「大丈夫かえり殿。また体調を崩しているんじゃ。顔色が悪い」
「だ、大丈夫!ウィンスに乗ってしばらく大人しくしている間に落ち着くから!それより早く足止めに向かわないと!妄想の範囲外に出たら夜なのがばれちゃうよ!」
私は右手で頭を押さえながら急かす。
今回の妄想は戦場一帯を昼間へと変えるものだが、もちろんその効果範囲外に出ると夜へと景色は姿を変える。効果範囲の場所から範囲外を見てもずっと昼間の景色が続いているように見えるが、一度範囲外へと出てしまうとこのカラクリに気づかれてしまう。そうなれば、魚人族は一斉に範囲外まで撤退してしまうだろう。せっかく奥まで敵を誘い込んだのが水の泡になってしまうのだけは避けたい。
「仕方ない。えり殿は体調が回復するまで大人しくしていてくれ。敵の足止めは俺がする。…凪殿!後は任せたぞ!」
「うむ!そちらも足止め任せたでござる!」
ジークフリートは指笛を吹くと、陸地で待機させていたウィンスを呼んだ。私は彼に支えられながらウィンスに乗ると、魚人族の撤退を防ぐため敵の後方へと回り込んだ。
ネプチューン軍はかなり間延びしていたが、ヤマト水軍の中盤の船に主に兵力が集中していた。船に設置されている大砲の射程から逃れるために陸地を目指して上陸している者もいたが、陸地で待ち構えていた忍び集団の餌食になっていた。
「ネプチューンは軍の後方にいるね。今のところ撤退しそうな気配はないけど」
私は波で作られた椅子に座っている人魚の女王を見下ろす。ネプチューンはヤマト水軍の先頭と中盤の船の間ぐらいに陣取っていた。空だと戦場の全体像が把握しやすくとても便利だ。
「ネプチューンはとても自尊心が高いからな。いくら不測の事態でも簡単に軍を後退させないだろう。ましてや人間相手に背を向けて撤退するなど許さないはずだ」
「じゃあ、私たちの仕事はネプチューンに逆らって後退する兵を足止めすることだね」
「そういうことだ。数としてはそこまで多くはないはず。十分対応できるだろう。えり殿は無理して戦わなくていいからな。体を休めることを優先してくれ」
ジークフリートは先の呪いの一件以来もの凄く過保護になっており、気の遣いようが半端ない。大切にしてくれるのは嬉しいが、私も今度こそ色々彼の力になってみせると心に決めているので譲れない。
「大丈夫!少し休んだら参戦するから!ジークと戦うためにせっかく武器も生み出したことだしね」
私はネックレスにつけている小さな筆を人差し指で弾いた。
背中でジークフリートの困ったようなため息交じりの笑みを感じ取ったが、すぐに彼は気持ちを切り替えて眼下の敵へと集中した。
ウィンスで駆け抜けながら、ジークフリートは逃げ腰の敵を次々と倒していく。眩暈が治まってきた私も、筆を色鮮やかに染めながら魔法で敵を撃退していった。
ネプチューン軍は前方をヤマト水軍、後方を私たちに塞がれ、すっかり態勢を崩していた。いくら魔族の中でも気性の荒い魚人族とは言え、居合と至近距離からの大砲を喰らってはひとたまりもなかった。最初から視界の利く昼間の戦場ならば、そもそも不用意にここまで間合いを詰めなかっただろう。全てはこちらの作戦勝ちだ。
「人間風情が、調子に乗りおってぇ~!全く軟弱な男どもめ!たかが夜から昼になったくらいで何を取り乱しておる!いつも通り魚人の圧倒的力で捻り潰せばいい!タイガ!ちょっと行って船を沈めて参れ!」
「ハッ!」
タイガと呼ばれた背の高い魚人族の男は、ネプチューンの傍を離れて一番近くの船へと向かう。
「妾は妾で、大波でも準備しようかのう。虫けら全員を一気に掃除できるくらいのものを」
ネプチューンは高笑いをすると、手に持つトライデントに力を溜め始めた。それを見た私とジークフリートは同時に危険を察知した。
「ジーク!」
「あぁ!ネプチューンの津波攻撃はマズイ!大きいものなら船を簡単に沈められてしまう!妨害して時間を稼がなければ!」
「凪さんたちが敵を一掃するまでもう少し時間がかかりそうだからね。私たちでネプチューンの気を引こう」
後退する敵兵がいなくなったこともあり、私たちはすぐさま空からネプチューンを急襲した。
「赤!!」
私は筆の色を赤に変えると、円を描いて炎の魔法を撃ち出した。
「なんじゃ。星の戦士か」
ネプチューンは顔色一つ変えずに波の壁を作り出すと、簡単に炎の魔法を防いでしまった。私は結果を見てから火は相性が悪かったと反省する。
「はぁっ!」
今度はジークフリートが大剣を振り下ろしてネプチューンを狙う。さすがにこれはトライデントでネプチューンも防いだ。ガキンッと武器同士が音を立ててぶつかり合う。トライデントに溜め始めていた魔力供給がストップした。
「元人間が妾に何の用じゃ。いくら剣の腕が立つからと言っても、お主じゃ妾には敵わんぞ。魔力が違いすぎるからの」
ネプチューンは無詠唱で水の魔法を放つ。いち早く危険を察知していたウィンスのおかげで、私たちは下から突き上げる水の壁に吹っ飛ばされずに済んだ。噴水をとても強力にしたような魔法で、もし喰らっていたら私なら空中に投げ出されていたかもしれない。
「フン。勘の良い馬じゃな。堕ちてはいるが神の眷属か」
「あっぶなぁ~。さすがは七天魔の一人だね。強いわ」
「女性の身であの気性の荒い魚人族をまとめている人だからな。魔力量もかなり多い。だが、凪殿たちのためにも退くわけにはいかない」
「うん!私も魔法で援護するから頑張ろう!紫!!」
私は色を変え、相性の良い雷魔法を連発する。
ネプチューンは顔をしかめると、足場である波を移動させて側近が向かった船とは別の船へと向かう。
「やっぱり雷魔法は苦手みたいだね。水場を嫌って船へと移動してる」
「感電してしまうからな。それでもネプチューンなら軽く痺れる程度だろうが、それでも気にはなるだろう」
ネプチューンを追いかけ私たちも船へと降り立つ。
ネプチューンは船の上にいたヤマトの兵たちを波を纏わせたトライデントで海へと弾き落とすと、十分なスペースを確保して私とジークフリートを迎え撃った。
「雷の魔法とは、人間の分際で生意気な。妾自ら仕置きしてやろう」
ネプチューンはトライデントを構えてこちらを睨みつける。私は筆を構え、ジークフリートは庇うように私の前へと立った。
「ネプチューンよ。魔王様の命令を再三無視した罪は重いぞ。大人しく領域に戻って謹慎しないのならば、今この場で魔王様の名の下にそなたを裁く!」
「アハハハハ!半端者が面白いことをほざく!お前如きが妾に勝てるとでも?魚人族の女王の首はそんな安くはないぞ!妾を討ち取りたければあの若き魔王を連れてくるがよい!せいぜい妾が可愛がってやろう」
ネプチューンは余裕の笑みで波のようにウェーブがかかっている水色の髪を手で払う。
「何も俺一人の力で勝とうとは思っていないさ。この戦場には星の戦士が三人も揃っているからな。いくらそなたでも、星の戦士に束になってかかられてはただではすまないだろう」
「観念することね!今日でこの戦場は終戦だよ!」
「くくく。笑わせてくれる。いいだろう。この妾相手にせいぜい歯向かってみせるがいい!」
そこから二対一での戦闘が始まった。前衛をジークフリートが務め、ネプチューンの矛攻撃を一手に引き受ける。私は時折飛んでくる水魔法を躱しながら、筆で雷魔法や風魔法を主体にして攻撃する。
そこまで広くない船の上なので、時間が経つにつれて激しい戦闘に耐え切れずあちこち船は壊れ始めた。この調子で戦い続けるといつか浸水し始めるかもしれない。
魔王軍の幹部クラスである七天魔の一人だけあって、ネプチューンは二対一でもとても強く、女性の身ではあるが元々力の強い魚人族のためジークフリートと対等にやり合える力を持っていた。
そうして私たちがネプチューンと戦っている間に、ヤマト水軍とネプチューン軍の戦いはいつの間にか決着がついていた。
私たちしかいなかった船に背の高い魚人族の男がやって来ると、高笑いしながらトライデントを振り回している女王に報告した。
「女王様。ご命令通りいくらか船を沈めて参りましたが、さすがに今回は負け戦です。被害が大きすぎて態勢を立て直す余地がありません。大人しく撤退すべきかと」
ネプチューンの背後に控えてそう報告した男は、先ほどまで彼女の傍についていた側近だった。
「なんじゃと!?人間如きに我が軍が敗れると!?嫌じゃ!絶対妾は退かぬぞ!何としてでも引き分けまでには持っていくのじゃタイガ!陸でしか生きられぬ下等生物に負けるなどあってはならぬ!」
「……そうは申されましても、もう大勢は決しております。動かせる兵も多くありませんし、ここから五分に戻すのは厳しいかと」
タイガと呼ばれた側近は、気性の荒い魚人族にしては落ち着いた性格で、淡々と冷静に女王に進言している。鋭い歯や目、背びれはサメを思わせるような姿をしているが、今のところは殺気を纏っていないためそこまで凶暴そうには見えない。衣服にはたくさんの返り血を浴びており、もしかしたら凪の側近を殺したのはこの男なのかもしれない。
「やっと追いついたぜサメ野郎!もう逃がさねぇからな!」
聞き覚えのある声に首を巡らせると、小舟を漕いでこちらにやって来た人物と目があった。目を異常にギラつかせた佐久間だった。
「勇斗、その殺気をしまわないとあの船には乗せないでござるよ。復讐に囚われれば身を滅ぼすと何度も言っているであろう」
「うっ!…わかってるッスよ!抑えればいいんでしょう、抑えれば!」
凪と佐久間は小舟から私たちの船に飛び移ると、無事に私たちと合流した。どうやら今回の作戦は無事に上手くいったようだ。あのタイガという男の話も信じるならば、ヤマト水軍の勝利は確定し、あとはネプチューンを懲らしめるだけだ。
「どうするネプチューン。側近が合流したようだが、こちらも星の戦士二人が合流した。四対二では勝ち目はないと思うが、続けるか?それとも魔王様の命に従い謹慎するか?」
「半端者の分際で偉そうに!妾一人でも十分勝てるわ!舐めるでないぞ!」
「いえ、いくら女王様でもそれは無理かと。ここは大人しく領域で謹慎するのが得策です。負傷した兵の治療にも時間がかかりますし」
「ええい!タイガは黙っておれ!妾に命令するな!」
ネプチューンは癇癪を起こし、自分より背の高い側近をトライデントでポカポカ殴る。私たちはその様子を生暖かい目で見守った。
「……あの女王の側近は大変だぁ。我儘で言う事聞かなそう」
「まぁ、女王だからな。普段から誰にも咎められない立場だからああなってしまったのだろう」
「おいおい!日向さんの仇なんだから間違っても殺すんじゃねぇぞ」
ネプチューンに無抵抗で殴られている側近を見て、佐久間は違う心配をしてしまう。
ひとしきり八つ当たりをしてひとまず気が済んだネプチューンは、再度私たちを睨みつけた。
「妾の兵をたくさん討ち取ったからと言って、いい気になるでないぞ人間ども。妾が本気を出せばこの海一帯を操り、シラナミ海岸一帯を一飲みすることも可能なのだぞ。妾の魔力一つで戦況などいつでもひっくり返せるのだ」
「へ!その前に俺の溜め込んだ倍返しを喰らわせて黙らせてやるよ!」
佐久間は仇を前にして好戦的になっているのか、刀を構えて一歩前に出る。
佐久間の能力『倍返し』は、あらゆるものを倍にして返す能力だ。他者から与えられたものを倍にして返すことができ、例えば貰った物を増やすことができる。貰った矢を一本から二本にしたりと量産ができるのだ。また、自分の受けたダメージを溜め込んで倍にして返したり、敵の攻撃を倍にして返すカウンター系能力でもある。
凪とジークフリートに重ねて注意されているため暴走はしていないが、佐久間は隙あらばタイガに斬りかかろうと窺っているようだった。
「ネプチューンよ。人の上に立つ女王ならば、忠臣の進言には耳を傾けることだ。自分の勝手を通していたら、いずれ誰もついてこなくなるでござるよ」
「隠密侍が妾に説教をたれるな!姿を隠して攻撃する臆病者が!」
「ハァ!?誰が臆病者だよ!凪さんを悪く言う奴は許さねぇぞ!」
「フン!姿を消して背後からバッサリ斬ってくるやつを臆病者呼ばわりして何が悪い!のう、タイガ」
ネプチューンに同意を求められ、側近は無言でただ頷く。佐久間の怒りボルテージが見るからに上昇したのがわかった。
佐久間が飛びかかろうと動き出す前に、凪とジークフリートが両側から佐久間を羽交い締めにして押さえ込む。ジタバタ暴れる彼を一度後ろに下げている間に、私はネプチューンの前に出た。
「そもそもネプチューンは何でヤマトの国を攻めるの?魔王からは軍を退くように言われてるよね。星の戦士たちと手を組んだから」
「妾は一度決めたことを簡単に覆すのは嫌いでの。一度振り上げたこの矛を振り下ろさずに収めるなどもってのほかじゃ。先代の魔王の時代より人間を滅ぼすために戦を始めたのに、何故今更下等生物と手を組まなくてはならない。そのような命、簡単に受け入れられるものか」
ネプチューンは貝殻に隠された大きな胸を揺らして腕を組んだ。
クロウリーと協力関係を結んでいるようではないが、こちらの要求を簡単に飲む気配はなさそうだ。
「それでも一応魔王の部下でしょ。いつまでも命令に逆らって魔王を困らせないでよ。彼がいつも魔界のために動いてすごい苦労してるの知らないの?今じゃ忙しすぎてろくに休みも取れていない状態なんだよ。七天魔として協力しようとは思わないの?」
「そんなこと妾の知ったことではないわ。そもそも妾はアイツの部下になった覚えはない。あくまで妾と魔王は対等の関係だと思っておるからのう。どうしても軍を退いてほしければ、使いなどよこさず自ら妾に頼みにくればよいのだ。そうすれば妾も考えないこともない」
女王のブレない偉そうな態度に、今度は佐久間ではなく私の怒りゲージが急上昇していった。いくら魚人族以外を下等生物認定しているといっても、魔王は魔界を統べる王だ。さすがにネプチューンの態度は不遜すぎるだろう。魔族じゃない私でも、魔王をないがしろにされすぎてさすがに腹が立った。後ろで佐久間を押さえているジークフリートも微かに殺気を放っている。
「私は人間だし、魔王ともまだ全然付き合いが浅いけど、魔王は間違いなく人の上に立つのに相応しい人だわ。あなたと同じでいつも偉そうな態度をしてるけど、魔王として常に情報収集や対策を講じてるし、仲間に対する気配りもちゃんとしてる。一見怖くて恐ろしい魔力を持ってるけど、根は優しい苦労人だわ。対してあなたは側近の言う事にも耳を傾けない女王様で、我儘で自分の気に食わないことがあるとすぐに癇癪を起こす。そんなあなたが魔王と対等だなんて笑わせないでよ!」
私は溜まった怒りゲージを発散させるため、思ったことを全部口に出してネプチューンにぶつけてやった。
鼻息荒く言い切った私に魚人の女王は口をわなつかせると、無言で私の前に立って思い切り右手を振りぬいた。パァンッと乾いた音が鳴り、私はよろめいて左頬を押さえた。頬はジンジンと熱を持ち、朱色へと変わっている。
「…イッタァァァ!!!」
最初状況が理解できずに時間が止まってしまったが、私はすぐに痛みで我に返った。
「大丈夫かえり殿!?」
「アハハハ!この妾に暴言を吐いた報いじゃ小娘!いくら星の戦士とて、生意気がすぎ」
パァーンッ。ネプチューンが言い終わらぬうちに、私はお返しの一発をお見舞いした。佐久間の能力ではないが、私は昔からやり返されたら倍にして返す性質だった。男兄妹で育ったため、兄からそういう教育を子供のときから受けている。
何の躊躇もなくネプチューンにビンタをやり返した私を見て、その場にいた男性陣は息を呑んだ。
「ひっ!出た!神谷さんの強烈ビンタ!あれメッチャ痛いんスよね」
「うむ。さすがは神谷殿。相手がネプチューンであろうがお構いなしの清々しい一発。見事でござる」
凪は感心したように頷き、佐久間は前に喰らったことを思い出したのか、自分の頬を押さえてブルブル震えている。
「まさかやり返してしまうとは。えり殿!すぐに離れるのだ!下手すれば側近に殺されてしまうぞ!」
ネプチューンの側近であるタイガは殺気を飛ばしてジークフリートを牽制すると、女王に手を上げた私を始末しようと一歩近づいた。
「ッ!」
しかし、ネプチューンの強力な平手打ちを喰らって気が立っている私に睨みつけられたタイガは、おずおずと元の位置へと戻った。私の目が男の出る幕ではないと物語っていたからかもしれない。私の気は、あともう一発分ビンタをお見舞いしなければ収まらない。
「………フ、フフフフ。この妾に手を上げるとは、万死に値する。覚悟はできて」
バチーンッ。私は再び容赦ない一発を喰らわす。相手が魔族だろうが女王だろうが知ったことではない。
「先に手を上げたのはそっちでしょうが。いつでも何でも自分の思い通りになると思ったら大間違いよ!これで心を入れ替えて、魔王のような人の上に立つのに相応しい人になるのね」
「に、に、二度までも妾に手を上げるとは!生意気な小娘が!」
バチンッ。瞳に薄い涙の膜を張りながらネプチューンはやり返してきた。もしかしたら強いが故に、痛みには慣れていないのかもしれない。強ければそれだけ怪我をする機会はないはずだ。
「いったぁ!またやったわねぇ!……こうなったら、絶対に打ち負けないんだから!」
「臨むところじゃ小娘!」
女同士の絶対に負けられない戦いがこうして勃発した。その場にいる男性陣たちは、女二人の容赦ない平手打ち合戦を黙って見守った。ただ一人佐久間だけは、その光景を見て青い顔をして震えていた。
(あらゆるゲームと漫画を見てきた私にとって、ビンタ対決というシチュエーションは絶対に負けられない!彼のゲームのように、絶対に勝ってみせる!)
私は心の中でオタク魂に火を付けると、渾身の一発をネプチューンに繰り出すのだった。
女同士のプライドを賭けた戦いを始めて五分あまり。途中口喧嘩も挟みながら続いた戦いだが、もうお互いの頬と利き手は限界に達していた。見ている方ももう顔を背けているほどだ。
「うぅ。おっかねぇ。もはやトラウマになりそう…。女の喧嘩って怖ぇ」
「女子を怒らすと怖いとは昔から言うからな。だから女の尻に敷かれたほうが家庭も上手くいくものだ。勇斗も覚えておいたほうがいいぞ。桃華も女子だ。怒らせるときっと怖いぞ」
「えぇ~。姫様の本性はあぁじゃないと願いたいッス」
佐久間はげんなりした顔で心惹かれる姫君を思い出す。
私とネプチューンは互いの赤く腫れあがった頬を睨みつけると、今度こそトドメを刺してやるつもりで同時に右手を振り被った。がしかし、お互いにその手が振りぬかれることはなかった。
「そこまでです、女王様」
「もう止めるんだえり殿。それ以上は頬の腫れが引かなくなるぞ」
私は右手をジークフリートに掴まれ、ネプチューンも側近のタイガに右手を押さえられていた。
「ええい!止めるなタイガ!もうあの小娘をぎゃふんと言わさねば妾の気が済まぬ!」
「ぎゃふんと言わせる前に女王様の頬が膨れ上がりますよ。あの娘、人間にしてはなかなか根性がありますので」
タイガは用意していた濡らしたハンカチをネプチューンの頬に当てる。ハンカチが頬に当たった瞬間、ネプチューンは涙目で飛び上がった。声にならないほど痛かったようだ。
「ぐぬぬぬ。人間のくせに生意気な~。……フン。まぁいいじゃろう。タイガに免じてこの勝負は一旦預けておいてやろう。次に会った時は覚悟しておくがよい!」
「そっちこそ!今度は一発で黙らしてあげるわ!」
「フフフ。威勢の良き娘じゃ。リアナとはまた違った面白き娘よの。そなた、名は何と申す」
ビンタ合戦をしてストレスを発散できたのか、意外にもネプチューンの機嫌は少し良くなっていた。彼女にとっては戦争よりも良い刺激になったのかもしれない。
「えりよ。神谷えり。宿敵の名くらいちゃんと覚えておきなさい」
「フフ。宿敵とは大きく出たな。戦争が終わったら妾の領域に顔を出すがよい。いつでも再戦を歓迎するぞ」
ネプチューンは腫れあがった頬を押さえたまま椅子代わりの波を呼び寄せると、そのまま高笑いしながら去って行った。頬が痛むため、先ほどよりかはいくらか控えめな声量だった。
「それでは、自分もこれで。魔王様にはしばらく魚人族は領域にて謹慎すると伝えておいてくれ。今回はかなり死傷者が出た。少なくともクロウリーとのゴタゴタが終わるまでは、女王様も大人しくしているだろう」
タイガはジークフリートにそう伝えると、兵を引き連れて魔界へと引き上げる女王の後を追った。
ネプチューンが兵を退き上げたのを確認した私は、張り詰めていた緊張を解いて脱力した。それと同時に左頬の痛みが増し、自然と涙がボロボロ零れた。
「うぅ~~~。ほっぺが、ほっぺが痛いよぉ~~~」
「だからさっきも頬の腫れが引かなくなると言っただろう。ネプチューン相手に無茶をし過ぎだぞえり殿」
ジークフリートは持っていた手拭を濡らすと、そっと私の頬に添えた。
「イッ!?い、痛い…。ヒリヒリするよう」
「こればかりは仕方ないな。冷やすほかない」
ジークフリートは私の涙を拭うと、指笛を吹いてウィンスを呼びよせた。
「いやぁ、実に見事な一騎討ちでござったぞ。あの女王相手に全く引けを取らなかった。神谷殿の平手は十分魔族にも通用するでござるな」
「そ、それはどうも。とりあえず作戦も成功して、ネプチューン軍を撃退できたようで良かったよ」
「代わりに神谷さんの頬が犠牲になりましたけどね。…あの側近も討ち取れたらもっと良かったんスけど」
佐久間は若干不服そうな顔をするが、それでも人間側の勝利で戦争が終結してほっと一安心している。
私は痛む左頬を押さえながら欠伸をすると、今が夜なのを思い出した。
凪は散らばっている全軍に合図を出すと、愛すべき民たちのいる城下町へと帰還するのだった。
せっかくだから祝宴に参加してほしいと言われ、私たちは凪と佐久間についてヤマトの城を訪れていた。途中城下町を通って来たが、夜のため飲み屋や食事処が賑わっていた。戦地から兵たちが戻って来たのもあって、夜にも関わらず大勢の人々が城に続く大通りに集まり、殿様や兵の凱旋を喜んでいた。民たちは着物を着ており、私はまるで時代劇の中に迷い込んだように感じた。城下町もテレビでよく見る木造の平屋や長屋で、時代劇のセットようだった。
城下町を抜けた先は凪の住むヤマトの城があり、佐久間もこちらの世界に来てからここに住んでいるのだという。城は周りを堀に囲われ、立派な石垣で作られていた。城は地下を含めた六層構造になっており、地下が二階層、地上が天守を含めた四階層だ。
城の中に入ると、玄関にほど近い場所に、桃色の綺麗な着物を着た少女が両手をついて頭を垂れて待っていた。私はその高価な装いに、一目でその少女がお姫様だとわかった。
「お帰りなさいませ、武之お兄様。ご無事の帰還、何よりでございます。勇斗も、怪我がないようで良かったわ。お兄様を守ってくださってありがとう」
「い、いや。側近って言っても、俺はまだ日向さんのように凪さんを守れるほどじゃないから」
見るからに顔を赤らめて動揺する佐久間に、私はピーンときた。
(なるほど。やはりこのお姫様が凪さんの妹の桃華ちゃんで、佐久間君の想い人なわけね。さすがお姫様だけあって、可憐な美少女じゃない。断然応援してあげなくては!)
痛む頬を押さえながら、私はニヤニヤした視線を佐久間に送る。その嫌な視線を感じ取ったのか、佐久間は私を振り返ると、余計な詮索はするなと釘を刺してきた。
「そんな照れなくてもいいのに~。お姉さんが恋のキューピッドになってあげるよ」
「変な気ぃ遣わなくていいスから!神谷さんは大人しくその腫れあがった頬を冷やしててください!つか、本当にスゲー腫れてますよ。歯でも抜いたみたいに。セイラさんに治してもらったほうがいいんじゃないスか」
「うぅ。やっぱりそんな腫れてる?鏡見るのが怖い」
頬の痛みを実感するにつれ、私は徐々に我に返っていた。
あの時はネプチューンの物言いに腹が立って彼女の喧嘩を買ってしまったが、冷静になって考えてみると、私は男性陣の前でそれはそれはすごい戦いを繰り広げてしまったのではないかと。少なくとも二十発以上はビンタをお見舞いし、売り言葉に買い言葉で途中すごい言葉も口にしていた気がする。
祝宴を行う大広間へと通された私は、座布団に座りながらどんどんと塞ぎこんでいった。
(いくらビンタを喰らって我を忘れたからと言って、さすがにあのビンタの応酬は酷かったか…。あんなの男の人が見たらドン引きだよね…。いくら女性に紳士なジークだって引いたに違いない。そういえばいつの間にか見かけなくなってるし)
私はしょぼんと肩を落としながら左右を見渡した。思わず反省のため息をついていると、突如背後から冷たいものを頬に押し当てられた。
「ひゃっ!」
不意打ちにびっくりして背筋を伸ばした私は、左隣に座ったジークフリートを見た。彼は兜を脱いでおり、その手には布袋を手にしていた。先ほど頬に当てられた感触から、おそらく布袋には氷が入っているだろう。
彼は腫れている私の頬を見つめると、心配そうに目を細めた。
「濡れた手拭より効果があるだろうと思って、氷を貰って来た。……なかなか腫れがひかないな。右手もまだ熱を持っている。魔王城に戻ったら、ジャック殿の湿布薬を貼った方がいいだろう。そうすればきっとすぐに良くなる」
「あ、ありがとう。姿が見えないと思ったら、私のためにわざわざ氷を貰ってたんだ。ジークだって疲れてるのに、ごめんね」
「いや。えり殿ほど疲れてはいないさ。今日は俺よりえり殿のほうが大活躍だったからな。能力で昼夜を逆転させたり、筆の魔法でたくさん援護もしてくれただろう」
いつも通りの優しい笑みで私を労ってくれるジークフリートに、私はびくびくしながらネプチューンとの一騎討ちについて聞いてみた。
「ジ、ジークは、………私がネプチューンを引っ叩いているのを見て、どう思った?やっぱり、ドン引きした?」
私はなるべく目を逸らしながら訊ねた。彼の引いている顔を見たらショックを受けて立ち直れなくなりそうだったからだ。
(まぁ、ドン引かれても自業自得なんだけどさ。ジークに似合うのは、守ってあげたくなるようなか弱い女性だと思うし)
私がいじけて俯いていると、ジークフリートは両手で私の頬を包み込むと顔を上げさせた。左頬には氷が押し当てられていて気持ちがいい。
「魔王様のために怒ってくれていたえり殿をどうして引いたりするんだ?前にも言ったが、えり殿の長所はその心優しいところと種族関係なく思いやりがあるところだ。魔王様に対する俺たちの気持ちを代弁して、代わりにネプチューンにぶつけてくれた。俺はえり殿が俺たちの気持ちを汲み取ってくれて嬉しかったぞ」
「ジー…ク……。もはやあなたは、紳士を通り越して聖人か!?さすが元聖騎士!その清い心は誰にも敵わないよ~」
私はジークフリートの両手に自分の手を重ねて感動する。ジークフリートは戸惑っていたが、私が元気になったため何も言わず微笑んでいた。
その様子を傍から見守っていた凪と佐久間は、兜を脱いだジークフリートを物珍しげに見て言った。
「いやぁ。ジークフリートさんてめちゃくちゃイケメンだったんスね。しかもド天然。あのおっかない女の戦いを見てもあんなコメントができるなんて、むしろ見直しましたわ」
「神谷殿の言う通り、聖人のような心を持っているのでござろう。逆に言えば、それぐらいでないと神に選ばれし聖騎士にはなれないということだ」
「聖人すぎて恋愛に関しては鈍そうですけどねー」
「そこはもう、神谷殿が頑張るしかないな」
その夜は凪の計らいで、久々に和食の大ご馳走を堪能するのだった。
ヤマトの国から戻って来て四日後。私とジークフリートは魔王に作戦会議室へと呼び出された。
作戦会議室に来て早々、魔王はニヤけた顔で私を見てきた。
「どうやら無事頬の腫れは引いたようだな」
「…おかげ様でね」
私は意地悪な笑みを浮かべる魔王を睨みつけて言う。
ヤマトの国でご馳走を食べた夜、凪に一晩城に泊まっていくよう勧められたが、仕事人間のジークフリートが魔王城に帰りたそうにしていたので、私たちは魔王城へと帰還した。
すぐに魔王が出迎えてくれたのだが、私の顔を見た瞬間、彼は珍しく腹を抱えて笑いまくった。あまりにも魔王が笑うので、私は平手のし過ぎで痛む右手を顧みず、ビンタをしてやろうと魔王を追いかけ回したのだった。結局魔王には躱され続けて一発も入れることはできず、最終的にジークフリートに宥められて私はくたくたになって部屋に帰ったのだ。
「一昨日ネプチューンと念話でやり取りをしたが、甚くお前を気に入っていたぞ。母上とはまた違った意味で興味を持ったようだな。母上がまだご健在の頃は、ネプチューンもよくこの城に来て母上とお茶会をしたりしていた。母上がネプチューンの領域に遊びに行くこともしばしばあったが」
「へぇ~。そうなんだ。私もこの間去り際に、戦争が終わったら領域に遊びに来てって誘われたよ。リアナ姫と違って、お茶会とかじゃなくてビンタの再戦のお誘いだったけど」
私は目を逸らして左頬を押さえた。できればもうあの対決は二度としたくない。ジャック御手製の湿布薬のおかげですぐに痛みは引いたが、本当に頬が腫れ上がって戻らないかと思った。
「……それで、魔王様。本日はどういったご用件で?」
真面目なジークフリートは本題を促した。
「あぁ、実は、各地の戦場の目途がついてきたんでな。いよいよ『奴』との直接対決に臨もうと思う」
「奴…?」
私は魔王の言葉に首を傾げたが、私の隣に立つジークフリートは微かに緊張を高まらせたような反応をした。
「我が魔王軍の裏切者、クロウリーだ。ついに奴を粛清する時が来た。お前たちによってネプチューンは抑えられ、じいと空賊の働きによってサラマンダーも黙らすことができた。魔族側の懸念材料はこれで片付いた。人間側のガイゼルも、明日戦場にじいを派遣する予定だ。ユグリナ騎士団と小僧、聖女、神の子にじいも加われば問題ないだろう」
「そっか。いよいよって感じだね!でも、なんかここのところずっとおじいちゃん働かせすぎじゃない?大丈夫?」
「フン。この程度でじいはくたばらん。まぁ、本来ならドラキュリオを行かせる予定だったんだがな」
魔王は表情に影を落として言葉を濁す。
私はそれについて詳しく問いただそうとしたが、その前にジークフリートが口を開いた。
「それで、俺たちに新たに与える任務は」
心なしかいつもより声が硬い彼は、じっと魔王を見つめる。私はその時初めて横にいるジークフリートを見たが、彼の纏う空気がピリッとして微かに禍々しさが出ているのに気が付いた。頭の中に、憎しみのまま先代魔王に向かっていった過去のジークフリートが過ぎった。あの時と違って今はとても冷静には見えるが、心中は様々な感情が渦巻いているに違いない。
魔王はそんなジークフリートを見据えると、声高らかに命じた。
「ジークフリート、えり!お前たちには明日、俺と共にクロウリーの領域へと攻め込んでもらう!もちろん狙うは、裏切者クロウリーの命だ!これで全ての過去に決着をつける!」
魔王の命令に、ジークフリートは即座に騎士の礼を返して返事をした。
魔王は父親と母親の命を奪われた過去、ジークフリートは故郷を滅ぼされた過去に決着をつけるため、明日の決戦へと臨む。
四日前、佐久間相手に復讐に心囚われぬようにと諭していたジークフリートを思い出す。
私は隣に立つ心優しい騎士が、見えない鎧兜の奥で激しい復讐の炎に支配されないよう心配して彼を見つめるのだった―――。




