2.1対1対人間たち
僕の太ももに冷たい刃が通り過ぎ、燃え盛るような熱が灯った。
「う、ぅああっ!!」
剣先で斬られたことを理解して、僕は叫びながら尻餅をつく。
「――おい! みんな! ソロの同業者がいた! 全員、さがれ! なすりつける!」
リーダー格の男は周囲の人間たちに号令をかけた。
その内容を僕は理解できなかった。したくなかった。
まず杖を持った女性が僕を見て、何も言わずに隣を通り過ぎていった。続いて、先ほど吹き飛ばされた男も、その他の人間たちも――全員が戦いを中断して、僕の後方に走り去っていく。
当然、いまこの集団と戦っていた巨大な狼は追いかけようとする。
その途中には動けない人間が一人。
つまり、僕の目の前に、狼が――
「う、うあああぁああぁアア――!!」
恐怖で真横に飛び跳ねようとするが、斬られた太ももに激痛が走り、無様に地面を転がる。
その動きと叫び声に釣られ、狼は完全に僕を視界に入れた。
もう男たちは安全圏だ。
狼は最も手近な僕に向かって、走り出す。
このままだと僕は死ぬ。
あの巨大で獰猛な狼に食われて、死ぬ。
死にたくない。
死にたくない死にたくない死にたくない――
思考が奔流する。
様々な悪感情が吹き荒れる。
今日までの人生が想起される。
そして――
【スキル『???』が暴走しました】
いくらかの感情と引き換えに精神を安定させます
混乱に+1.00の補正が付きます
何かの『表示』が僕の視界に浮かんだ。
いまはそれどころでなく、それがどういったものかを理解しようとは思わない。
だが、その『表示』と共に、頭の中が冷え込むのを感じた。
奔流した思考が静かになり、悪感情が消え去り、どうすればいいかだけに集中できるようになる。
僕は斬られた左の足を使わず、右足だけで立ち上がる。
その瞬間、丁度狼は僕に襲い掛かる。
「――っ!!」
襲いかかってくる狼に対して、垂直に飛び退く。
しかし、圧倒的に速度が足らない。火事場の馬鹿力でも、狼の速度には全くついていけなかった。すれ違い様に、狼の鋭い爪が右の上腕部を切り裂いた。
そこで、安全圏に逃げ延びた男たちの声が聞こえる。
「――よし! この位置だ! 撃て! 道を閉ざすんだ!!」
悪寒が背中を走る。
この狼だけが敵ではないのだ。
あの人間たちも僕の敵だ。
あいつらは僕を囮にして、逃げ出して――!
それでも尚、足りずにっ――!!
悪寒に従い、後ろに目をやったときには、もう――回廊全てを覆いつくすほどの轟炎が迫ってきていた。
その轟炎に狼も気づく。だが、遅かった。僕を噛み殺そうと飛び上がっていた狼は、それを回避することが叶わない。
僕も当然、全てが遅い。
――くそっ、あいつら! 僕ごと、狼を燃やそうとっ!!
心の中で悪態をつく。
そして、轟炎は弾け――爆発する。
咄嗟に僕は両手で頭部を守り、できるだけ遠くに飛び退きながら伏せた。だが、背中に炎をともなった突風が打ち付けられ、吹き飛ばされる。
全身を炎が焦がしていく。
バーナーを当てられているような感覚だ。
発狂するような激痛が脳を襲う。
その激痛を気つけにして、僕は思考を保つ。
悔しさと憎しみで、気力を保つ。
吹き飛ばされ、地面に叩きつけられたあと、ゆっくりと目を開けて、周囲を窺う。
回廊全てを埋め尽くすほどの炎は、魔法のように一瞬で消えていた。
ただ、人間たちが逃げ出した方角には綺麗な炎の壁ができていた。
「そ、そ、ぁ――」
それが、やつらの狙いだったのか。
焼けた喉は、その言葉を最後まで言わせてくれなかった。
そして、状況を再認識する。
炎の壁によって道が遮られた事で、いまここに残るのは巨大な狼と僕だけだ。
その事実をゆっくりと噛み締める。
狼も僕と同じく立ち上がっている。
しかし、見るからに僕よりも炎を浴びている様子だ。
身体の大きさもさることながら、最後僕に覆いかぶさるように飛び上がっていたことが原因だろう。
僕よりも被害が大きい。弱っている。
狼は息を荒く、ふらつく様子も見える。
しかし、未だ目は燦々と輝いている。
全く闘志は萎えておらず、「狼は傷を負ってからが恐ろしい」と言わんばかりに呻り声をあげ、こちらに向かって歩を進め始める。
僕も狼と同じく覚悟を決めた。
飛ばされた位置が良かった。
狼からは見えないだろうが、僕の背後には先ほどの戦いで戦士が使っていた大剣が落ちてあった。虚をついて、それを使えば、本当に僅かではあるが……勝算はあると思う。
すぐさま僕は踵を返し、全力で駆け出す。
ただ、踵を返す瞬間、視界の端で狼が飛びかかろうとしているのを捉えた。
左の太ももからは激痛が走り、けたたましい危険信号が脳に響く。
それでも僕は走った。
感覚が薄れてきている足で、地面を無理やりに踏み抜く。
反撃のタイミングは掴めない。
どう狼が迫ってきているのか、予測できない。
それでも僕は全速力で駆け、大剣を拾い、そのまま振り向き様に大剣で薙ぎ払った。
大剣は両手でも支えきれないほどに重かったが、ただ一度に全てを賭けて、力任せに振り抜く。
生々しい鈍い音と共に、狼の首に大剣が埋まるのが見えた。
「や、やった――! っ、ぁ、ぐあァ!!」
反撃は成功した。しかし、狼は大剣を首に抉りこませたまま、僕の身体に圧しかかった。
かろうじて牙と爪をかわすことはできたが、二メートルの巨体に真正面から圧しかかられるのは致命的だった。
信じられないほどの重量が襲いかかり、胃の中のものが全て逆流し、口から吐き出される。
さらに狼は首が千切れかけていても、僕を食い殺そうと動くのだ。
大口を開け、僕の頭を飲み込もうとする狼。
僕は遠ざかる意識を引き戻し、身体を限界まで捻り、かわす。
そして、その勢いを利用して、さらに大剣を抉りこませる。
「あぁっ、ああああアアアアアア――!!」
叫び、二メートルの巨体を吹き飛ばすつもりで両手を振るった。
すると僕と狼の間に、僅かな隙間が生まれた。
その隙間を使って、僕は狼の下から抜け出す。そして、大剣がこれ以上抉りこまない事を感じた僕は、大剣を手放し距離を取る。
狼は僕に追従してこなかった。
いや、しようとはしている。
けれど、身体が進んでいない。
狼は大量の血を流し、体中が焼け焦げ、ボロボロの姿だった。
油断なく狼の様子を窺っていることで僕は気づく。
狼は片目が焼けて、見えていないようだった。後ろ足には矢が深々と突き刺さり、引き摺っている。大剣は気道まで達しているのだろう。その呼吸音が、笛のような音を奏でている。――僕よりも重傷なのは明らかだった。
「あぁ……。おまえ、もう……」
ふと言葉が勝手にこぼれる。
狼は大剣を引き摺りながら、僕に向かって歩を進める。
僕は万全を期して、焼けた目が生んだ死角に移動し続けて、姿を捉えさせない。
ほどなくして、狼は倒れた。
そして、狼は淡いエメラルドグリーンの光を放ちながら消滅した。
カランと音をたて、大剣と矢は地面に落ちる。
「え……?」
そう、消滅したのだ。
死体は残らず、光のように、幻想のように、狼は消えた。
その光景を呆然と見送った。
狼の消えた跡には、煌く翠の石が残っていた。
【称号『深翠の始まり』を獲得しました】
Strに+0.1の補正がかかります
という『表示』と共に。