1.異世界迷宮に迷い込む
――暗い。
どこまでも黒く塗りたくられ、光を感じることができない。
最初に違和感を覚えたのは臭いだ。
鼻が抉れるかのように生臭い。喉の奥からは、泥が迫り上がってくるかのような感覚。その不快さに驚き、目を見開いて飛び起きる。
「――っ!!」
まず視界に飛び込んできたのは暗い回廊。
光は差し込んでいないはずなのに、ぼんやりと発光する石造りの空間だ。
辺りを見回すと、僕の背後に小さな祭壇のようなものが鎮座していた。
注意深く観察して、ようやく祭壇であると気づけるそれは、いまにも崩れそうなほど風化している。
小さな石台に、二本の蝋燭の残り滓。
動物の皮らしきものが供えられており、それには古びた矢が刺さっている。
「なにこれ……」
独り言の多い僕は、自然と言葉を零した。
「い、意味がわからない……。気持ちが悪い……」
言葉を重ねると共に、心臓の鼓動が速まる。
動悸が跳ねるように大きくなっていく。
本当に意味がわからない。
状況を理解できない。
僕は寝て……そして、起きたのか?
けれど、ここに暖かなベッドはない。うるさい機械仕掛けの目覚まし時計もなければ、カーテンからこぼれる朝の陽射しもなく、電球の明かりもない。
不衛生で冷たい石床。
鼻を潰すかのような異臭。
気味の悪い仄かな石の発光。
気持ちが悪い……。
僕は口を押さえて、吐き気が通り過ぎるのを待った。
そして、遠くから聞こえる咆哮――
「――――、――――――ッッ!!」
それは理性を一切感じさせない慟哭だった。
手負いの獣の放つ怒声のような、熱と殺意の振動だ。
「ま、待って……。待って、待って待って……!」
何が起きているのかわからないから、自分で何を言っているのかもわからない。
僕は混乱に振り回されるがまま、聞こえてきた咆哮とは逆方向に走り出す。
「――はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
息を切らして、石造りの回廊を走り抜けていく。
何度か道を折れ曲がって――でも、全く変わらない景色に苛立ちながら、ただ遠くに向かって逃げ出す。
――その途中、ぐちゃりと、気味の悪い拉げた音がした。
何か角ばったものを踏み抜いた感触がして、靴の裏を確認する。
そこには握り拳ほどの大きさの昆虫が、断末魔の鳴き声に合わせて、蠢き――
「う、うぁっ!」
その惨状に声を上げる。
特別に昆虫が苦手なわけではない。けれど、コンクリートに囲まれた都会では絶対に出遭うことはない大きめの虫に、強い生理的嫌悪が走った。
昆虫がキィキィと鳴く。
まるで、助けを叫んでいるかのように聞こえる鳴き声。
ふと僕は寒気を感じ、顔を上げる。視線を道の先に向ける。
次の曲がり角から、人の大きさほどの昆虫が顔を覗かせていた。
およそ、常識ではありえない大きさ。
昆虫特有の角ばった手足を、ギチギチと嫌な音をたてながら動かしている。
ぱっと見たところ、クワガタムシに近い。ただ、その異常な大きさと、異常な形の二本の角が、僕の正気を削っていく。
「――ッ!!」
もう声をあげることもできない。
あげてしまえば、その怪物が僕に向かって飛び掛ってきそうで、後ろに走り出すしかなかった。
――走って、走って、走り抜ける。
道を選ぶなんて上等な思考は頭になく、ただ移動し続けることでしかできない。
体力が尽きるまで駆け抜けて、自然と走る速度が緩む。
そこで僕はささやかな理性を取り戻しかけ――
「――――、――――――ッッ!!」
また獣の怒声が僕の耳を打った。
今度はもっと近い。
馬鹿なことに、僕は最初に逃げてきた道を全力で戻ってしまっていたのだ。
血の気が引く。
混乱が加速する。
しかし、その獣の怒声に近づいたことにより、他の音も拾えるようになっていた。
それは人の話す声だった。
「ひ、人! 人の声――!!」
光に誘われる蛾のように、勝手に僕の身体は声の聞こえる方角へ動き出していた。
僅かに回転する脳が、他人を――『人』を求めていた。
近づいていくことで獣の怒声も大きくなっていくが、人の話し声もはっきりと聞き取れるようになっていく。
「――距離をとれ! 距離をとって、時間をかせげ!!」
大人びた男の低い声だ。
ある男が、近くにいる人間たちに号令をあげている。
辿りつき、目にした光景は、おとぎ話のようだった。
博物館でしか見られないような皮の鎧や木の弓を身につけている者。
無骨な鉄の剣を力任せに振り回す者。
機械的な要素のない木の杖から火を噴かせている者。
現実味のない人間たちが、二メートルほどの大きさの狼と大立ち回りを演じていた。
その中に飛び込めるほどの勇気は僕になかった。
遠くで立ち止まって、その戦いを見続けることしかできない。
「時間をかせげば、なんとかなる! 粘れ!」
リーダー格と思われる低い声の男が、大剣を持った戦士に指示を飛ばす。
戦士は大剣を大きく振りかぶり、打ち下ろそうとする。
しかし、その前に巨大な狼が恐ろしいスピードで戦士に体当たりを行う。戦士はゴム玉が跳ねるように吹き飛ばされた。
次に狼が目をつけたのは、火を噴く杖を持った女性だ。それに気づいた他の人間たちは女性を守るように大きく陣形を変えていく。
――伴い、大幅な移動も行われる。
戦場が僕のほうに近づいてくる。
僕は混乱していた。
そして、恐怖もしていた。
もし冷静であり、余裕もあったならば、ここを移動することもできていただろう。しかし、いまの僕は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
――細剣を持ったリーダー格の男と目が合う。
「なっ!? おまえ、誰だ!?」
男は驚いた顔で僕に怒鳴りつけた。
「ぼ、僕は迷って……――た、助けてくださいっ!!」
咄嗟に助けを求めた。
僕の言葉は途切れ途切れだったが、それでも意思は伝わったはずだ。
だが、その僕のSOSに対して、男の反応は酷く冷たいものだった。
「……おい。助けて、だと? おまえ、馬鹿か?」
「――え?」
肯定でも、否定でもない。
そんな要求は論外であると言わんばかりの侮蔑が返ってきた。
常時の僕だったならば、気づけただろう。
この人たちには誰かを助ける余裕なんてないことに。
その装い、手にする凶器、狂った獣、危険でしかない状況――気づけないはずがない。
ただ、いまの僕にそこまでの思考力はなかった。
「ここは迷宮――それも、『管理外領域』にいるんだ。覚悟の上だよな、ガキ」
男が続けた言葉は、さらに冷たかった。
そして、男の持つ冷たい細剣が、僕の太股を撫で――斬り裂いた。
異世界迷い込み、一日目開始。
※最初のお願い
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あたりになります。