僕
夕方家を出る予定だった。
最後の夕食を済ませると、義母は僕に簡単な軽食をもたせた。
「これ食べなさいね。いつでも帰ってきなさい。ここは貴方の家なのだから。」
義母の言葉は耳を疑うものだったが、単なる社交辞令だと思い直した。父親は黙って手を差し出した。僕は父の手を取って握手した。お互い言葉はなかった。僕の中で悲しみが生まれた。同時に怒りも。しかし、僕は怒りをどう表現すればいいのか分からなかったし、そうする勇気など持ち合わせていなかった。
二階の自室からリュックを背負い階段を下りるとき、一階から上がってきた弟と鉢合わせた。弟は今帰って来たらしく黒の制服姿だった。
「行くのか。」
「うん。」
「よかったね。イギリスに行けて。」
「行かせてもらうんだよ。」
「それでもいいじゃんか。」
僕は曖昧な返事をした。
「…僕は悪くないよ。」
「は?」
「兄さんを傷つけたのは僕じゃないから。」
だからなんだと言うのだ。僕の訝しげな表情を見てか、弟はかぶりを振った。
「そうじゃないんだ。僕はただ…。」
言葉を詰まらせた。弟は階段を一段上がった。一段一段とゆっくり弟は僕の側までやって来ようとしていた。僕は思わず後ずさって、一段上がった。それを見た弟は止まった。そして次の言葉を吐き出した。
「兄さん、帰ってくる?」
「……落ち着いたら帰ってくる。」
弟は僕の目を見た。まっすぐ。射抜くように。僕は内心焦っていた。
「また嘘ついたね。」
嘘なもんか。お前が僕の考えに及ばないことばかり聞くから適当に答えているだけだ。
「もう行くよ。またな。」
僕は奇妙な空気を断ち切ろうとした。弟のそばを通り過ぎようとした。その時弟は僕の手をつかんだ。そして学生服のポケットから紙切れを取り出して、僕の手に握らせる。
「僕の連絡先だから。貰っておいて。お願い、捨てないでね。」
弟はそう言った。僕は弟の手が震えていることに気づいた。とても悲しげな顔をしていた。泣くのをこらえているようだった。僕はすぐに目をそらした。それからとにかくこの場を切り上げることに専心した。僕は呟いた。
「捨てないよ。落ち着いたら……落ち着いたら、連絡する。」
前を向いて一番下まで階段を降りていった。最後に僕はほんの少しだけ弟のことを考えた。振り返ってみると、弟は階段に座り込んでいた。弟の頰は涙で濡れていた。僕は何もしない。それは仕方のないことだ。諦めて欲しい。僕はそんなに優しくない。僕はまた前を向くとまっすぐ家を出た。家を出てからは走った。




