見えない世界
父親から電話がきた。あたりに誰もいないことを確認した。
「もしもし?」
「静香よ。」
「あの…」
「話があるのよ。帰ってきて。」
電話が切れた。夜の11時だった。
家政婦の西という女性が朝ごはんを用意してくれた。食卓には弟がいた。義母は既に済ませたそうだ。弟は機嫌が悪いらしい。食事中態度が悪かった。僕はさっさと食べ終えた。
部屋で荷物をまとめていると、弟が姿を現した。はじめ弟は僕の様子を黙って見ているだけだったが、ゆっくりと近づいてくると、僕の首に両腕をを回して顔を埋めた。生温かい息に触れた。やはり僕が好きでないというのは嘘なんだろうなと思った。
「余計な所触るなよ。」
「うん。」
そうは言ったものの、弟は唇で首筋を辿り、頸にキスをしかけた。
「はい!終了!」
僕は慌てて弟の腕から抜け出した。危ない所だった。振り返ると弟の熱い視線とぶつかった。昨晩とは違う視線だ。
「こういうのはやめろよな。」
僕はそれだけ言って、荷物を背負って部屋を出た。居間に向かうと義母を見つけた。義母はソファに横になっていた。側のテーブルの上には空いた酒瓶がある。
「帰るのね?」
「用があるんです。」
義母は長いため息をついた。忌々しげに髪をかきあげた。
「いきなりこんな事に巻き込まれて、貴方もさぞ迷惑でしょうね。」
義母はグラスを手で弄んだ。そして中の酒を一気に飲みほす。
「別に、そんな風には…」
「あの人について行くのか、私について来るのか、考えておきなさい。」
「は?」
義母は体を起こしてきっちり座り直した。その動作はしっかりとしていた。僕の顔を見つめて張りのある声で言った。
「私は貴方を引き取りたいと思ってるわ。」
いきなりそんなことを言われても困る。僕は後ずさった。困惑した。
「あの、僕は…」
義母は何も言わなかった。
「僕は……」
「私和正さんと結婚します。」
静香さんは僕の反応をうかがっていた。
「構わないかしら?」
「離婚してませんよ。」
「時間の問題よ。きっとする。単刀直入にいうわ、貴方はどっちにつくのかしら?」
静香さんは平然とした様子でお茶を飲んだ。
「僕は関係ないですよ。」
「私景君に嫌われてしまってるのよね。」
「はあ。」
静香さんはおもむろに立ち上がると、僕の隣に腰かけた。それから僕の肩を抱き、身を寄せた。
「私の力になってくれない?ね?」
猫撫で声でそう言う。なるほど、父親はこういうのが好きらしい。
「結婚したけりゃすればいいと思いますよ。そのための障害くらいは自分で解決して下さい。」
静香さんは僕の手を撫でた。僕はびっくりした。彼女は僕の方にグッと身を乗り出した。僕に視線を絡ませながらひっそりと呟く。
「私のこと嫌い?」
「興味ないです。他人ですし。」
キッパリと言った。お気に召さなかったようだ。今度は僕の手を強く握ってきた。
「あのね、和正さんは今の結婚に苦しんでるの。分かるでしょ?だから助けなきゃ。息子でしょ?父親を支えなくちゃいけないわ……」
無口だと思っていたがそうではないようだ。僕は説教を聞き流した。この女性は何も知らないのだろう。父親に都合よく扱われているに違いない。
「父のこと信用しすぎじゃないですか。」
静香さんは得意げな風で答えた。
「変なことを言うのね。信じないのがおかしいわ。私は彼を愛してるのよ?」
また彼女は僕の様子を探った。居心地が悪かった。この女性のことが嫌いだと突然思った。
「父を愛してるんですか?」
静香さんは優しく微笑んでみせた。僕にはそれがわざとらしく思えた。
「勿論。真剣なお付き合いをしてるわよ。貴方には受け入れられないかも知れないけれど…でも、私はね、誰よりも近くで、あの人を支えたい、愛したい、そして彼に愛されるという幸福を与えたい、だから結婚したいと思ってるの。」
あまりにも饒舌なこの女性が不快でたまらない。この人の口から出る言葉は全て嘘だとも思った。僕は静香さんから身体を離した。しかし、彼女はすぐに距離を詰めてきて、僕の腕を絡ませて言った。
「私、貴方の母親になれるかしら?」
「僕の母親は一人だけです。」
静香さんは少し顔を歪ませた。一瞬のことだった。僕は安堵した。ほら、美しい顔は消え去った。この人の本性が露わになった。僕は満足感を覚えた。
「疲れてるんで。じゃあ。」
僕は腕を振りほどいて立ち上がった。静香さんは僕を見あげていた。表情は穏やかだったが、目は怒りに満ちていた。直情的で分かりやすい人だなと思った。父親がこの女性を引っ掛けたというより、この女性が父親に引っかかったという所だろうか。
今晩外に泊まろうかとぼんやりと考えた。




