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ハーミット・ブルー  作者: 狐宮
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序章 『シアル・ラン防衛戦』Ⅱ

 第二話「獣の民」


 「静かに…」

 「うー…何でアレが夕方にうろついてるのカナー…」

 家を昼前に出てから数時間、何事もなく、深い森を更に奥へと歩いていく。

  …一体どこに目印があるものか、いや、無い。

  何処を見ても同じ景色が続く大森林だ。並みの人なら確実に迷う、

  現に私も森の奥へは踏み入らなかった。

 そんな大森林の奥地で夕暮れを迎え、徐々にではあるが、森が赤みを帯び、視界が悪くなっていく。

  何よりその赤みを帯びた森の一際暗い部分から、真紅の双眸がユラリと揺れている。

 竜刃種と出くわすという最悪の状態が現状である。

  どんな体躯をしているのかも分からないが…ただひたすらに息を殺し――。

 「っぷし!」

 …。やってくれた。最悪のタイミングでクシャミをしてくれた。

  両手で口元を押さえて目を丸くしているアーネだが…。

 「気づいてないかな…」

 淡い期待を込めて、私に尋ねてきたが、低い唸り声が代わりに返事をしてくれたようだ。

 

   「グルァァァァァ…」


 敵対する意思が剥き出しの唸り声と共に、地鳴りのような足音が、私達の足に伝わってくる。

  戦うか? 無理だ、そもそも武器が無い。 逃げるか? 

  無理だ、暗い闇から現れた10mはあろうあの巨躯からは。

 ならば…死ぬか…。私が囮になれば彼女は逃げられる。――どの道、遅かれ早かれ私は朽ちる身だ。

 手元に転がる石を紅く染まるややヌメり気のある竜刃種の巨躯に投げつけ

 「今の内に村に駆け込め!」そう言い放ち、アーネを

  森の更に奥深くへと押し込み、竜の真正面へと飛び出した…のだが、

  あろうことか震える彼女まで張り付いてきた。

 「何をしている…早く逃げろ!!」

 「いやだ!」

 「我侭を言うんじゃない!」

 「ボクを村まで連れて帰るって言った…言ったよね!?」

 …帰す言葉も無い。が、この場合は「君だけでも、に変更だ。さぁ行け!」

  と言ったのだが聞かず、いやだいやだと。

  彼女を右手で庇いつつ、低い姿勢で今にも襲い掛かりそうな竜刃種を睨み、

  必死で生き残る術を模索する。

 が、そんな猶予も与えられず、巨大な右腕が振り下ろされる。

 「くそ…せめてこの子だけでも!!」

 「いやだブルーやめて!!」

 蹴り飛ばしてでも助けようとしたが、怯えながらもしがみ付いて離れない。

  最早万事休す、諸共にあの腕に押し潰されて――。


 「その意気や良し!!」

 「…な!?」

 なん…だ。なんなんだ、紅く、紅く燃えるような長髪を靡かせ、

  最早それは剣なのかと思える程に無骨な巨大剣を右手一本で肩に担ぎ、

  尚且つ、剣の腹で竜刃種の重撃を受け止め、

  朝日も霞むほどに眩しい笑顔を見せている女性が眼前に立っていた。

 「てぃーしぇぇぇぇぇぇぇ…」

 父、では無く、母だった…のか、アーネと同じく、

  極めて露出の高い毛皮を身に着けた褐色肌の妙齢の女は、軽い気合いと共に、

  巨大な剣を振り上げ、竜の腕を弾き返すどころか仰け反らせた。敵に振り返った彼女は、

  軽く振り返り「もう大丈夫だ」と、余裕の笑みを見せつける。

 ブルーはこの時、戦慄を覚えた。恐怖では無く、

  彼女の背の大きさが、竜をも凌駕して見えた事に…だ。

  背を見た、それだけだ。それだけなのに…ブルーの此処にある筈の無い心は安堵を覚え、願う。

  『生きたい』と。

 本人はそれに気づく事も無く、怯えるアーネを抱え上げ、彼女の邪魔にならないように距離を取る。

 「少年、その子は大事な一人娘…頼んだよ」

 「はい!この命に代えても」

 「…良い返事だ!」

 不思議だ、まるで上官とその部下。その関係が瞬く間に確立されてしまったような、

  だが不思議と心地よい。

  彼は心の奥底に燻る理解出来ない何かに突き動かされ、

  再び茂みの中へとアーネを抱え、飛び込んだ。

 そして、そこから恐る恐る顔を出し、この戦いの行方を…だが、既に決着が付いていた。

  竜刃種の巨躯が物の見事に両断され、断末魔をあげる時間すら与えられず絶命していた。

 紅く染まる夕暮れの、紅く染まる森の中、竜の返り血と夕日を浴び、真っ赤に染まる彼女は、

  ただ一言つまらなさそうに呟いた。

 「ちっ…弱過ぎる。これじゃ大した素材にならないねこりゃぁ…」

 竜を倒す為に必要な素材なのだろう、その一部の鱗を剥ぎ、

  不機嫌そうに腰につけていた皮袋に詰め込んでいる。

  詰めるだけ詰め込むと、彼女は茂みに隠れた俺達に

  「もう出てきてもいいぞ」と、またしても笑顔で。

 ブルーは、まず何をすべきかを悩む。間違いなく彼女は豪傑の類の人間だろう、

  然し、それ以前に一児の母なのだ。

  慌てて、彼女に歩み寄り、深く、深く頭を下げ、謝罪をした。

  「おいおい、何で謝る? そこは礼を言うべきだろう…いや、アタシが言うべき場面なのか…」

 アーネと同じく紅い長髪を軽く掻きながら、恥ずかしそうに、

  それでいて困ったように口元をへの字に曲げている。

  「貴方の娘の帰りを遅らせ、あまつさえ命までも危険に晒してしまったのですから…私は」

  「ほぅ…」

 …。暫し、静寂と共に値踏みするように彼女は私の足元から顔まで見て、

  更に心の奥底までも見透かそうとしているのか、瞳をじっと

  見続けていた。ブルーは蛇に睨まれた蛙の如く、硬直し、ただ次の彼女の反応を待つしかなかった。

  「エクシオンの特徴は光の届かぬ漆黒の瞳だが…君、何か混ざっているな?」

  「…っ!」

  「分かりやすい反応だねぇ。ま、娘の面倒を見てくれた礼は言わせて貰うよ」

 と、ブルーの頭を鷲掴みにし、力任せに撫で付けた。

  本人にしてみれば撫でているのだろうが、ブルーにしてみれば今にも地中に押し込まれ

  そうな程に強烈な圧力が頭の上にかかっていた。

  が、突如圧力が消え、彼女の一言に何か得体の知れない恐怖がこみ上げた。

  「で? アーネとは何処まで仲良くなった? ん? まさか…」

  「不可抗力とは言え、アーネの裸を幾度か見てしまいました。…なんなりと御処罰を」

  「裸?…へぇ」

 こみ上げた恐怖が加速する。この場合、嘘をついて言い逃れれば良かったのか、

  いや、彼女に嘘は通用しない。

  そうブルーは考え、震える体を必死で押し殺し、怒れる母の天誅を待つ事にした。

  「で…どうさね?」

  「どう…と、言われると…」

 何だ、何なのだこの人は、底が見えない、考えが分からないただひたすらに――怖い。

  まだまだ続く静寂の中、ブルーは頭を軽く小突かれたのだが、

  余りの威力に地面に這い蹲る形となった。

  「娘の体はどうだった? そう聞いているんだよバカタレ」

  「ティーシェ!?」

  「いい感じに育ってきたし、そろそろ孫の顔も見たいと思ってた所なんだよ。ねぇアーネ?」

  「ふぎゃっ!」

 実の娘の成長を確かめるように胸を鷲掴みにする母親、酷い絵面だ。だが、どこか微笑ましくもある光景を、下から見上げるブルーは、少し妬ましくも思った。

  私の母も強かった、けれど…心が弱かった。私の母もこの人と同じくらい強かったら…と。

  「魅力的、それでいて健康的な子だと、本心からそう思いました」

  「少し話をそらしたな…で?」

  「…で? と、言われましても…」

 理解出来ない、話が見えない。何を考えてるのか…いや、今度は大よそ検討がついた。これは間違いなく私は怒られるだろう…と。

  「それだけ魅力的な据え膳、喰わないでどうするんだい…情けないね!!」

 今度の拳骨一撃はかなり痛烈なモノとなり、ブルーは強制的に意識が飛びそうになる中、私は私なりに苦労したんですよ…と、

  激しい痛みを伴う頭の中でポツリと呟き、気絶した。

  「ティーシェやり過ぎ!」

  「あらら…貧弱だねぇ。にしても、これがアーネを変えた少年…か」

  「ようやくオシリアイになれたの、だから邪魔しないでねー?」

  「そうかいそうかい。ま、アンタにしてみりゃ、おおよそ五年の片思いだからねぇ」 

  「むぅ…」

 アーネを『変えた』という意味深な言葉を残しつつ、

  彼女の母はブルーを軽々と肩に担ぎ、センティアの集落『エネイル・エイル』の方角へと。



 エネイル・エイル。ノウェル大森林のほぼ中央に位置するセンティア達の集落。彼等は森から出る事も無く、独自の文化を古来より変わらず持つ種族。

  その民族性は暢気で、温厚ではあるが…古い、そう古い昔。一つの国がこの森から得られる多大な恩恵を我が物にしようと、攻め入った。

 今は既に亡きエンゲイル国は、森に住まう動物達を狩り続け、木々を切り倒し続けた。そんな中、センティアの少年は、彼らを諭そうと

  エンゲイルの将のもとに希少な手土産を持って現れたが結果。 『獣臭い』と言い放ち、少年の首を切り落とし、吊し上げた。

 それから数日間、尚も搾取を続けるエンゲイルの者達の耳に、深い悲しみの吼え声が聞こえ続けたと言う。

  ある程度の搾取が終了し、国への帰路へと準備する中、彼等は突如現れる。その双眸は怒りと悲しみに満ち溢れ、エンゲイルの民を包囲していた。

 数にモノを言わせて彼等に誅を下すのか…、そう思われたが、包囲から現れた一人の茶色い蓬髪の男が吼えた。

  「ディ クラ バ ワ ライ(我等が森と、我が息子の痛みを知れ)!!!」

 混乱気味だったとはいえ、少なくとも100は居たであろう敵兵をただ一人で…いや、あれは戦いでは無い。虐殺したのだ。

  後に、エネイル・エイルは『禁忌種』との異名を持つようになる。

  …。ブルーは気が付けば既にセンティアの、禁忌の民の集落へと辿り着いていた事に、後悔と僅かばかりの好奇心が同居する得も言えぬ不快感に

  不安になっていた。アーネの村近くまでの筈が中に入ってしまっている。あの禁忌の集落にだ。

 曰く、大陸東部最強の部族。曰く、大森林の守護者…彼等が動く時、それ即ち歴史が動く時。…軽く首をふり、誇張だと思いたい。

  思いたいが、アーネの母の常軌を逸した強さを目の当たりにすれば、真実だとしか思えない。

 ふと、自分が寝ていた場所が気になり、上を向く…三角だ。 三角屋根…何か動物のフンを乾燥させたようなものが塗りこまれた毛皮のテント。

  臭そうだが不思議と臭くなく、暖かい。好奇心を満たすべく、次は地面へと視線を向けると一際大きな一枚の茶色の毛皮…これは。

  「…アーネが5才の頃に倒した竜刃種。 ここら一帯のヌシだったヤツさ」

  「アーネが…彼女が、そんな年齢で竜刃種を?」

 先ほどから人の気配はあった、監視でもされているのだろう、そう思い気にも留めていなかった。だが、思わぬ言葉が放たれ、その事について尋ねた。

  「あの子はね、もう五年になるか…アンタを見つけるまでは、文字通り獣…いや、ありゃ魔獣ともいうべき子だったのさ」

  「魔獣…そんな風には見えませんが」

  「アンタを見つけて初めて、人として在りたく思ったのか、アタシから共通語を学び、人として、女の顔になったのさ」

 五年…私があの地に流れ着いた頃か、あの時から見つけられていたのか。ブルーは驚いた素振りを隠し、彼女の顔を見上げる。

  そんな彼女は困ったように大きく溜息を付く。

  「はぁ…そこまで良い。とても良いんだ。人として、女として生きてくれるならさ…」

 一体何があったのだろう、酷く困った顔をして、俺に何とかしてくれと言わんばかりに…。

  「何か不都合でも…?」

  「そりゃもうねぇ…。あの子の将来性はアタシすらも超えていくだろうね…けど」

  「けど…?」

  「料理が壊滅的にヘタクソなのさ。何度教えてもダメっぽくてねぇ…?」

 あー…、と何度も頷き、少し前に飲んだ超絶酸っぱいスープ。喉を焼き尽くすインフェルノを思い出すが…その瞬間悪寒が走る。

  「あの…まさか」

 恐る恐る、テント壁ごしに外へと視線をやると、神の悪戯か…何かが爆発したような音とともに、僅かながら地響き起きた。

  「ああ、悪い。アタシはちょいと旧敵…もとい旧友に会いにいく用事がある。任せたよ少年、幸運を」

  「え、あ…幸運!? ちょっ…」

 止める猶予も与えず、迅速かつ静かに三角屋根のテントを出て行くアーネの母を、慌てて差し出し、空しく空を掴んだ右手と共に呆然と見送るしかなかった。

  どうしよう…逃げようか。などと考えるが、何故このタイミングでアーネの過去の一部を話していったのか、そこが引っかかり…。

  「怒らせるな…って事か」

 どうやら大人しく食べる。その選択肢しか無いようだ。然し、今先ほど旧敵とか言っていたような…ますます持って分からない女性だ。

  竹を割ったような性格でありながら、同時に鋭い観察眼も持ち合わせる。一体、何者なのだろうか…と。

  「ブルー? 目を覚ましたー? あれ? ティーシェは?」

  「ああ、旧友に会いにいく用事があるらしく…」

  「むー…また逃げた」

 また、なのか。あれ程の豪傑が尻尾を巻いて退散する料理…考えるだけで胃が萎縮する。そんな考えを露知らず、アーネの両手には大きな葉のお皿が

  乗っかり、その上には…あれ? 普通に…出来ている?

 鳥肉を串刺しにして焼いたモノ、黒こげでは無く、ちゃんと火の通りも良さそうな…。

  三角屋根のテントの中央に、これでもかと並べられた料理はどれ一つとして失敗作には見えない…が、見た目は普通、中身はカタストロフなソレなのだろうか。

  「あははー…また失敗しちゃってさー…美味しくなかったらゴメンね」

  「いや、普通に料理として出来上がっているようにしか…」

  「お世辞より食べて食べてー」

  「あ、あぁ。 いただきます」

 恐る恐る鳥の串焼きに手を伸ばし、口に運ぶと、程よい塩味が鳥の脂の旨味を引き立たせている。…おかしい。

  次に根野菜を煮込んだモノだろう。木製のスプーンで軽くつつくと、ホロリと身が崩れ、中にまで味が染み込んだ薄茶色。

  「む。甘芋に…ラキシャの果実を少し混ぜた…のか。甘酸っぱくて柔らかく、喉に優しい素朴な味が…」

  「あえ? 失敗したのに何で褒められてるのかな…」

  「コレの何処か失敗なのかな? とても美味しい料理に仕上がっているよ」

  「えー…」

 えー…。同じく脳内で不満を漏らしつつ、出来る限り食べ、そしてアーネにお礼を言う。

  何か凄く不満げに「おそまつさまでした」と棒読みで…もしかして、料理のセンスというか感覚が狂っているのか?

 またしても彼女に対して分からない部分が出来てしまった。分からない部分といえば…ブルーはアーネの顔をまじまじと見つめる。

  それに気づいた彼女は、暗がりの中、少し頬を赤らめていた。

 彼にしてみれば、こんな可愛い子が、こんな大きな竜刃種を…? いまだに信じられないと、アーネと足元の毛皮を交互に見ていた。

  「あー…。ティーシェから聞いたのかな。コレ」

  「ああ。いまだに信じられない」

 それはそうだ、先ほどの竜刃種も同様に大きく、強い。結果的にアーネの母が容易く屠ってしまったが…その時、彼女は確かに震えていた。

  …震え? いや、まさか。

  「アーネ、もしかしてあの時、震えていたのは…」

  「うん、俗に言うムシャブリリ…? 何か違う、ムチャブルイ? コレも違う…」

  「武者震いだよ。つまりは昂ぶっていたって事か…」

  「なはー…可愛らしい女の子の印象付けしたかったのだよー」

 母の入れ知恵か? 自然体が一番なのでは無いか…そう一瞬おもったが、ブルーの脳裏に魔獣の二文字が浮かび上がり、一番の後に疑問符が付いた。

  …その後、彼は再び理性崩壊の窮地に追い込まれる事になる。

 母親不在の夜、寝室はこのテントのみ。つまり…一夜を一つ屋根の下で…である。

  その夜、テントから彼の「外で寝る」と、彼女の「一緒に寝るのー」と言う声が幾度も響き、疲れきったのか、静かな寝息だけが聞こえていた。


 *****


 場所は移り、この大陸を東と西に切り分けるように流れる運河。この川は運命の川の略称で運河と呼ばれている。

  大森林中央から西へ、禁忌の民ならば半日足らずで川辺の町に辿り着ける。

 清く、正しく、美しく。その三原則を高らかに謳い生きる民。水の民「ネーレイド」の町、フィルフィス。

  その町に沿うように流れる運河を見つめる、蒼い瞳。水の流れと共に運ばれる風が、彼女の水色の細く美しい腰まで届く髪を優しく撫でる。

 蒼と白のドレスと、腰に挿してある細剣。ナックルガードに細かい装飾の入ったいかにも値の張りそうな一振りを抜き去る。

  風を切る音と共に、抜き去った細剣の切っ先が、彼女の右手にある木の木陰に向く。

  「年に一度の楽しみ、無粋な真似をするな」

  「あー…バレてたか。完全に気配は消したつもりだったのにねぇ…」

 木の木陰から出てきたのは、アーネの母であった。どうやら旧友とやらはこのネーレイドの女性のようだ。

  既に時は深夜。秘密の逢瀬…とも言うべきか。彼女達は年に一度、この時、この場所で一合のみ、剣を交えていた。

 先ほど抜き放たれた流麗な細剣を下げた状態でユラユラと揺らしつつ、ネーレイドの女は僅かに腰を落とす。

  力みも無く、ただ自然体、ただあるがままに。

 対する、アーネの母は、対極である。周囲に住む人が目を覚ますかと思えるほどに大きく風を切る音と共に大剣を振り上げ、肩に乗せ、腰を落とす。

  大きく力を溜めるもこれが戦闘中の彼女の自然体、あるがまま。

 互いに構えを確認するや否や、地を蹴り、距離を縮める。瞬発力でいえばアーネの母が勝っていたのだろう。

  先に振り下ろされたのは、見るからに重く、遅い筈の大剣であったが…、大きく空を切り、地を穿った。

 まるで大量の火薬でも爆発させたかのような音と共に、粉塵が舞い上がる。粉塵の中から一瞬の閃光が走り、アーネの母の眼を捉えた…。

  捉えた筈だったが、左手で細剣を掴み、刺し貫かれる寸での所で止まる。

  「眼を狙われて、瞬き一つしないとは…相変わらずの豪胆ぶり…ふ。久しいなエステシア…いや、紅の戦鬼殿」

  「その名で呼ぶなっての。アタシゃまだ心は乙女なんだよ乙女!! 鬼とか酷すぎるだろ全く…」

  「さて、用は済んだ。一年後。一日千秋の思い込めてこの時、この場所で、刹那の剣戟を持って語らおう…」

 とてつもなく冷めたネーレイドの女は、軽く細剣を左右に振ると腰の白い鞘に収め、エステシアから背を向ける。

  慌ててエステシアは、彼女を呼び止めた。

  「ちょっと待ってくれないか。今回は別用も込みなんだ」

  「私と君にこれ以上の関係は…不要」

 見事にばっさり斬り捨てられたエステシアは、ある人物を口に出した。

  「そうかい? 戦鬼を破ったエクシオンは知っているだろう。何せこっちにアタシが流れ着いた理由だからね」

  「…運河の向こう、往く術もなく届かぬ望みだ」

  「いーや届くさ。何せ、その息子が…流れ着いてきているからな。あの面影は間違いないし、忘れもしない」

 その言葉に、彼女は振り返り、鋭く、長く、美しく、何よりも冷たい眼でエステシアに問いただす。

  偽りは無いのか、私を呼び止める出任せでは無いのか? と、半信半疑ではあるものの、彼女の胸は期待に溢れ、

  押し殺した心とは裏腹に、笑みが毀れ出る。

  「どうだい? 東の大陸最強にして、孤高のフェンサー、クリアネル…いや、蒼の求道者殿」

  「つまらぬ意趣返しを…。然し息子…か、西の大陸最強と謳われるフェンサー…その、息子。息子…か」

  「ああ、しかも…だ。とてつもないモノが混ざってるなアレは」

 クリアネルは、息子という単語に少し落胆しつつも、混ざっている。その言葉に再び笑みを漏らす。

  対するエステシアは釣れた! と、喜ぶが、あえて淡々と語る事で更に彼女の興味を引こうとする。

 何を彼女は考えているのだろうか。己が軽く屠り、弱いと言い放つ竜刃種にあわや殺されかけた貧弱な少年に、

  求道者とまで言われる彼女に、何をさせたいのか…それはエステシアしか知る筈も無く。

  「解せぬ」

  「ああ、まぁそうだろうね。当人ならいざ知らず、混血児の息子と引き合わせて…、

    まぁ、会えば分かるさ。断言してもいい、アンタは必ずあの子に夢を見る」

  「ほう、夢…か。…戦鬼にそこまで言わせる少年。実に、実に…興味深い」

 釣れた! そう確信するに値するクリアネルの手癖、心の底から興味が湧く時、細剣のグリップを人差し指でなぞる。

  これは彼女の無意識下での物差しなのだ。斬れるか? 斬れないか? と、悩みを脳内で反芻している。

  今まで彼女を見た中で、あの手癖を示した相手に関わらなかった事は絶無。これで良し、と、にんまり顔を綻ばせるエステシア。

  「…いつでも連れてくると良い」

  「ああ、付け加えるに命が惜しくなければ…だろ?」

  「子供とて、剣の才あらば生き延びられよう…なければ、死ぬだけだ」

  「あーあー…手厳しいったらありゃしない。ま、あの子にゃ丁度良いのだろうけど」

 その会話を終えると、これ以上の会話は不要、とばかりに二人ともほぼ同じタイミングで背を向け、去る――筈だが。

  「夢…我が大願は、最も強き者と死合う事」

  「時間はかかるだろうがね。ま、現状は下位の竜刃種に殺されかける程の貧弱さだけど」

  「…待て」

 そういい捨てると、エステシアは斬りかかられる前に一目散に駆け出した。

  その顔は悪戯っ子のような笑みを見せつつも、若くして世捨て人となった少年が、その全てを取り戻した時…どうなるのか。

  もしかしたらクリアネルの様に自身も挑むかもしれない。完成された種族エクシオンと、幻種ユーストリアだろう混血児の将来性に年甲斐も無く

  心が躍っていた。そう、彼の雪のように白い肌はユーストリア・漆黒の瞳はエクシオン。『星巡りの後継者』の特徴のソレなのだ。

  「あはは!…神話の混血児。滅世の涙を止める者になるか、楽しみだよ全く」

 多くと戦い、多くを識る彼女は、出会った時点で彼の父方と母方の種族を予想していた。

  

   戦の鬼は、彼を戦いの渦中へと誘うべく動き出す。近い将来くるであろう『滅世の涙』を止める為――そして、自身の飢えを満たす為。

    彼女もまたクリアネル同様に、戦いに魅入られた求道者。恐らくは世界の危機など二の次なのだろう。

 


 *****



  「…っくし!」

  「寒い? 暖めてあげよっか? ヤワハダで」

  「…そういう要らない知識は忘れてしまいなさい」

 大陸屈指の二人に目をつけられた事からのクシャミであるとは露知らず、まだ日も昇らない明け方の寒気に身震いするブルー。

  そんなブルーに寄り添おうと、一ミリ、また一ミリと気づかれない範囲でにじり寄っている。

 同時に彼もまた、気づかれないように一ミリ、また一ミリと逃げている。何せ疲れきって寝た後に、アーネがしがみ付いて寝ていたのだ。

  起きた直後の彼の驚きようは、本当に心を捨てたのかと思う程である。いや、アーネが僅かずつではあるが、彼に心を与えているのかもしれない。

  「そ、そうだ。余り長居しては悪いから、日が昇れば私は帰るとするよ」

  「…ダメー」

 口をわざとらしく尖らせたむくれっ面でダメー…愛らしいといえばそうなのだが、どうにもブルーの脳裏に魔獣という二文字が離れない。

  一体、どのような意味を含めた魔獣なのだろうか。悪い意味なのだろう、そう思えるしこのままそれが忘れ去られる事を願うばかり。

 むくれた彼女を他所にブルーは考えていた。それでも、私は必要以上に干渉したくない…誰であろうとも…。

  「悪いのだけど、私は早々に帰らせて貰う」

 これ以上、アーネと居ると忘れた過去が悉く蘇る可能性がある。それを恐れてか、彼は冷たい態度で彼女の好意を斬り捨てた。

  「やだ…」

  「すまない。私にも私の事情ありきでね。…もう誰とも、必要以上に仲良くはなりたくない」

 そう言うと、ブルーは立ち上がり、テントを出ようとした。この空気なら止められる事もなく、すんなり出れるだろう…と。

  一つしかない出入り口に手をかけると、後ろからアーネに掴まれた。然し、それは止める為の行為では無く、押しのける為だった。

 ブルーを勢い良く押しのけ、我先にと出入り口を潜り彼を置き去りにして出て行ってしまった。その直後。聞き覚えのある声が。

  「お、おいアーネ!?」

 …彼女の母だ。最悪のタイミングで帰ってきてしまったな…ブルーはどうしようかと溜息を一つ吐き、エステシアが入ってくるのを待った。

  「アンタ、何をしたんだい?」

 出入り口からひょっこり顔を覗かせた彼女は、怒っているでもなく、あくまで冷静。現状の把握を先にしようと言うところだろう。

  「…彼女の好意を斬り捨てました」

  「そうかい…理由は聞かないでおくよ。 でも、外を見てくれないかい?」

 …彼は軽く首を傾げ、軽く頷く。そして初めて禁忌の集落…それを目にした。…集落? 違う、これは…墓場だ。

  木の棒を十字にくくり付け、地に打ち付けられた夥しい数の簡素な墓。集落と言うには人の気配も無く、墓場としか言い表せない。

  「これは…」

  「禁忌の民の話は知ってるだろうね。その末裔達の墓だよ。とある娘の暴走を止める為に戦った戦士達と、父親のね」

 冗談だろう、一人で百の精鋭を虐殺する程の末裔達を…? 想像を遥かに超えた強さを彼女は持っているのか…。

  空は曇り、小雨が降る中、元集落という凄惨な景色をいたたまれない思いで見る二人。

  「これは、知ってるかい? 混血児はね。両種の力を必ず受け継ぐ、加えて新たなる力を持って生まれるって」

  「はい。もしくはロストスキル…失われた能力を持って生まれてくる」

  「ああ、そうだ。そしてそれがどちらの種族からも忌み嫌われる原因…いや、恐れられているんだ…君はどちらだい?」

  「…停滞のロストスキルです」

  「こりゃまた…ちなみにあの子は、火と獣の特性双方を併せ持つ新たな力。アタシは魔獣化と呼んでいるけどねぇ」

 相変わらず彼女に隠し事が出来ない。そう思いつつ、次第に強くなっていく雨に打たれながら考える。

  魔獣化したアーネを止める為…いや、森を守る為なのだろうか、或いはその両方か。

  何より、多大な犠牲を払った屍の山で我に帰ったアーネ。その屍の中に実の父親の…。私はまだ、幸せだったのかもしれない。

 父は同種との戦いに敗れ、母も…。情けない。

  「少しはアーネの事、理解してくれたかい?」

  「はい。私は私の事ばかり考え、私だけが不幸だと…そう思い込んでいました」

  「じゃ、愛娘の心の痛み、癒して欲しいものだねぇ。下手すりゃまた魔獣化しちまうかもしれない」

  「勿論です。今、私は彼女に…アーネに伝えるべき言葉が、確かにありますから」

 ブルーはそう言う否や、アーネの走り去った方角をエステシアから聞き走り出す。この時既に彼は涙を必死に堪えていた。

  己のした事の悔恨、余りの不甲斐なさに。

 アーネの元へと走り出した彼の背を見送り、視線をどんよりと曇った空へと悲しそうに見上げる。


  「すまないねぇ、ベル…また悲しませてしまったみたいだ。

    けど、今度は悲劇では終わらない…今度こそは終わらせやしない」


 誰にともなく、優しく語り掛けるエステシアの真紅の瞳から毀れ出るのは、涙だったのか、ただ雨に濡れただけだったのか。

  そして、遥か過去の出来事に関与でもしていたのかのような呟きをかき消す様に、降り注ぐ雨は次第に強くなったいった。


*****



 降りしきる雨の中、彼は走る。雨に濡れ、衣服も靴も泥にまみれ、道ならぬ小道を小枝で少なからず傷を負いながら。

  何十分走ったのだろう、実際の時間の流れとは酷く遅く感じさせる焦り。早く見つけないといけない焦燥感。

 長い間、激しい運動を控えていた所為か、既に息もするのが辛い。胸が苦しい、心臓が破けそうだ。

  不意に足の力が抜け、泥と化した土へと倒れこむが、それでも前へと進もうとする彼の目の前に、一人の女が立っていた。

 蒼と白のブーツは土に汚れ、ドレスもだ…細く長い水色の髪も雨に濡れ…然し、それでも美しさはただの一つも損なわれていない。

  蒼の瞳は、光の届かない深海のように暗く…深い、まるで自身の瞳と同種とも思えるほどに…意思が見えない。

 だが、それに反した口元の笑み。美しくもあるが、どこか狂気を伴った微笑み。

  スラリと細い右腕がある方向を指し示す。

  「これ以上、世界を悲しませるな。アレは見ているのだ…全てをな」

  「世界…? あ、あの、貴方は…」

  「疾く往け、手遅れになる前に」

 ブルーは即座に理解した。彼女はアーネの居場所を知り、それを伝えてくれたのだと。だがその言葉の真意も分からず、

  彼は残りの気力を振るい起し、彼女の指し示した方角へと駆けた。

 再び走り出したブルーの背中をクリアネルが、溜息を吐き、呟く。

  「エステシアを斬り捨ててやろうと追いかけてくれば…あの女、これを見越して…か」

 この私がこうも手玉に取られるとは…と、顔は不快そうに眉を潜めていたが「一本取られてやるか…」と内心で呟き、

  ゆっくりとブルーの走り去った先へと、歩み出した。


 最早、これ以上は走れない…だが走らなければいけない。意志と肉体が反発しあいながらもその痛みに耐え、尚走る。

  獣道に突き出た小枝でかなりの切り傷を負いながら、ついに開けた場所へでた。

 そこは円形状に開けた場所であり、中央にはまだ背の低い若木があり、その傍で膝を抱えて蹲るアーネが居た。

  「アーネ…」

 考えも何も無く、ただ満身創痍の体を引き摺り、彼女の傍に歩み寄り、ついに力尽きたのか、水飛沫を上げて、両膝を付いた。

  「…アーネ、すまない。私は――」

  「帰って…」

  「アーネ…これだけは聞いて欲しい」

 何も聞きたくない、何も見たくない。既に彼女の中で崩れ去った心の残骸がそう叫ぶ。――もうこれ以上壊さないで…と。

  「私は、自分の事ばかり考えていた。自分ばかりが不幸だ、これ以上傷つきたくない…もうこれ以上、

    自分を壊さないでくれ…と。恐れていたんだよ、怖かったんだ…全てが」

  「…」

 この時、アーネの心の痛みが、同質同量、いや、それ以上と知った彼は、初めて自分からアーネの髪に優しく触れた。

  「ただ、逃げていたんだ、全てから。だけど…君なら、君となら…」

  「…もう、いいよ。無理しなくていい。 ずっとずっとこんなに辛かったんだよね」

 互いに互いの痛みを知る事が出来るのは稀である。 本当に痛みを知れば慰める事が出来るのか…答えは残酷である。

  傷の痛さ深さを知ったからこそ、アーネはブルーを突き放そうとした。一人でいれば少しだけ痛みが和らぐ事を知ったから。

 そんな互いの傷の舐め合いにも至らない、もどかしい二人を冷ややかな視線で見ているクリアネルが少し離れた所で立っている。

  空気を読み、このまま身を潜めているのかと思えば、あろう事か、最早語る力すらなく、嗚咽を漏らし抱き合う二人へと歩み寄る。

  「先に言おう、私はネーレイドの純血種だ。君達の痛みなぞ知り得る筈も無い…」

 言葉が届いているのかいないのか、そんな事すらも我知らず、ただ淡々と語るクリアネル。

  「そして、もう一つ分からない。 君達だけなのか? この広い世界で混血児として生まれてきた者は…」

 何が言いたいのだろう、何を考えているのだろう、彼女は腰に下げた流麗な細剣を抜き放ち、見えない地平の彼方へと向けた。

  「其処に悲しみがあるならば、創れ、悲しみの無い地を。…彼方の地にて目指せ、高き頂へと」

 抜き放たれた刃と言葉は、アーネにより僅かに癒された心を寸分違わぬ正確さで貫く。その意味は二人で旅立ち、居場所を創れ…と。

  言葉にするにはとても容易い、だが、それを行うは余りに険しい。

  「私には、これからの君達が酷く輝いて見える、羨ましい限りだ」

 心底羨むように彼女は語り終え、ただ静かにブルーの返答を待ったが、相変わらず嗚咽を漏らすのみ…大事な事なのであえて言おう。

  クリアネルは常に高みを目指す者であり、心身共に強き者であり、それを他人にも強要する人修羅でもある…と。

 そんな彼女の取った行動は、今だ泣き続けるブルーをアーネから蹴り離し、一振りの細剣を放って寄越した。

  クリアネルの携えた細剣と瓜二つの姉妹剣である。

  「世界に一対しかない業物だ。使え」

  「わ、私は…」

  「君も、君が進むべき道、見えているのだろう? なれば後は…」

  「…はい」

  「それを成す為の力、私はそう思えるが」

 二度、ブルーは強く頷くと、彼女に投げつけられた白銀の細剣を手に取る。軽い…持っている感覚すら怪しむ程に。

  その瞬間、父親や母親の最後が彼の脳内を、残された僅かな心を焼き尽くさんとばかりにフラッシュバックする。

 とあるイフリタとの一騎打ちの果てに右腕を失い、私達を守る為の力を失い、それでもイフリタとエクシオンから身命を賭して守り、戦い、倒れた父。

  逃亡の末、人里離れた運河の辺で私を育ててくれるも、心労に倒れ、それでもエクシオンの追っ手から身を挺して倒れた母。

 そして、その直後、運河へと身を投げた…愚かな私。 何故、あの時、戦おうとしなかった? 私にも戦う力があったのだ。

  今更ながらに、愚かしきは自分自身だと思い知らされた。 

  「私…は」

  「このまま逃げるか?」

  「私は、勇敢に散ったエクシオンの父と…、ユーストリアである母の…子です」

  「ならば、君もさぞ勇敢なのだろうな」

  「当…然」

 剣を握ると痛ましい過去が鮮明に蘇り、体に力が入らない。だが、これで良いと、痛ましい過去の記憶の誰かが彼の右肩を強く掴み、一つの構えを取らせた。

  「ほう…その年齢でそれが出来る…か」

 攻撃か防御か回避か反撃か、彼の取った構えとは無構え、自然体である。奇しくもクリアネルと同様の構えを取る。

  僅かに細剣を揺らし、相手を誘い込み、白刃に身を晒し、決死の一撃を叩き込む諸刃の構え。

 それがクリアネルの持つ最大にして最高の技『ライジングカウンター』である。だが二人とも同じだと勝負は付くはずも無く…と、意識がブルーから僅かに

  外れたその瞬間、あろうことか誰かに押し出されたかのように、彼はクリアネルに向かって一直線に武器も構えず駆け抜けた。

  「何…!?」

 攻撃に転じる気配がまるで無く、無謀とも言えるその突撃。然しクリアネルの瞳には、ブルーの前、一歩先でこれから使用するであろう技、その手本でも

  見せようとしているのか…長身の黒い影が先行して走ってくる。…もしくは先行しているのが残像なのか。

  「うぉぉぉぉあああああああっ!!!!」

 私の知らぬ技か? 我が構えと同様だが異質。…更に高み、更に先があるとでも言うのか!?

  ただの愚者か、それとも未完の大器か…斬れるか、斬れないか、ぶらりと下げた細剣のグリップを人差し指でなぞるクリアネルの口元は、

  僅かに笑みを浮かべていた。地を蹴り、間合いを詰めるブルーと無構えで迎え撃つクリアネル。双方の距離は縮まり、ついに彼女の制空権に触れた瞬間。

 先行する残像は消え、ブルーは下から細剣を斬り上げたが、余りに素人臭く、何より遅い動きに落胆しつつもクリアネルは冷静に、

  それを紙一重で上体を反らすと動じに下半身の力を一瞬抜き、地を蹴るようにして全身のバネで細剣を突き上げた。

 その剣の軌跡は閃光とも取れる恐るべき速度で彼の喉を刺し貫いた――筈だった。

  確かに貫いた彼が其処に居る…だがまるで手ごたえが無い。そう思った刹那、背中から悪寒が走り、顔だけを振り返らせる。

  「馬鹿な…私が見えなかった…だと」

  「確か、先の先。ファントムカウンター。そう、父が言っていました」

  「後の先ではなく…く、ふはは。あの大嘘つきめ、何が貧弱だ。今回はどうやら完敗のようだ…色々とな」

 背中から心臓目掛けて突き出された、姉妹剣の切っ先は静かに地へと向けられ、そのまま柄の部分を彼女へと。

  それは明確に彼女へ剣を返上するという現れではあるが、背を向けた姿勢で彼女はもう一振りを鞘に収め、振り返ることなく、歩き去る。

  「あ、あの…これを」

  「不思議と思わないか? この姉妹剣、双方ともに右手専用なのだ」

  「…スペアでは」

  「そうかも知れないし、そうでないのかも知れない。さて、用は済んだ…一年後だ。

    この時、この場所にて、一日千秋の想い、刹那の剣戟を持って語らおう。覚え置け、我が名はクリアネル」

  「え…?」

 そう言うと彼女は、降りしきる雨の中、水飛沫と共に瞬く間に見えなくなった。

  ただ呆然と事の成り行きを見守っていたアーネが我に返り、ブルーに走りより抱きついてきた。

  「凄い…凄いよ! ティーシェと同じくらい強いフェンサーに勝ったんだよ!?」

  「え…そんな凄い女性だったのか…いや、彼女は手加減していた筈だよ」

  「そこは謙遜しなくてもねー…あーなんか、今の戦い見てたらウジウジするのバカみたいに思えてきた」

  「ああ、私も胸の奥の暗雲が晴れた気がするよ」

 クリアネルは求道者であり、人修羅でもある。自身と同じ高みを他人にも強要してしまう。この時、彼等は気づいていない。

  いや、ブルーは自らそうしようと奮い立ったのか。旅立ちを決意し、今この時も虐げられる同胞と共に暮らせる場所を作ろうと。

 そして、その為に強くなろう。先ずは一年後、今度は本気の彼女を満足させられる程に…と。

 いつの間にか雨がやみ、雲が晴れ、青空が覗き込んでいる。ブルーは視線を空へと向けると、すぐにアーネへと。

  「どうやら私は、生きる目的を見つけた…いや、教えられたようだ」

  「んふー…ボクだとどうにもだったのに、なーんかゴリップク」

  「アーネにも、色々と教えられたよ」

 その言葉にアーネはやや不満げに首を傾げるが、笑顔で頷きつつ歩き出す。先ずは旅に出る準備をしようと。

  一歩遅れてブルーも歩き出す。五年以上も歩みの止まった時間が動き出す、確かな感触を踏みしめつつ。


 場所は移り、最早墓場といっていい、彼女達の住処。クリアネルをぶつけたのが凶と出たか、吉と出たか…内心穏やかでは無い母が

  僅かに苛立ちを露にして、両腕を組んでテントの前で立っている。そんな彼女の視界にいままで見たことの無い爽やかな笑顔で共に歩く二人が視界に入る。

  「どうやら、正解だったようだねぇ…」

 言えば対極。過去に囚われず、痛みも悲しみも恐れないクリアネルと、過去に囚われただ悲しみ、痛みを恐れる二人。

  彼等を会わせる事で、上手くいくのでは? 危険な賭けではあったにせよ結果はその笑顔に表れていた。

 彼等の元に走りより、二人の頭を強く撫で、優しい笑顔で迎えた。

  「お帰り。どうやら、先が見えたようだね」

  「ティーシェ! 凄い、ブルーは凄いよ!!」

  「何を興奮して…。おい、まさか」

  「ネルお姉さんに…勝っちゃった!」

 その言葉に目を丸くして、ブルーの方に振り向く彼女は今確かに、この少年と一合だけでも…などと思ってしまう。

  ブルーはエステシアの強い眼差しに気づいたのか、二つの意味で首を左右に強く振り、両手を幾度も交差させる。

  「彼女は本気ではありませんでしたよ…でも、一年後は違うのでしょうけれど」

  「アレを聞いたのかい。一体何を魅せた? まさか…」

 エステシアの言葉に重ねるようにアーネが「先行する黒い影の技でネルお姉さんの背後を取ったよ」と。

  「おいおい。ファントムカウンターかい。ありゃ見切れ無い技だったからねぇ…流石のネルも面食らっただろうに」

  「え? あの…アーネのお母さん…父とお会いしたことが?」

  「お会いしたも何も、アタシがこっち側に流れ着いた理由であり、あっちの大陸で唯一このアタシに黒星をつけた憎いヤツさ」

 …そうか。この人が父と…父の右腕を奪った。…だが、それは戦の常。何かを失うリスクは平等に在る。

  確かに彼女も失ったんだ。自分の帰る場所を…。

  「我が父の名は、フェイオート。 強き父の右腕を奪い去ったイフリタの女傑の名を知りたく思います」

  「女傑ときたか…。アタシの名はエステシア。あっちでは『炎の獅子』こっちでは『戦鬼』なんて呼ばれているよ」

  「エステシアさん…成程、貴方があの…。 ありがとう御座いました」

 一瞬戸惑うが、何かを察したエステシアが軽く頷き、アーネも連れて…いや、ついて行くのだろう? と呟きながら、視線を移した。

  「ボク達が安心して住める地を作りにいくのだー!」

 両腕を振り上げ、なんとも軽そうに言うアーネに少し頭痛を覚えなくも無い。それがどれ程険しい道か、分かっているのか?

  と、問いただしたかったエステシアだが、そこはいずれ理解するだろうと押し黙った。

 然し、相当疲弊している筈なのに、すぐにでも出発しそうな二人を見て、心の中で、若いねぇ…と、呟く。

  そのまま、一呼吸おいて、二人に一つずつ、包みを手渡す。

  「そうかい。なら、餞別がわりにこれを持っていきな」

  「これは…」

  「服と手紙?」

 テントの横に、こうなるであろうと準備していた赤地に白い獅子の刺繍が入った何とも暖かそうな厚手の上着と前掛け、それにマントだった。

  それを手にとって確認したブルーは少し眉を潜め、エステシアはニヤニヤと悪戯っ子っぽい笑みを浮かべている。

  「イフリタの血戦着…その装束とマントさ。少年…いや、ブルー。 君はコレを纏う気概は…あるかい?」

 早速試されている。異種族共生の道へ歩もうとする私達を。そう理解し、彼は出来る限りの笑顔でソレを受け取る。

  「ありがたく、頂戴致します」

  「へぇ…どうやら心配なさそうだ。で、後はこの紹介状さ。道案内はアーネにさせればいい」

  「あーっ! ラムザおじさん宛だねティーシェ!」

  「ああそうさ。先ずは人族の地へ行くと良い。そこにもきっと、良い出会いがある。

    何せ、君達が思っているより遥かに多いのさ、混血児はね…」

 多いという言葉に、只ならぬ何かを感じつつも、ブルーは紹介状を受け取り、礼を言う。それは、クリアネルという人物を自身の危険も顧みず

  会わせてくれた事も含めた礼だった。それを察したのか、視線をそらして真紅の長髪を掻きつつ「あー…」と何かを誤魔化している。

 そのまま彼等二人は、この地を出る事になる。晴れ渡る青空の元、白き獅子の刺繍の入った真紅のマントを靡かせながら、゜ 

  彼等は知らないだろうこのマントの意味、それは…修羅道に落ちるな、血で血を洗う戦の中でも、決して朱に染まらぬ正しき心を持って臨め。

 そういう意味を込めて彼女が用意したモノであった。そうとは知らずか、暖かそうに頬にすりつけるアーネは母からのプレゼントで意気揚々と歩き出す。

  そんな彼女を微笑ましくも羨ましい気持ちで後をついて行く。

 次なる目的地、大森林より北東…東の大陸中央部に位置する、人族の都、ラシュティエートへと。

  

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