帰還へのカウントダウン
本日はお城の庭でピクニック。
100日目まで、残すところ10日。千裕もシャルルちゃんもディーさんも、もちろん私も、誰も残り日数には触れない。お互い平気な振りして日々を過ごしている。その方が、笑っていられるから。
でも……でもディーさんはちょっと不安定かもしれない。
ニコニコいつもと同じ笑顔なのに、不意に切なそうな目で見つめてきたり、転びそうとかなんにもないのに手を握ってきて離さなくなったり、千裕やシャルルちゃんが遊んでいるのを見守っている時にふと顔を見ると思いつめた表情をしていたり。
私達の前では普通にふるまおうとしているみたいだけど、時折目撃してしまう。だって私ディーさんのこと見てるから。見ちゃうから。そんな不安定な様子を目撃してしまうと、だいじょうぶだよ一緒にいるよ、とぎゅっと抱きしめてあげたくなる。
不安にさせたくない、傍にいたいって思う。
好きな人と離れ離れになるって思ったら、そうなるよね。なんにも考えないで抱きしめて、そのままいつまでもまどろんでいたくなってしまう。
……だから私は普通を装って、垣間見てしまったディーさんの不安定さを見なかったことにする。
そうしていないと、何も考えられなくなってしまう。
私はまだ迷っていた。
あまりにも大きな決断で、どっちを選んでいいのかわからなくて、毎日、やっぱり帰った方がいいだって本来いるべき世界なんだから、いや帰ったら後悔する私も千裕もこっちに好きな人がいるんだから、でもやっぱり……と堂々巡りだ。
ディーさんと離れられなくなるのが怖い。帰らない、と決断してしまったらと自分が怖い。きっとディーさんを抱きしめたらもうダメだ。離れられなくなる。こんなことを考えてるってことは、私は元の世界に帰ろうとしてるってことだろうか。……まあそうだよね、だってそれが自然なことだ。うっかり準備も何もせず現実を放り出す形できてしまった異世界に、ずっと一生住みますなんてどうかしてる……。
どうかしてるのに。隣に座るディーさんに触れたくてたまらない。
触れてそのままわけもわからないうちに100日過ぎてしまったら……そうしたらずっとディーさんといられるって、そんなダメ人間なことを考えてしまったりする。
シートに座ってみんなでおやつを食べていたけど、私はハンカチを落としてしまったから探してくると言って立ち上がった。
隣に座っていたディーさんが「一緒に探します」と言ったけどなんとか説得して一人になった。今ついてこられたら本当に困っちゃう。私はどうしたらいいんだとディーさんに泣きついてしまう。それはいけない。また流され人生の始まりだ。
ハンカチは、本当に落とした。
庭の小道をみんなで散歩していた時だと思う。おやつを食べようとしたらポケットになかった。
一人になるきっかけをありがとう!と思いながらも結構真剣に探す。
あれはうちの母の形見のハンカチだったりする。母のお気に入りでいっつも使っていたハンカチ。それを私もいつも持ち歩いていれば、母が傍にいるような気がしてちょっと安心したから。不安になったらくんくん変態みたいに臭いを嗅いだりね。まあ何度も洗濯してるからうちの柔軟剤の匂いしかしないんだけど。まあいんだよそれは、ハンカチどこだ。
「探してんのこれ?」
突然声をかけられ顔を上げると、目の前に差し出されたハンカチ。
差し出しているのは理人だった。
「あ……うん。落ちてた?」
「あっちにな」
「そっか、拾ってくれてありがと」
受け取ってポケットに突っ込む。
理人ひとりじゃん、珍しい。兵士か召し使いさんといつも一緒なのに。
部屋も変わって最近面と向かって話すことがなかったから変な感じ。家族になるのには中々時間がかかるけど、他人になるのはあっという間だ。
「チヒロは?」
「向こうでおやつ食べてる」
「ふーん。元気なの?」
「元気だよ。もうめっちゃ元気」
「あいつ部屋遊びに来ないんだよなぁ」
「子供なりに忙しいんだよきっと」
よくわかんないけど普通に会話する私達。
なんだこれ。あんな喧嘩別れみたいなことして、たまにばったり会っても無視されたり見なかったことにしたりしてたのにね。こうやって顔合わせれば喋れるもんだね。
「そのハンカチ。お義母さんのやつ?」
「え?そうだよ……」
「ふーん。なくなんなくて良かったな」
母のだって覚えてたのか。ていうか知ってたのか。元々私に対してそんなに興味を示す奴じゃなかったから把握されてたなんて驚き。理人はなんか色々とドライというかね。なんかそんな感じの人間。他人の前ではそれなりに明るくしてるけど、身内の前だとボーっとしてるタイプ。
理人とは、帰ろうが帰らなかろうがこれから先一緒にいることはなくなるんだよなぁ。
そう考えるとなんだか感慨深い。
こいつとの付き合いもなんだかんだ15年くらいか。高校生の時から付き合ってるから過ごした時間は長い。
今は自分の事でいっぱいいっぱいだからか、時間が解決したからか、もう理人に対する負の感情は湧かない。彼女に対しても。前は地獄に落ちろとか普通に思ってたからね。今はもうなんていうか……他人を見てる感覚。
理人もそんな感じなのかな。
イライラした感情を向けてきていた時の刺々しさがなくなって、落ち着いた雰囲気に戻っている。そういえば昔はこんな感じだった。言葉は多くなくて、だからこそ怒ることも少なくて、何考えてるかはちょっとわかんない感じだったけど、でもその隣にいるのはけっこう心地良かった。
それが結婚生活を続けて子育ても大変で、年々ぶつかり合うことも増えて、ちょっとずつ変化していった。お互いに。
でもしょうがないことだ。いつまでも付き合っていた時と同じ関係ではいられない。一緒に成長して息を合わせられるようになる夫婦もいれば、合わなくて破局してしまう夫婦もいる。
「もうすぐだな。帰還の儀式」
「……だね」
「あのさ」
「ん?」
「……あー……なんでもない」
「そう?」
「うん」
「……理人、帰る前にちょっと話せる?いつでもいいんだけど」
「おう。晩飯の後ならいつでも大丈夫」
「わかった、適当に日を選んで行く」
「適当かよ」
「ふふ。うん」
「わかった。じゃあな」
反対の道を歩いて去って行く理人の後姿をぼーっとながめる。
別に話すことなんてなかったはずだ。でも今こうやって向き合ってみて、やっぱり一回ちゃんと話しておいた方がいい気がした。10年近く家族やってきたわけだし。
さてみんなのところに戻ろうか……と踵を返そうとしたら、後ろから腕がぬっと二本出て来て私の体に巻き付いた。
びっくりして悲鳴をあげそうになったけど、その腕が見慣れたものだと気付き、ついされるがままに抱き締められてしまう。
「ディーさん?どうしたの?」
声をかけるとぎゅっと強く抱き締められた。
ディーさんのムキムキな上半身が私の背中に密着している……。ムキムキの筋肉が……。
平気なふりして声をかけたけど、もう心臓ばっくばくで顔もあっつい。
手を握られたり転びそうなところを支えられたりしたことはあるけど、こんなふうにモロぎゅーっと抱き締められたことは当然だけどない。
抜け出そうにも筋肉がムキムキすぎてびくともしない。しかも背後のディーさんは無言で、「こらこら~!」とかふざけた感じで振り払える空気でもないし……。
「ディーさん……?」
「……リーヒトさんと、何話してたんですか?」
理人と話してたの見られてたのか。ディーさんの声はとっても沈んでいて、いつもの穏やかな感じがない。
「えっと……落としたハンカチ拾ってくれたみたいで」
「それだけですか?何もされてませんか?」
「されないよ、どうしたの?」
「そう……ですか……」
顔は見ていないけど、背後のディーさんがしょぼーんとしているような気がする。
ちょっとほんとにそろそろ離してほしいな……。私ダメなんだって、こんなくっついたりしちゃったらほんとのほんとに帰れなくなっちゃう……。
「マナさん……帰らないでください……」
耳元で辛そうに囁かれる。
ぎゅーーと心臓が締め付けられて痛い。
触れたくてたまらなかったディーさんが抱き締めてくるから、帰らないでとか言うから、苦しくて苦しくてたまらない。
喉がぐっとつまって、熱い波がせり上がってくる。
歯を噛み締めても、ぼろぼろと涙腺から溢れ出す。
「元の世界での生活があるのもわかります……チヒロだって巻き込んでしまう。でも……でも、ここにいてください。ずっと俺といてください。二人のことは責任持って一生面倒みますから、だから……帰らないで、マナさん」
一生なんて、バカみたい。
日本では3組の夫婦のうち1組は離婚するっていわれてるんだよ。私はその離婚する夫婦中の1人だし。
こんな、こんな会ったばかりの子持ちでバカなうえ庶民な女とずっと一緒にいたいとか、なに言ってるんだろう。素敵で、穏やかで、相手なんてはいて捨てるほどいるディーさんが、バカみたい。
でも……でも。
私もバカだ、大バカ野郎だ。
子供もいて責任ある立場なのに、帰らないでほしいずっと一緒にいてほしいって言われて、涙が止まらないくらい嬉しい。
まだ出会って90日なのに、こんなに好きになってしまった。
抱き締められて想いを告げられ、今までの人生で一番幸せを感じているかもしれない。
ディーさんの大きな体を抱き締めて、頭を胸に抱いて、キスを降らせて、たくさんたくさん好きだと伝えたい。
自分の中にこんなに激しい感情があったなんて知らなかった。
こんなに人を好きになれるなんて、思わなかった。
「ディーさん。ありがとう……私を好きになってくれてありがとう」噛み締めるように言うと、ディーさんの腕の力がゆるゆると抜け、私はその腕の中から出てディーさんに向き合う。
涙でぐちゃぐちゃな顔だけど、もういいんだそんなことは。
やっと見れたディーさんの顔は、頼りなく悲しげな表情だった。
愛しいと思う。この人の全部が。
どんなに帰らなきゃいけないと自分に言い訳したって、やっぱりこの人が好きで、離れることを想像すると心が引き裂かれる思いだ。
きっと、ディーさんも同じ気持ちでいてくれている。
そんな相手の手を離すことなんて、やっぱりできない。
私がしたくない。
「ディーさん、そんな悲しい顔しないで」
「マナさん……マナさん、好きです。好きなんです」
「ディーさん。私もあなたのこと好きだよ」
ぐちゃぐちゃでかっこなんてつかないけど、笑って伝えた。
不安にさせてごめんね。
たくさん大切にしてくれてありがとう。
私の言葉を聞いて驚いたように目を見開くディーさんが、少し震えた手をのばしてきたけれど、首を横に振って止める。
でももう少し待ってほしい。私はきちんとケジメをつけたい。
人を傷付けるのは自分も苦しくて辛いことだ。
でも、傷付けてでも終わらせなければならない時もある。




