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向日葵にのぼる少女  作者: 沖崎りい
8/14

ジャックと僕とナイフ

 

 蝉が鳴くのを忘れている。

 明かりも無いのに僕の暗い部屋に影だけが増えていく。

 廊下からの声が聞こえてこない。絵本のページが消えてしまって、迷子になったのだろうか。


 雨の音だけが聞こえてる。そのせいで畳がぬかるみ、僕を沈めている。


 耳には雨音だけが強く射ちつけてきてた。それが嫌でカーテンを開けた。どしゃ降りの雨に違いない。そう思っていたのにカーテンを開けた外の世界では、雨はそれほど降ってはいなかった。灰色の雲だけが降りて来ていた。

 目を閉じ十秒数えてから再び目を開けた。けれど、やっぱり雨はそれほど降っておらず灰色の雲だけが降りて来ていた。その灰色の雲は、あの町もこの町も今にも飲み込んでしまいそうで、だから僕は久しぶりにハローワークへと行ってみる事にした。

 けれど、そこでは少女が何故泣いているのか誰も教えてはくれなかった。パソコンの画面をいくら眺めても、土に埋めた猫の事は書いていなかった。向日葵を登る為の解説書は何処にも売っていなかった。見知らぬ人に種が欲しいと言っても誰も聞いてはくれず、光った靴の人には唾をかけられ、眩しい時計の人には殴られた。ハトは相変わらずクックッと笑っているだけで綺麗なフンをしていないし、車は変わらず走っている。僕の靴紐はねじれたまま。太陽は西へと沈んで行き、向日葵が咲いている場所は何処にもなかった。



 アパートへ帰ると廊下では少女が膝を抱え座っている。絵本は下に落ちたまま声も出さずに俯いている。

 僕は部屋に入り、引き出しをあさる。

 少女を土に埋めてあげなければいけない。その為の道具を探す。土を掘るのに何かいいものがないか探す。引き出しの中を。引き出しの奥を。とても深くて浅い場所を。過去と未来が行き来する、カビ臭い汚れた場所を。

 僕の記憶が甦ってくる。汚れた臭いが舌を溶かし肺に降り積もっていく。心臓が石となり、眼球が後ろを向きたがる。土を掘る為に過去をあさり腕を伸ばしていく。


 指先に固いものが触れた。

 僕の心が鋭利な刃で切り裂かれ重くなる。トタンの板がバタバタと煩く暴れ、染みだらけの壁が崩れて僕の体に降り注ぐ。



 僕は自分の父親が嫌いだった。とても憎んでいた。でもそれ以上に恐怖していた。毎日を恐れ、夜を恐れ、朝を恐れていた。僕の人生は段ボールに閉じ込められ、逆さに転がさられるだけの毎日。痛みは昔に忘れてしまった。ただ父親が消えて居なくなる事だけを考えていた。

 ある日。異常に暑かった日だった。近くのホームセンターでナイフを盗み、父親が帰って来るのを待った。折り畳み式のジャックナイフを段ボールの中で何度も開いたり閉じたりを繰り返し、父親が居なくなってから訪れてくる幸せについて考えていた。けれど僕には想像出来なかった。知らない色を想像出来ないように僕には幸せが想像出来なかった。


 段ボールの中は暗くて、手に握るジャックナイフはよく見えずにいた。何度、開いたナイフの刃先を見てもそれは暗く闇に溶けていて、光りを放つ事など無かった。本当にこれはナイフなのだろうかと心配になった。盗んできたのは隣にあった漂白剤だったんじゃないかと心配になってきた。僕は何を盗んだのだろうか? 何処で盗んだのだろうか? 僕は誰なんだろうか? 幸せってなんだろうか? 僕は何故生まれて来たのだろうか? 何処に生まれて来たのだろうか? ここは何処なんだろうか? 幸せってなんだろうか? 僕の幸せってなんだろうか? 父親の幸せってなんだろうか? 僕の恐怖は幸せなんだろうか? その恐怖は誰かの幸せなんだろうか? 僕は何がしたいのだろうか? 幸せってなんだろうか? 幸せってあるんだろうか? 幸せって明るいんだろうか? 本当にこれはナイフなんだろうか…………それとも僕がナイフなんだろうか?

 段ボールの中は暗くてよく見えなかった。光らないナイフの刃先も、ナイフを握る僕の指も、ナイフを見詰める僕自身も、何も見えなかった。幸せも不幸せも何も見えなかった。結局何も見えなかった。


 ナイフを盗む僕の行動は何も与えてはくれなかった。あれほど胸が高鳴り手が震え、背中の汗がボタボタと垂れていったのに……ナイフを手にして息を切らし町中を走り続けたのに……その時の興奮は全ての望みを叶えてくれると感じられていたのに……。

 結局なにも僕には見せてはくれなかった。勇気と希望と夢と想像と望みと明日と今日を引き換えに、店から盗んで手に入れたジャックナイフは僕には何も与えてはくれなかった。

 だから捨てようと思った。どぶ川にでも捨てた方がナイフも喜ぶだろう。店の店主も笑うだろう。僕はまた恐怖する。ずっと恐怖していく。それが僕の生きる術。それが僕の存在。それが僕の生きてく大切な意味。これからも、この先も、ずっと、ずっと、ずっと。


 最後にもう一度だけ折り畳んだナイフをひろげて眺めてみた。もう見る事もないのだろうナイフの刃先を。

 そこにはやはり、ナイフも僕も何も映らなかった。


 突然、段ボールが蹴られ、グルグルと段ボールと僕が転がる。ナイフに気をとられ忘れていた。僕の全てを恐怖が被い尽くす。身を屈め恐怖する。段ボールがへこみ僕を殴り僕を蹴飛ばす。僕は止むのを待ち、恐怖し続ける。日常の恐怖が始まり僕は恐怖する。今も、この先も、永遠に、永久に。


 そう思っていた。


 この日はいつもより強く、いつもより長く、いつまでもいつまでもその恐怖が続いた。いつもより大きく、いつもより激しく、叫ばれ罵られ殴られ蹴飛ばさられ転がさられぶつけられ追いかけられ踏みつけられ潰し続けられた。段ボールが壊れ破れ裂けていき、古い電球の曇った明かりに照らされた父親の狂った顔がだんだんと大きくなっていき僕を睨めつける。段ボールがちぎれバラバラになっていき、僕の体にめり込んでくる。

 僕の恐怖は頂点に達した。転がさられ続けながら雄叫びをあげた。息が続く限り、息が切れ頭の中が薄く霞んできても、僕は転がされ雄叫びをあげ続けた。


 そして恐怖は、ゆっくりと〔けれどとても早く〕冷めていった。学校で渡された給食費を払う為の紙袋を灰皿の上で燃やした時のように、僕の恐怖はゆっくりと〔けれどとても早くに〕消えていった。


 あぁ、終わるんだ

 今日で僕は終わるんだ

 恐怖から解放され、幸せを探しに行けるんだ

 今日で僕は死ねるんだ

 僕は蹴られ転がりながら痛みも無く待ち続けていた。僕の全てが終わる時を。


 やがて意識が薄れだし、方向も分からなくなってきた時、段ボールは完全に破れ、壊れ、僕を放り出した。古い電球の曇った部屋へと。父親が暴れている汚れた醜い部屋へと。


 その時、まぶしい光が僕の目に飛び込んできた。

 とても、とてもまぶしい光が。見たかった光。待っていた光。一筋のまぶしい光。僕の光。

 痣だらけの僕の腕。細い指。握りしめている指。しっかりと握りしめている指。その先。その刃先。開かれたジャックナイフの、その刃先。そこから光が射してくる。


 部屋の明かりは濁っているのに、その明かりが反射してジャックナイフから届く光はとてもまぶしかった。とてもとても明るく強く、僕の眼の中に飛び込んできた。


 幸せを見た気がした。

 待ち望んだ、逃亡を。恐怖からの逃亡を。父親からの逃亡を。

 ずっと、その光を眺めていたかった。

 僕の人生の先を照らしているはずの、その光を。



 気が付くと父親が笑っていた。僕の上で、はるか上で、雲の上で。

 見上げると、ヤニ色のどす茶色い歯をむき出して、歯のぬけた箇所を闇より黒く浮き上がらせて、醜い皺を更に増やし、朽ちた板のように、僕を見下ろし笑っていた。ドロドロの涎を垂らしながら、僕の左手を踏みつけ笑っていた。ナイフを手にしていない左手の指を潰すように踏みつけ笑っていた。


「なんだ、それは?」

「それはどうした?」

「それをどうする?」

「俺が憎いか?」

「俺が嫌いか?」

「やってみろ!」

「やってみろ!」

「俺にやってみろ!」「俺を殺ってみろ!」「ガキがっ! このクソガキがっっ!」


 雲の上で笑っていた。雲の上から笑っていた。僕を見下ろし、踏み潰し笑っていた。まるで巨人のように。とてつもなく大きく圧倒的な恐怖で僕を睨み笑っていた。

 踏みつけられている左手から父親が降りてきそうだった。僕の体の中へと入ってきそうだった。


 だから僕はジャックナイフを握り絞めている右手に力を込め、父親が降りて来る左手を切り倒すため、ナイフの刃先を左手に突き刺した。


 早く、左手を切り倒そうと何度も自分の右手に持つジャックナイフを突き刺した。赤黒い血が噴き出し辺りを染める。

 不思議なことに忘れていた痛みがあった。僕の腕に痛みがあった。刺す度に痛みが僕を襲った。僕はもうそれ以上左手を切り倒す事が出来なくなった。痛みで左手を刺す事が出来なくなった。

 僕は忘れていた痛みで転げ回り、父親は雲の上で高らかに笑っていた。



 引き出しの奥から少女を埋める為のジャックナイフを取り出す。それは赤黒く染みを作り、再び開かれる時を待っていた。閉じられたままずっと待っていた。

 血で固まったナイフを開けると、ジャリジャリと音を立て、あの日流した僕の血が粗い粉となって床に落ちていく。畳を染めた赤い血は、今は黒い粉となって床に降り積もり、鳩よりも高い場所から笑い声を促した。


 ジャックナイフをポケットにしまい、少女が待つ廊下へと出るために僕は部屋のドアを開ける。



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