巨人の城
廊下で少女が絵本を読んでいる。声を出さずにまるで眠っているように。僕はそれを聞いている。
廊下が暗く寂しく枯れている。少女が痩せて見えるからだろうか。まるで車に轢かれたあの猫の様に、少女も痩せっぽっちで汚れている。僕はそれを土に埋める。
車に轢かれたあの親子の猫は僕の腕の中で動かなかった。今の少女みたいに。
けれどあの猫は、微かに、ほんの微かにだけれど……息をしていた。今の少女みたいに。
苦しそうに悔しそうに、けれど無表情に……ほんの僅かだけれど息をしていた。今の少女みたいに。
「まだ暖かいよ」
少女は猫に手をあて、そう言った。
「死んじゃったの?」
少女はそう聞いてきた。車に轢かれたけどまだ暖かかったあの親子の猫を、僕と少女は土に埋めた。まだ息をしていたけれど動かなくなった可哀想な親子の猫を、まだ明るい時間だというのに切れかけた街灯がチカチカと灯りだす夏に向日葵が咲く小さな公園に僕と少女は穴を掘り、まだ生きていた親子の猫を埋めた。
糞をしながらハトがそうしろと言ったから。汚れた靴底にそうしろとせかされたから。どうせ死ぬんだから埋めてしまえ、と。その方が幸せだから、と。
少女もまだ暖かいんだろうか。息をしているのだろうか。
どこかでクックッとハトが笑う。僕は少女を埋めてあげなければいけないのかも知れない。
少女はまだ暖かいんだろうか? それを確かめてみなければいけない。僕は少女に近づく。ほどけそうな靴紐を気にしながら、僕は少女に手を伸ばす。
突然、部屋から男が出て来た。
男はドアを閉めると小さくゲップをした。薄暗い廊下にアルコールの匂いが漂う。
男と目が合い、僕はうつむき目を反らす。男は僕を見てから少女を見て、泥にまみれた草履でアパートから出ていった。
僕の胸の中で蝉達が一斉に鳴き出し、ジージーとうるさく騒いだ。見知らぬ靴達を乗せた電車がグラグラと歪み、僕の足元を激しく揺らした。
嫌な臭いだな
アルコールと小便と、どぶの臭い。剥がれそうなトタンの板。ぬかるんだ土。散らばったラムネ。捨てられた重かったサイフ。空になったサイフ。顔に掛かる男の小便。
嫌な臭いだな
僕はあの時の暴力を忘れない。あの目を忘れない。嫌な臭い、嫌な顔、嫌な靴。
少女がこちらを見ていた。目が合うとはにかむ事なく絵本に顔を戻し、声を出さずに読み始める。僕は吐きそうになるのをこらえて少女に聞いた。
「今の……人は?」
「……新しい……お父さん・・」
少女は絵本を見たまま答える。その目は絵本に描かれている悪い巨人を睨んでいた。
「新しいお父さんの事、好き?」
少女は答えずに絵本をめくる。そこには雲から落ちる悪い巨人が描かれていた。少女はじっとそれを睨んでいた。その頬が紫に腫れている。
「お母さんは好き?」
「好き」
「優しいもんね」
「うん!」
少女は僕を見てすぐに答えた。それから少しはにかみ笑う。その口から覗く白く小さな歯が、一本欠けていた。
日が沈んでいったけれど、暗いままの部屋で、僕はシワついたシャツを眺めてた。
あのシャツはいつまでシワついているんだろう、いつアイロンがあたってパリパリになるんだろう、いやあのシャツはずっとシワついているんだ、それがあのシャツの役目なんだ。それを僕が着るのだ。だからシワついている、新品の時からあのシャツだけがシワついていた。パリパリになんかなるはずがない。なってはいけないんだ。それが役目なんだから。
目を閉じて、また同じ事を考える。ずっと考える。何度も考える。シワついたシャツを棄ててしまいたいのに、棄てられずにまた考える。もうすぐアルコール漬けの草履の音がするから、聞きたくないのにズカズカと歩いてくるから、僕はまた考える。それが僕の役目だから、何度も過去へと逃げていく。
ガチャガチャとアルコール漬けの草履が僕の部屋のノブを回す。何度も回し何度も叩く。
僕はシワついたシャツを眺めて考える。
何でシワついているのだろう? 何でパリパリにならないんだろう?
ガチャガチャとノブを回すアルコール漬けの草履がアルコールの息を吐きながら「ここじゃねえのか?」とふらつきながら移動する。
僕は考える。シワついたシャツを眺めて考える。それだけを考える。
アルコール漬けの草履が少女の部屋のドアを開け「帰ったぞ」と入っていく。少女は薄い毛布にくるまっている。車に轢かれたあの猫の様に、じっと動かずにくるまっている。
僕はシワついたシャツを眺めて考える。同じ事を何度も何度も考える。それだけを考える。
アルコール漬けの草履の荒れた声がする。少女はじっと動かない。絵本を抱え毛布にくるまっている。
僕はシワついたシャツを眺めてる。
アルコール漬けの草履が暴れだし、汚れた声で叫び出す。少女は絵本を抱え、薄い毛布の中で身を固くしている。
僕はシワついたシャツを眺めてる。だんだんとシワが増えていくシャツを。
テーブルを蹴飛ばし、物が投げられる音がする。少女の声は聞こえない。
僕はシワついたシャツを眺めてる。手に握るシワついたシャツが破けていく。
誰かを殴る音が聞こえる。少女が泣いている。壁にぶつかる音がする。少女が泣いている。絵本を抱えて泣いている。
僕が眺めていたシャツは僕の手の中でぼろ切れのように破けていた。爪の間から出た血がぼろ切れを黒く染めている。それを見たハトが糞をしてクックッと笑う。
どうせ死ぬんだから埋めてしまえ、とクックッと笑っている。
アルコール漬けの草履が静かになり、少女が廊下で絵本を読む。
その顔には赤いアザが増え、白く小さな歯がまた一本、無惨に欠けていた。




