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向日葵にのぼる少女  作者: 沖崎りい
3/14

靴に水をあげる

 

 猫を公園に埋めてから、秋が来て冬が過ぎ春になった。けれど猫の樹が生えてくるような事は無かった。


 今日も僕は壁に掛けていたシワついたシャツを来てハローワークに向かう。高架下も駅のホームも電車の中も、変わりなく僕の前を流れていき、僕はそれを目で追っていく。立ち止まり、または歩きながら、時にしゃがんでは、社会が過ぎ行くのを眺めてた。

 いつも僕はハローワークへ通いパチンコ屋へと寄り、そして電車に乗る。けれど電車に乗っても、あの汚れた靴底は見当たらず、見知らぬ靴ばかりがいくつも並ぶ。同じ箱に揺られ、次々と見知らぬ靴ばかりが僕を追い越していく。僕はそれを眺めてた。

 僕もいつかあんな靴を履かなければな、と思う。近いうちには必ず。


 でもあんな靴達を履くのは嫌だな、もっとカッコイイ靴がいいな、そうだな車を避ける猫みたいな靴がいいな、でもあの猫は車に轢かれちゃったしな、空を飛ぶハトみたいな靴でもいいな、あの時の綺麗なフンをする靴ならいいけど汚れたフンをする靴は嫌だな、僕の靴は汚れたフンをするだろうな、本当はアニメのキャラクターが剥げて何の絵か判らなくなった靴がいいんだけど、あの靴は少女のものだしな、僕はどんな靴を履けばいいんだろうか。

 ポケットをまさぐるとコインが二枚だけ指先に触れた。これだけではタバコは買えない。またATMに寄らなければいけなかった。



 アパートに帰ると今日も薄暗い廊下で少女が絵本を読んでいる。声を出し夢中で読んでいる。少女の読む絵本はいつも同じで、いつも声に出して読んでいて、それをいつも僕は聞いていて、だから僕も声に出し朗読出来るくらいになっている。それでも少女は絵本を読んでいる。


 少女は、一旦絵本から目を離すと、はにかんだような崩れた顔を向ける。笑っているのかも知れないなと僕は思う。けれどあまり上手くないとも思う。笑う事を知らないか、慣れていないのかも知れない。

 けれどその顔は僕の背中をくすぐる。

「わたし知ってるよ。誰にも言わないからね」と

言ってる気がして背中がむず痒くなる。

 猫を埋める事は一人だけの秘密にするはずだったのに、少女と二人の秘密になってしまった。それだけの事なら良かったのだけど、それ以上の事を少女は気付いていたのかも知れない。あの事は僕だけの秘密なのに少女も気付いているのだろうか。あの日、死んだ猫を埋めただけじゃない事を。

 僕は対応に困り、薄く微笑みを返す。けれど少女はもう絵本に夢中で僕の方を向いてなどいない。何度も読んで所々が擦りきれてしまっている絵本を、夢中で読んでいる。

 僕が部屋に入りシワついたシャツを脱いでから、ご飯も食べずにウトウトと眠り、夢から覚めて水を飲もうと蛇口を回した頃になっても、少女は壁にもたれ、声に出して絵本を読んでいた。


 今日も僕は壁にかけてあるシワついたシャツを着て部屋のドアを開けた。廊下の窓からは夏の初めの日差しが届いていた。


 ハローワークの帰り、いつものようにパチンコ屋へ寄る。いつもはすぐにお金がなくなり帰らなければいけなくなるのに、今日はいつまでたっても玉は無くならず増えていく一方だった。僕の所だけに玉が積まれていく。その分、タバコが減っていき最後の一本になった。それも吸い終わった頃にようやく、玉は増えていくをやめてくれた。

 僕はいそいそとパチンコ屋を後にして、電車に乗って、乗り込んだドアとは反対側のドアに体を預けてから、胸がドキドキと震えている感触を味わった。

 僕の財布には沢山のお金が入っている。山積みになった銀色の玉がお金になった。

 きっとこの中で僕が一番の金持ちだ。今履いているスニーカーは汚れてしまっているけれど、目の前にあるピカピカと光った革靴を履いたオジサンよりも、今の僕は裕福なんだろう。汚れた靴底の人がいたら、僕が新しい靴を買ってあげなければいけない。僕は買ってあげられるだろうか、ハトに聞いてみなければいけない。


 駅に着くまではズボンの後ろのポケットに入れた財布をずっと押さえていた。汚れた靴底の人がいれば新しい靴を買ってあげなければいけない。その為の用意をしていた。けれど汚れた靴底の人は乗って来なかった。色んな靴が踊る様に動いては、僕の周りを行ったり来たりしていたけれど、どれも靴底は汚れてなくて、誰も僕に近付いては来なかった。


 ドキドキしながらいつもの帰り道を、ズボンのポケットを押さえながら歩いていた。誰も僕には近付いて来ない。誰も話し掛けては来ない。それでも僕の胸はドキドキとしていて、きっとこのドキドキは廊下で絵本を読む少女の声を聞くまでは治まらないんだろうなと思っていた。

 けれどそれは間違っていた。アパートに着く前に僕のドキドキは消えていた。猫を埋めた公園に、また少女が佇んでいたから、そこで僕のドキドキは消えていた。

 少女はキャラクターの絵が剥げた靴を履いて、育ち始めた小さな向日葵の前で、夜だというのに青色が薄くなったジョウロを持って、向日葵の前で佇んでいた。


 その姿はとても輝いていた。




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