表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
向日葵にのぼる少女  作者: 沖崎りい
14/14

咲いた種と咲かされた種と

 

 

 

 けたたましく煩かったサイレンが遠くへと消えていき町は静寂を取り戻していた。けれど赤いライトの残像がこの町を赤く染めている。

 僕はただじっと見ていた。少女を乗せた車が走り去った方角を。何も見えないのに。何も見えるわけがないのに。赤い残像が血溜まりのように広がっていくだけで、その先にはただ闇があるだけなのに。


 救急車に乗せられる時、少女は微かに動いていた。薄く目を開け小さく唇を動かした。紫になった唇から漏れたその言葉が耳鳴りのように何度も頭の中を行き来する。少女は僕に告げた。はにかむ事も出来ない消えいく意識の中で、それでも僕に告げた。


 『バイバイ』と。



 ピクリと一度だけ動いた腕と、薄く開いた弱い瞳と、車に載せられる時の衝撃でこちらに向いた何かが抜け出ていってるような青白い顔で、刈り取られ枯れたように小さく萎れた体で、それでも少女は僕に告げた。救急車に押し込まれる直前にこれだけはどうしても言わなければいけないとばかりに、僕に告げた。


 『バイバイ』と。




 絵本を読む少女が好きだった。少女の読む絵本が好きだった。少女が紡ぐ物語が好きだった。絵本を読む少女の声が好きだった。その声を聞いていると本当に幸せになれそうな気がしていた。

 けれど僕はあの話を好きではなかった。少女の読む物語は好きだけど、あの話は好きになれなかった。僕には悪い巨人が雲の上に居るとは思えなかった。何故雲の上の巨人が悪いのかが僕にはわからなかった。むしろジャックの方が悪者に思えてしまう。ジャックは巨人を殺している。


 ジャックは母に頼まれた牛を怪しい種と交換する。そして雲の上へ行き巨人の宝物を盗んでくる。巨人の家に勝手に忍び込み巨人が大切にしている宝物を盗んでくる。自分のために。自分の幸せのために。何度も何度も忍び込み盗みを働く。自分のために。自分の強欲のために。

 一度は夫人に逃がしてもらったのに。夫人の優しい心で見逃してもらったというのに、ジャックは巨人を殺す。夫人の旦那である巨人を殺す。盗まれた物を取り返しに来ただけなのに、ジャックに対して悪い事など何一つしていないというのに、いくつも取られた宝物を取り返しに来ただけだというのに、ジャックは巨人を殺す。雲の上から落として殺す。ジャックは巨人を殺す。見逃してもらった優しい夫人の旦那を殺す。ジャックは殺す。自分のために。自分の幸せのために。自分の強欲のために。



 少女はいつも走って行く。僕と居ても、ずっと二人で絵本を読んでいても、母親を見つけるとすぐに走って行く。僕を振り返る事もなく、バイバイと言う事もなく、走り去って行く。そして次の日には挨拶もせずに絵本の続きを読み始める。まるで時間が巻き戻っているかのように、昨日と今日の間に隙間が無いかのように、ずっと一日が続いているかのように、絵本を開き昨日の続きを読み始める。走り去った事など無かったかのように絵本の続きを読み始める。

 僕がトイレに行く度にいちいちバイバイなんて言わないのと同じで少女にとっての夜はちょっと席を外すだけのようなものなのかもしれない。少女にとって夜は――少女にとって母親と一緒に居る時間は――いちいちバイバイと言うほど長くなく、とても短いのかもしれない。だから僕を振り返る事もなくバイバイと言う事もなく走り去って行くのだろう。ちょっと席を外しただけだから、ほんの少しの間だけだったから、またすぐに絵本の続きを読み始める。少女の一日に終わりは無い。長く、果てしなく、永遠に今日が紡ぎ続けられていく。ずっとずっと今日が続いていく。


 その少女が『バイバイ』とサヨナラを告げた。


 少女の今日が終わる。僕の前から走り去って行ってしまう。明日は来るのだろうか。僕にはわからない。わかりたくない。



 雲の上に悪い巨人は居ない。悪い巨人は雲の上ではない。雲の上に悪い巨人は居ない。悪い巨人は雲の上ではない。雲の上に居るんじゃない。


 悪い巨人はここに居る。この地上に居る。醜い靴で歩き、僕から宝物を奪っていく。



 公園のブランコを揺らしていた。チカチカと点滅している街灯を見ていた。国道へと続く道の先へ耳を傾けていた。アニメのキャラクターの顔が剥げた綺麗な靴の音を待っていた。少女の声を待っていた。国道へと続く道の先から少女が帰って来るのを待っていた。母親と手を繋ぎ帰って来るのを待っていた。姿が見えたら僕はすぐに走って行かなければいけないから。少女の元へと走って行かなければいけないから。この場からすぐに走り去ってしまわないといけないから。

 なのに国道へと続く道の先には鳩が居た。忙しなく首を動かしながら、クックッと笑っている。まばたきもせずに僕を見ている。真っ赤な目で僕を見下ろしている。赤いライトのように目を回転させ、クックッと笑いながら言葉を投げつけてくる。俺が憎いか。殺ってみろ。殺ってみろ。殺ってみろ。


 悪い巨人は地上に居る。この世界に居る。どこにでも、いくらでも、影に隠れて悪い事をしている。ふらつく靴で、醜い腕で、臭い口で、自分のために、自分の幸せのために、自分の強欲のために、この世界の宝物を奪っている。殴り蹴り放置している。自分のためだけに、自分の幸せのためだけに、自分の強欲のためだけに、弱い者を虐め宝物を奪い続けている。悪い巨人はこの地上に居る。この世界に居る。ここに居る。すぐそこに居る。



 突然、闇の向こうにいた鳩が強い羽音をさせて僕に向かって飛んで来た。赤いライトのように目をクルクルと回転させサイレンのようにけたたましく羽音をたてて。

 おもわず僕は鎖を握る。ブランコから突き落とされないよう鎖をきつく握る。鳩は僕の顔目掛けて醜い足を突きだし向かって来る。紅黒い目を回転させながら。

 僕は負けずに睨んでやろうと思った。けれどおもわず目を瞑ってしまう。その目が父親に似ていたから。僕を殴りに来る足音に似ていたから。腫れていく僕の瞼に似ていたから。吐き出した血の色に似ていたから。折れたバットに似ていたから。割れたビンに似ていたから。それらを手に持つ父親の笑う顔に似ていたから。それらを振りかざす濁った目に似ていたから。それらを振り降ろしながらニヤける口元に似ていたから。僕は目を瞑る。痛みを忘れるために。全てを閉ざすために。今日を終えるために。今日を終わらせてしまうために。

 鳩が殴りに来る。感情を剥き出しに殴りに来る。僕は心を閉ざし体の力を抜いた。今日を終わらせるため。暴力が終わるまで。今日が終わるまで。

 けれど鳩は襲って来なかった。僕の目の前で急に消えて居なくなっていた。鎖をきつく握る僕の左手に痛みだけを残し鳩は消えて居なくなっていた。

 左手が痛む。血が流れ落ちている。僕の左手から血が流れ落ちている。いつからだろう、アイロンをかけていた時から? その前から? ずっと前から? ずっとずっと前から? 猫を埋めた時から? その前から? 父親が居なくなった時から? 苦しそうにもがく父親を見下ろしてた時から? その前から? 子供の頃から? その前から? 生まれた時から? もっと前から? もっともっと前から? わからない。僕にはわからない。ただ左手が痛み、その痛みだけが僕のやるべき事を教えてくれる。

 僕は悪い巨人を突き落とさなければいけない。この地上から。この世界から。二度と登ってこれないように深く深く深くどこまででも深く、この地上に登ってこれないように深く深く突き落とさなければいけない。




 廊下を歩き、僕の部屋の前で止まる。その奥の少女の部屋のドアが開いたままになっている。アニメのキャラクターの剥げた靴が廊下に片方だけ転がっている。そこに絵本を読む少女の姿は無い。その靴を履くべき少女の姿がここには無い。


 前に進み少女のドアの前まで歩いていく。僕の足音はどんな音が鳴っているのだろう、僕にはわからない。少女の足音はどんなだったろうか、僕には思い出せない。もうずいぶん長いあいだ聞いてない気がする。少女は足音をさせなかったのだろうか、それとも消されていたのだろうか、僕にはわからない。


 ドアの前に立ち、中を見る。部屋は荒れていた。キャラクターの剥げた靴のもう片方が部屋の中に転がっていた。絵本もバラバラになって散らばっている。色んな物が散乱していた。空き缶や空き瓶、衣服や布団もゴミの中にあった。その中に悪い巨人がテレビを点けたまま寝ている。大の字になっていびきをかいている。醜い姿。醜い音。醜い臭い。その中を僕は進む。前へ、前へと。

 悪い巨人が寝ている手前で足元に絵本の一ページが落ちていた。声に出し読んでみようと思ったけど、逆さまになっていたので読めなかった。文字が逆さまだと上手く読めない。それよりも絵が逆さまなので読んではいけなかった。正しい向きで読まなければいけない。僕はそのページを拾い、正しい向きにしてタンスの上に飾った。もっと高い場所が良かったけれど、ここには無かった。そこよりも高い場所はここには無かった。

 正しい向きになった絵本を眺めながら、僕は右のポケットを探る。


 絵本は正しい向きで読まなければいけない。絵が逆さまになっててはいけない。正しい向きに置かれた絵を見て僕は嬉しくなってきた。

 悪い巨人は逆さまになって落ちてなければならない。絵本が逆さまだと登ってきてしまう。悪い巨人は落ちなければいけない。この部屋の一番高い所から、どこまでも深く深く落ちていかなければいけない。

 僕は部屋の中を見回してもう一枚の絵を探した。部屋の中が荒れているので上手く見つからない。少女が居ればすぐに見つけてくれるだろうに。

 苦労してようやく一枚の絵を探し出せた。ジャックが豆の木を登っていく絵。これも正しい向きにしなくてはいけない。


 僕はそのページを“逆さま”にしてタンスの上に飾る。


 ジャックも登ってはいけない。雲の上に行ってはいけない。ジャックも落ちなければならない。この世界から深く深くとても深く落ちていかなければいけない。



 僕の右手がポケットの中のジャックナイフを取り出す。点けっぱなしのテレビの光がナイフを照らし、ナイフのその光が僕を照らす。その反射した鋭い光が僕の目を射し、おもわず目を瞑る。

 そのせいでナイフに映る僕の顔が見れなかった。今、僕の目はどんな色をしているのだろうか? 紅黒いのかも知れないな、と思った。綺麗な色だといいのにな。シワついてなければいいのにな。


 ふと、少女の靴のキャラクターの顔が思い浮かぶ。けれどその顔はぼやけていてちゃんと見る事が出来なかった。剥がれる前の立派な顔なのに、僕にはその顔を見る事が出来なかった。想像も出来ないでいる事が少し悲しい。もう僕は見る事が出来なくなる顔を最後に一目見れたら良かったのにな、と思う。


 悪い巨人を突き落とさなければいけない。


 側に行き、巨人を見下ろす。僕は更に悲しくなる。大の字に寝ている巨人を見下ろすとそれはとても小さく見えた。とてもとても小さく見えた。こんな小さなものが巨人に見えていた事が更に僕を悲しくさせた。


 悪い巨人を突き落とさなければいけない。


 深く深く深くとても深く。


 ジャックナイフをきつく握りしめる。

 僕の目から涙が零れ落ちる。その涙は紅いのだろうか、黒いのだろうか、僕にはわからない。

 悲しくも嬉しくもないのに何故か僕の目からは涙がどんどんと零れ落ちていく。その涙が僕のシャツを染めていく。それは紅いのだろうか、黒いのだろうか、僕にはわからない。


 悪い巨人を突き落とさなければいけない。


 涙がどんどんと零れ落ちシャツを染めていく。僕はその色を知りたくなかった。僕の目から落ちる涙の色を知りたくなかった。だから僕はジャックナイフを振り降ろす。悪い巨人は突き落とさなければいけないから。深く深く突き落とさなければいけないから、だから僕はジャックナイフを振り降ろす。


 赤いライトが飛び散り部屋を赤く染める。僕の顔にもかかり赤く染めていく。ナイフを振り降ろす度に部屋が赤く染まる。サイレンのように呻いている巨人も赤く染まっていく。僕はジャックナイフを振り降ろす。何度も何度も振り降ろす。僕のシャツも赤く染まっていく。赤く、紅く、何度も何度も飛び散るものが僕のシャツをアカく染めていく。もうシャツを染めてた涙の色は分からなくなっているかもしれない。それでも僕は不安でジャックナイフを振り降ろす。何度も何度も振り降ろす。


 悪い巨人を突き落とさなければいけない。


 そして僕も落ちていかなければいけない。


 巨人と共に、深く深くどこまででも深く、僕もこの地上から落ちていかなければいけない。


 僕の体の中には悪い巨人が住み着いている。何度も何度も僕の前に現れ襲ってくる。悪い巨人はいつも僕の前に現れいつまでも僕を悩ます。だから僕は巨人と共に落ちていかなければいけない。深く深くどこまででも深く。

 僕はジャックナイフを振り降ろす。悪い巨人に、この世の悪に、全ての悪に、過去に、僕の過去に、親に、僕の父親に、思い出に、僕の悲惨な思い出に、精神に、僕をついばむ狂った精神に、根源に、全ての根源に、僕や少女や全ての人を狂わす全ての根源に、僕はジャックナイフを振り降ろした。



 悪い巨人が落ちていく。

 ジャックが落ちていく。

 そして、僕が堕ちていく。悪い巨人と共に堕ちていく。






 父親を埋めた。土の中に。

 動かなくなっていたけどまだ息をしていた父親を、僕は土の中に埋めた。


 その日、父親は僕からダンボールを剥ぎ取り、外へ連れ出した。夜中で外は暗かった。ただ激しい雨の音だけが耳に響いていた。

 台風が来る前日で風が強く横殴りの雨だった。その中を父親は何も言わず僕を引きずって歩いていた。たぶん父親は笑っていたと思う。白目を向き涎を垂らし笑っていたと思う。父親は狂っていた。昔から狂っていたけど、あの頃は完全に狂っていた。僕は殴られ続け、動く事も口を聞く事も出来ず、トイレにも行けず、擦りきれ黒くなった畳の上にダンボールを被され転がされていた。パンツもズボンも汚れ、尿と便で固まり肌に貼り付いていた。動けず喋る事も出来きずにその場で尿や便をする度に父親は僕を殴り蹴り飛ばしていた。だから我慢をしていたけど、僕の意識とは関係なく尿や便は体から垂れ流れていた。

 それも治まり始めた頃、僕の体から垂れ流れる物がなくなった頃、口から入る物は何も無く体からは全ての物が垂れ流れ尽くしてしまった頃、父親は窓を開け台風の接近を確かめると、僕を掴み上げて玄関へ行き、そこにあったスコップを掴んでそのまま外へと引きずり歩いていった。

 河原で転がされながら父親がスコップで穴を掘るのを見ていた。随分と深く掘っていた。雨は激しさを増し、風も強くなっていた。川の水が増水し、すぐそこまで来ていた。父親はニヤニヤと涎を垂らしながら、ぶつぶつと呟き、時おり奇声を発し穴を掘っていた。

 増水した川の水が僕の足を浸し始めた頃、父親が穴を掘り終え、穴の深さと僕の体の大きさを確かめ、頷いてから僕に近づいて来た。スコップを持ったまま。


 たぶんそのスコップで最後のとどめをさすつもりだったのだと思う。万が一にも抵抗されないためにも、万が一にも土から這い出さないためにも。僕にとどめをさすつもりだったのだと思う。歩く事も立ち上がる事ももうすでに出来なくなっている僕なのに、口の周りを這い動くゴキブリも払い退けられずにいる僕なのに、僕のこめかみに吐き捨てられた父親のタンが目の奥へと伝い流れてきてもそれを止める術を忘れてしまった僕なのに、それでも父親は僕にとどめをさしに来た。


 父親は狂っていた。僕に抵抗する力も土の中から這い出す気力も何年も前から掻き消されていた事すら分からないほどに。ゴミを投げ棄てるように穴に放り込み土を被せればいいだけなのに。つまみ上げなくても蹴り落とせばいいだけなのに。そんな事も分からないほどに父親は狂っていた。


 さっさと埋めてくれれば良かったのに。

 僕を殺してくれれば良かったのに。



 結果的に父親は狂っていたけど正しかった。僕にとどめをさしに来たのは正しかった。なぜなら僕はその後父親を埋めたのだから。まだ息をしていた父親を土の中に埋めたのだから。僕にはそんな力が残っていたのだから。父親は正しかった。狂っていたけどその判断だけは正しかった。

 ただ狂っていた。精神も狂っていたけど、体も既に末期的に狂っていた。


 僕にとどめをさしにスコップを振り上げ近づいて来た父親は寸前のところで血を吐き苦しみだした。膝を付き胸を押さえぜぇぜぇと乾いた呼吸をしだした。息を吸いたいのに吸えないのか、途切れ途切れにしか乾いた音を出せずにいた。それまでも同じ事は何度もあった。死ぬのだろうかと見ていたのにその度に父親は薬を酒で流し込み生き返った。何度も生き返ってきた。けれど今回は違う。酒も薬も父親の手には無く、横殴りの雨が音を消し、強い風が視界を遮り、台風の接近が人々を、この町の全ての人々を家に閉じ込め、増水していく川の濁流が僕に力を与え、苦しみもがく父親は弱々しく、荒れた天気に獣達は静観を決め込み、手から離れたスコップは僕の目の前にあり、それを手に立ち上がる勇気を暗闇が僕に与え、遠くのサイレンが振り挙げる号令を掛け、睨みながら掴み掛かろうとする父親の腕が振り降ろす切っ掛けを作った。

 弱々しい僕の力は、それでもゴツンと確かな手応えを得、父親はゴロゴロと穴の近くまで転がった。追いかけていくと父親は額から血を流し仰向けにぜぇぜぇと喘ぎ続けていた。

 弱い、信じられないくらいに弱い目で父親は僕を見上げていた。僕は見下ろしている。生まれて初めて父親を見下ろしている。吸えない息を必死に吸おうとしている父親は小さかった。とても小さかった。大きく覆い被さっていた恐怖がこんなに小さかった事に僕は驚き、そして悲しかった。気がつけば涙がぽろぽろと零れていた。暗闇で涙の色は分からなかった。けれど腕に落ちたその涙は、とても、とてもとても暖かかった。


 僕の足元で父親が苦しみながら何か言っていた。息も出来ないのに何を言っているのだろうと思った。そんなに苦しんでいるのに何を僕に伝えたいのだろうと思った。僕は顔を近づけ、途切れ途切れのその言葉を聞いた。


「助けて、くれ」


 父親は確かにそう言った。


 狂っていると思った。父親は狂っていると強く思った。僕は雨に打たれ重たくなっていく体にむち打ちながら最後の力を振り絞り、父親を穴へと落とした。必死に息をしようとしていた父親を穴へと落とし土の中に埋めた。


 その光景を木の上から、激しく降る雨と強く吹く風を避けて木の枝に隠れていた鳩が見ていた。じっと僕を見ていた。





 赤に染まっていた。全てが赤に染まっていた。シャツも部屋も絵本も靴も全てが赤く染まっていた。その中で僕は堕ちていくためにジャックナイフを首に当てている。悪い巨人は深く落ちてもう上がって来ない。後は僕も堕ちて行くだけ。僕の中の悪い巨人と共に深く堕ちて行くだけだった。

 部屋の赤が回転している。部屋の中で、アパートの外で、赤く回転している。けたたましいサイレンが戻って来てアパートの周りを煩くしている。僕はジャックナイフを首に当てながらそれらを見て聴いていた。もしかしたら少女が戻って来たのかも知れないと思っていた。けれど回転している赤が少し違った。けたたましいサイレンの音も違う。

 外が煩かった。部屋の中はこんなに静かなのに、外は慌ただしくいろんなものが動いていた。怒鳴り声も聴こえてきている。廊下で誰かが怒鳴っている。そこは少女の場所なのに、少女が楽しい声で絵本を読む場所なのに。


 廊下で怒鳴っていた男の人達が何かを言いながら近づいてくる。部屋に入り近づいてくる。僕は見ていた。その人達を。強そうな人達を。なのに悪い巨人を捕まえてくれない人達を。僕を助けてくれなかった人達を。少女を助けてくれなかった人達を。絵本を踏みつけ走り寄って来る人達を。少女の靴を履けもしない人達を。この場所に来てくれなかった人達を。この場所に近づこうともしてくれなかった人達を。


 一人の人が僕に飛び付き、もう一人の人が腕を叩いた。僕の手からジャックナイフが弾け飛びどこかに飛んでいく。僕を堕としてくれる、深く深くどこまででも深く、二度と登ってこれないくらい深く堕としてくれるジャックナイフがどこかに飛んでいった。

 一人の人に押さえ込まれ、もう一人の人に踏みつけられながら僕はジャックナイフを探した。僕のジャックナイフを探した。荒れた部屋の中を、押さえ込まれ自由の効かない体で、首を振り、目を動かし、探し続けた。悪い巨人を落とし僕を堕とす、この世界から堕としてくれるジャックナイフを。僕を二度とこんな世界に生まれて来なくさせてくれるジャックナイフを。僕は探し続けた。



 一人の人が何かを叫びながら、よく分からない時間を言い、僕の手首を冷たい鎖で繋いだ。それはカチャリと音を立て僕の全てを奪い取った。絵本を拾い集める事も、拾い集めた絵本を順番通りにセロテープで繋ぎとめていく事も、向日葵に水をあげる事も、シャツにアイロンをかける事も、町を歩く事も、空を仰ぐ事も、靴紐を結ぶ事も、全ての事を一瞬で僕から奪い取っていった。でもそんな事は悲しくなかった。僕は堕ちていくはずだったのだから。そんな全てから堕ちていくはずだったのだから。

 けれどカチャリと音をさせて僕の手首を繋ぎとめたそれは僕の最後の望みまで奪い取っていった。僕から堕ちていく事さえも奪い取っていった。僕は堕ちていく事さえも出来なくなってしまった。


 威嚇するように赤いライトが辺りを照らしている。その中に僕は押し込められた。全てを奪い取った鎖に繋がられたまま。

 シートに座り、左右から両脇を押さえつけられながら明日から行くはずだった会社の事を思った。断りの電話をいれなければいけないけど電話は貸してもらえるんだろうか、テレフォンカードは売っているんだろうか、そんな事を考えている時サイレンは一段とけたたましく鳴り響き、赤く回転しているライトはより一層眩しく町を照らし、僕を乗せた車は走り出した。

 点滅しながらアパートを照らしていた赤いライトも動き出し、アパートを照らさなくなると続けて町を照らし、公園を照らした。

 公園は暗く、ブランコが僅かに赤くぼやけるように照らされた。チカチカと消えかけていた蜘蛛の巣だらけの街灯は赤いライトに気圧されてかもはや光を灯す事すら諦めていた。


 右の人が僕を睨み付け続け、左の人が拳で僕のお腹を押し付けていた。その拳の指に指輪がはまっている。幸せそうにはまっている。この人の拳と僕を殴っていた父親の拳は同じ拳なんだろうか、違う拳なんだろうか、町を歩く人達の拳はみんな違うんだろうか、何が違うんだろうか、生まれた時から違うんだろうか、途中で変わるんだろうか、何が変わるんだろうか、何が変えるんだろうか、自分が変えるんだろうか、この町が変えるんだろうか、この世界が変えるんだろうか、僕の拳はどうなんだろうか、鎖で繋がられた僕の拳はどうなんだろうか、僕には分からない。


 公園の前で車は曲がり、国道へと続く道を赤く照らし出した。その一瞬前だった。車が向きを変え、ライトも向きを変え公園が闇へと沈んでいく前の一瞬だった。

 僕は見た。確かに僕は見た。闇へ消え行く公園に少女が立っていたのを。暗い公園の中に少女は確かに立っていた。

 僕は急いで後ろを振り向く。少女を見るために。少女を見送るために。

 振り向いた時には、もう少女は向日葵を昇っていた。いつのまにか大きく高く天まで育った向日葵を少女は昇っていた。真剣な表情で、向日葵に水をあげる時よりも、絵本を読む時よりも、ずっとずっと真剣に向日葵を昇っていた。アニメのキャラクターが光る靴を履いて、時おりラムネを口に入れすっぱいような顔をしながら、真剣に、でも楽しそうに、高く高く向日葵を昇って行った。

 車は国道へと進んで行き、公園が小さくなっていく。でも向日葵は大きくいつまでも見えていた。向日葵を昇る少女もいつまでも見えていた。


 後ろに身を乗りだし向日葵を昇る少女を見ていた僕を両脇の二人が無理やりに前へと向かせる。途端に赤いライトが照らし出す国道へと続く無機質な風景が目に飛び込んでくる。それからはずっと前を見ていた。この無機質な風景を、当たり前に存在し続けているこの世界を。







 向日葵を昇る少女は最後に振り向き、はにかんだような顔をくずして僕に告げた。






『ちょっと行ってくるね』と。

 手を振り、幸せを掴みに向日葵を昇っていった。






 『向日葵をのぼる少女』

          完





ふぅ、終わりました

読み返すとさっぱり意味の解らない文章になってます

もし、ここまで読んで頂いた人がおられるのでしたら、本当に本当にお疲れ様でした、と申し上げたい気持ちです

書きながら話が変わっていき主旨も変わっていき伝えたいものを置き去りに文章を進めていくいつもの悪い癖(と言うよりこれが自分の低い低いレベルを表しているんでしょうけれども)で、意味が解らない辻褄の合わない話になってしまっていると思います

ですのでもう一度言わせて頂きたいです

ここまで読んで頂いた人がおられるのでしたら、本当に本当にお疲れ様でした

そして有り難うございます




思ってたより長くなってしまったので、最後に予定していた一話を省きました

エピローグ的なもので、十数年後の話です

堕ちて行こうとする『僕』を一人の女性が止めるという結末です



では、またご縁があれば



  『バイバイ』



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ