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向日葵にのぼる少女  作者: 沖崎りい
13/14

種が散る

 

 アパートの窓から絵本を読む少女の声が聞こえてくる。その声は夏の日射しのように優しく強く、どこまでもまっすぐに響き渡っている。薄暗い廊下やひび割れた側壁、夕食の団欒の準備をしているこの町全てのものに届けに行くように。

 光のようにまっすぐと輝き、けれど光よりももっと遠くもっと広く、朽ち果てた板の裏やぬかるんだ土の中まで、暗闇で怯えてる人や、陰に隠れて見えない子供、ふるえて泣いている薄く弱い魂などを包み込むように、まっすぐに暖かく強く眩しく響いていく。


 僕は綺麗だなと、思った。

 汚れていないなと、思った。



 それなのに、公園の向日葵が刈られていた。どこかの誰かが刈り取ってしまっていた。高く大きく立派に育っていたのに。雲まで育ちそうだったのに。

 向日葵の周りは、いくつものふらつく足跡で荒れていた。犬やカラスの足跡には見えないのに、それはアルコールとアンモニアの匂いでマーキングまでしている。


 醜い、と思った。

 汚れている、と思った。



 僕は猫を埋めた隣に穴を掘って、そこに刈り取られてしまった向日葵を埋めた。こんな醜い向日葵なんて親子の猫も登らないだろうなと思いながら。

 それでも僕は向日葵を埋めた。まだまだ大きく立派に育っていただろう向日葵を。高く高く育っていただろう向日葵を。誰かに命を刈り取られてしまった向日葵を、僕は土の中に埋めた。

 そして埋め終わった後に土をバン、バンと叩いた。前に少女がしていたように――車に轢かれた猫を埋めた時に少女がしていたように――僕も何度も強く叩いた。何度も何度も強く叩いた。そして願った。せっかく生まれて来たのに刈り取られてしまうならば、この土の中から二度と出て来なくていいと、もうこの世界には生まれて来なくていいと、こんな世界には生まれて来るなと、二度と生まれて来るなと、強く願いながら何度もバン、バンと叩いた。何度も何度も強く強く叩いた。


 あの時、少女も願っていたのだろうか、猫を埋めながら願っていたのだろうか。


 二度と生まれて来るなと。


 二度とこんな世界には生まれて来るな、と。



 部屋に戻り、シワついたシャツにアイロンをかけた。社会人になるのだからシワついててはいけない。丁寧に時間をかけてシワを伸ばした。水を振り掛けジュワッーと音を出しながらシワを伸ばしていった。一つ、一つ、丁寧に時間をかけて。


 犬が吠えていたので外を見ると、もう夜になっていた。

 少し手を休めてから、再びシャツに水を掛けてシワを伸ばしていく。シワがどんどんと無くなっていく。僕は誉められるだろうか? シワひとつ無い見事なシャツね、と羨ましがられるだろうか? 誰かに聞いてみたいけど誰も居ない。



 アイロンをかけている。僕はずっとアイロンをかけている。ずっとずっとアイロンをかけ続けている。


 行き苦しくなったので、アイロンを置いて立ち上がり窓を開けると満月があった。欠けた場所が無い完璧な満月。何度も何度も目を凝らして確かめてみても、やはり月は歪みの無い完璧な満月。綺麗な形をしていた。

 でも、色が悪かった。

 月が紅黒く濁っている。

 僕は嫌だなと思った。

 その満月は僕を殴る時の充血した父親の目のようだった。


 その満月の灯りが窓から僕の部屋に入り込み、アイロン台の上に横たわっているシワの無くなった僕のシャツを照らし出していた。まるで血に濡れたように、紅黒く僕のシャツを照らしている。

 車に轢かれた猫の血のように、少女が流す涙のように、枯れて萎れた向日葵のように、鈍く光るジャックナイフのように、段ボールの中のように、暴力の日々を思い起こさせるように、シワの無いシャツを照らす。



 僕はもう一度シャツに水をかけ、アイロンをかけた。ジュー、ジューと音をたてシャツが乾いていった。それでもシャツは紅黒く濡れ染まっている。僕は何度も水をかけ何度もアイロンをかけ続けた。



 アイロンの熱で顔が熱くなり、喉も乾いたので水を飲んだけれど、やはり口の中は乾いていた。窓を見たが月は移動していて見えなかった。それなのにシャツは紅黒く濡れている。


 廊下で、疲れているけど優しい足音がした。すぐさま少女の「お母さん!」と喜ぶ声と同時にドアを開ける音がして、手をつなぐように静かにドアが閉まる。


 壁から伝わる楽しそうな物音と少女の声を聞きながらアイロンを動かす。滑らかにアイロンは動き、シワは一つも見当たらない。なのにシャツはいつまでも紅黒く濡れ染まっている。

 壁の向こうで少女が笑っているのに僕の部屋ではいくらアイロンをかけてもシャツが紅黒く濡れ染まっている。窓の外では父親が僕を睨むように紅黒く見下ろしている。同じだと思った。過去と同じ。僕は逃げられない。過去から逃げられない。鳩が笑った。居なくなっていた鳩が、笑った。


 シャツがこんな紅黒くてはいけない。白くしなければ。染み抜きをしないといけない、と思い漂白剤を探した。どこかにあっただろうか? 僕にはわからない。前に買った記憶があるけど、どこを探しても見つからない。あれは本当に漂白剤だったのだろうか? 僕にはわからない。漂白剤のつもりがジャックナイフだったのだろうか? 僕にはわからない。



 探し疲れて手を止めると壁の向こうは静かになっていた。耳をすますと少女のすぅー、すぅー、と寝息のような音が聞こえる。今、向日葵を登っているのかも知れない。母親と手を繋ぎ向日葵を登っているのかも知れない。はにかむ少女の顔が目に浮かぶ。


 廊下でまた音がした。嫌な音だった。醜い音。ふらつく音。悪い音。巨人の音。父親の音。暴力の音。刈り取る音。向日葵を刈り取る音。少女を刈り取る音。アルコールとアンモニアの臭いをさせて全てを刈り取る嫌な音。

 漂白剤を探す。タンスを探す。引き出しを探す。見つからない。どこにも見つからない。シャツは紅黒く濡れ染まっていく。

 ふらつく音が壁にぶつかりドアにぶつかり、窓ガラスが揺れる。

 漂白剤が見つからない。僕にはわからない。指に何か触れる。それが何か僕にはわからない。

 ふらつく音が通り過ぎ行く。少女の声はしない。ドアは開かない。少女はドアを開けない。壁からは何も音はしない。楽しい音はしない。少女の声は聞こえない。

 ふらつく音がドアを殴りドアを揺らす。醜い声で叫んでいる。壁の向こうで起き出す音がしてドアを開ける。ふらつく音が怒鳴り暴れる。起き出した優しい音が何か言う。すぐに殴る音がする。優しい音を殴る。少女が起き出す。壁から荒れた騒がしい音が流れ続ける。


 僕の手にある物は漂白剤だろうか? 僕にはわからない。


 壁から怒鳴り散らかす音が流れ続ける。激しくぶつかる音がする。割れる音がする。母親の叫ぶ声が耳に刺さってくる。


 これは漂白剤だろうか? 僕にはわからない。それでもそれを手にしてアイロンをかける。グサリと突き刺さる。左手に痛みが走り、シャツがますます紅黒く濡れ染まっていく。どんどんと紅黒く濡れ染まっていく。


 怒鳴り暴れる音。懇願と悲鳴の声。怒鳴る音。蹴る音。揺れる壁。叫び声。泣き叫ぶ声。少女が泣いている。絵本を抱いて泣いている。


 僕はアイロンをかけ続ける。シワついててはいけない。白くシワのないシャツにしなければ外に出てはいけない。みんなに笑われてしまうから。紅黒く濡れ染まっててはいけない。みんなの目が僕を蔑むから。僕はアイロンをかけ続ける。なのに左手が疼き、シャツが紅黒く濡れ染まっていく。


 少女が泣いている。母親が倒れて泣いている。暴れて殴る音がする。少女が駆け寄り叫んでいる。悪い巨人に叫んでいる。闘っている。少女が闘っている。泣きながら闘っている。

 悪い巨人と闘っている。



  ダメだ!


 と僕は手を止めた。


 少女は闘ってはダメだ。悪い巨人と闘ってはダメだ。見つからないように逃げなくては、見つからないように逃がしてもらわなければ、悪い巨人と闘ってはダメなんだ。見つからないよう隠れながら逃げなくちゃダメなのに。そして向日葵の木を降りなくては。見つからないように雲の上から降りなくては。


 だけど、向日葵は刈り取られてしまっている。降りる階段が無い。



 醜い声が何かを叫び、ふらつく足を蹴り上げた。


 大きな嫌な音がした。

 泣きながら闘う少女の声が消えた。蹴りあげた悪い巨人の大きな足が少女の声を消し飛ばした。嫌な音がした。とても嫌な音がした。



 静寂だけが寂れたアパートを包んでいる。少女の姿が見当たらない。少女の声が聞こえない。


 鳩が笑いながら夜空を舞った。紅黒い満月の目が見開いた。その後に母親の悲痛な叫び声が高く強く続く。少女の声がしない。少女の姿が見当たらない。動く気配が無くなった。


 母親が少女を呼んでいる。少女を揺り動かしている。悲痛な声で揺り動かしている。少女の声が聞こえない。少女の姿が見当たらない。動く気配が無くなった。


 アイロンをかけなくちゃと思っていた。染み抜きをしなくちゃと思っていた。けれど右手がジャックナイフを握り、僕の左手を突き刺していた。

 シャツが紅黒く染まり続けていく。僕の左手から流れるものでシワのないシャツが紅黒く染められていく。

 満月はいなくなっていたけど、代わりに左手から流れる僕の血がシャツを紅黒く濡れ染めていた。




 夜だというのに大量の蝉が鳴いていた。クックッと鳴いている。抜け殻なのに鳴いている。その蝉達を押し退けサイレンが向かってくる。いくつかの抜け殻を踏み潰しながらサイレンが近づいてくる。それでも抜け殻の蝉達はクックッと鳴き続け、フンを垂れ流している。

 僕はアイロンをかけなくちゃと思っているのに左手が痛くてかけられない。僕はアイロンをかけられない。僕はアイロンをかけられないでいる。シャツはどんどんと紅黒くシワついていく。



 サイレンが大きくなり耳の中にまで入って来た。赤いライトがアパートを照らし夜の闇で規則正しく回転している。

 サイレンが止み、壁から人の動く気配がした。慌てて廊下へ出ると、僕には目もくれず母親が横を通って行った。少女を抱えている。胸の前で少女を抱えている。

 少女は母親の胸の前で抱えられ、手足をダラリと下げていた。車に轢かれた猫のようにダラリとしたまま目を閉じ動かない。綺麗な顔のままダラリと母親の胸の前で垂れ下がっている。

 後について声をかけたけど、少女ははにかんだ顔を崩してはくれず目も開けてはくれなかった。

 少女の声が聞こえない。動く気配が無くなった。




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