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向日葵にのぼる少女  作者: 沖崎りい
12/14

空と靴

 

 外では土の中の蝉達が鳴き出す準備を始め、公園の片隅には誰かが向日葵を埋める準備を始めていた。

 僕は汗を拭き、コップに注いだ水を飲んだ。それは喉を通り、胃まで落ちてから冷たく感じた。口の中はまだ熱く、乾いている。

 けれど、耳から聴こえるその声が僕を潤してくれていた。



 廊下に出ると、少女が絵本を読んでいる。セロテープでとめて頑丈になった絵本。前よりも頑丈になった絵本。それを大きくはっきりな声に出し、前を見て読んでいる。その姿が楽しそうで暗い廊下が少し明るくにぎやかになった。


 いまでも時おり夜中に少女の泣く声が聞こえたり、絵本を読む腕や顔にアザが増えていたりしているけれど、廊下で毎日読むセロテープでとめた絵本と少女の瞳は以前のように楽しく踊るようになっている。


 僕が近づくと少女ははにかんだ笑顔を見せて言う。

「絵本読む?」

 僕はすぐに頷く。

 少女は途中まで読んでいる絵本を最初に戻し、表紙の絵を指差し説明する。

「これがジャック、これがお母さん」

 ページは捲らずに表紙のまま少女の説明は続く。

「この子がね、ウシとタネを交換するの。そしたらね、すっごく大きくなるの。雲まで大きくなるんだよ。それでね、うんとね……宝物がいっぱいあってね、この子とお母さんは幸せになるの」


 説明を終えてから少女はページを捲り、大きな声で絵本を読み始めた。まるで初めて読む物語のように、ドキドキ、ハラハラ、ワクワクと瞳を踊らせながら。雲まで登る時も巨人に追いかけられる時も楽しそうに瞳を動かす。


「もう一回読む?」

 最後のページが終わると少女は言い、表紙に戻り「この子がジャックだよ、これがお母さん。この逆さまに落ちてるのが悪い巨人」と説明してからまた読み始める。少女の物語は終わりが無く、永遠に続く。明日も明後日も、永遠の物語を紡いでいく。


 僕と少女は公園に移動してブランコの上で絵本を読んだ。膝の上に乗る少女はおっかなびっくり絵本を読んでいる。ブランコには一人で乗った事がないらしい。まだうまく漕げない少女は押してくれる人が居ないと少ししかブランコを揺らす事が出来ない。だからいつも砂場か向日葵を見てる。背中を押してくれる人が居ないから、だからブランコには乗れない。


 僕が大きく揺らすと少女は読むのを止めて鎖をしっかりと握り身を固くする。揺れるブランコの上に乗る自分の体が不安定で、落ちないように鎖をギュッと握る。漕ぐのを止めると動いてないのを確認してから、止めていた息を吐き出し僕を振り向き、僕を見上げ、「グフフ」と笑う。そしてまた絵本を読み出す。

 揺らすと少女は身を固くし、止まると振り向き見上げ「グフフ」と笑う。何度も身を固め、何度も「グフフ」と笑った。


 そのうち僕らは大きく揺れた。高く高くどこまでも高く、優しく優しくどこまでも優しく、ブランコは揺れた。もう少しで雲まで届きそうだった。

 何度も絵本を読み返し、何度もグフフと笑い、元気よく足を振る少女のその足の先にあるキャラクターの剥げた綺麗な靴は、本当にもう少しで雲に届きそうだった。豆の木や向日葵を登らなくても雲まで行けそうな気がした。ましてや土に埋める必要なんて無かったんだ。

 このまま勢いをつけて強く強く漕ぎ続けていると、きっと雲まで届く。僕は少女を雲に届けてあげれる。


 空を見ると一面の青に白い靴がいくつも浮かんでいる。どの靴も幸せになれそうな靴だった。楽しそうに笑っている。全ての靴が手を繋ぎ踊っている。そこに汚れた靴底は無かった。



 何度目かの絵本を読み終えた時、急に少女が公園の外を見つめ動かなくなった。じっと見つめ絵本を読むのも忘れてる。

 しばらく見つめ続けていた少女は「お母さん!」と言うと、僕の膝から這い降りて母親の元へと走って行った。僕を振り返る事も無く、僕に手を振る事も無く、一目散に少女は走って行った。


 少女はいつも一目散に消えていく。僕を振り返る事も無く、手を振る事も無く、バイバイと言う事も無く、一目散に消えていく。その先にはいつも母親が立っている。


 もう少しで雲まで届きそうだったけど僕の精一杯ではやっぱり届かなかった。あの雲にまでは届かなかった。母親とだったら行けたのかな? 母親の膝の上だと少女の靴は白い雲になるのかな?

 僕には分からない。





 いつしか夏は暑くなり、過ぎ行く日々を燃やし始めていた。

 僕は今日ハローワークへ行き、その帰りの込み合った人いきれだらけの車両が嫌で、吐き出されるようにホームへと逃れて一つ手前の駅から歩いて帰った。その時見慣れた町がいつもと違うみたいに見えたのは、きっと僕の仕事が決まったからだと思っていた。

 蝉達が暖房器具のようにジージーと鳴くのも祝辞を述べているんだと思っていた。


 今年の向日葵はいつもより大きく高く育っていた。雲まで届きそうなくらいに。

 本当に少女が向日葵を登れるんじゃないかと思えるほどに。とても高く大きく立派に育っていた。


 汗を拭こうとハンカチを出したけど、ハンカチはすでにビッショリと濡れていて、僕がかいた額の汗を拭き取る事は出来なかった。それどころか更に汗が額を流れ落ちた。

 それでも僕は爽やかな気分だった。仕事が決まり社会人になれるんだから。それに、次の角を曲がると大きく育った向日葵が待っているんだから。もしかしたら少女が向日葵に登って遊んでるかもしれない。

 僕は早足で角を曲がった。



 なのに……公園に向日葵は無かった。

 大きく育った向日葵は誰かに刈り取られ横たわっていた。



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