太陽に背を向ける
不意に耳のすぐ後ろで靴音が鳴った。その音はフラフラと乱れ、汚れて醜く、アルコールとどぶの臭いまでさせている。
またナイフに気をとられ、靴音が近づいて来てるのに僕は気がついていなかった。段ボールの中でナイフを見つめ過ぎていて父親が帰ってきてたのに気付かないでいたあの日と同じで、廊下の端から僕のすぐ近くにまで靴音が近づいて来ていたのに気がつけないでいた。
靴音は僕の隣で止まり、濁った視線を向けてくる。その視線も靴音と同じでふらついている。アルコールと煙草と暴力の臭いでふらつきながら僕を睨んでくる。
僕はずっと少女を見ていた。少女は俯き何も見ていなかった。この薄暗い廊下の中で濁った視線だけがフラフラと揺れている。
無意識にポケットの中の手を握ると、ナイフがニュルリと滑った。それは僕の血だったのかもしれないし、知らず知らずのうちにかいていた僕の汗だったのかもしれない。
もう一度上手く握り直そうと指に力を入れた時、澱んだ靴音が僕に言葉を投げ掛ける。
「俺が嫌いか?」
「俺が憎いか?」
「俺を殺りたいか?」
「少女を殺りたいか?」
「殺ってみろ!」
「殺ってみろ!」
「殺ってみろ!」
アルコールの視線はさんざん僕の心の中や頭の中に罵声を浴びせてから、ゲップを一つするとフラフラと歩き出し僕から離れていく。その後ろ姿を見てると、僕の体から力が抜けていき、ポケットの中のナイフがまるで蛇のようにスルリと抜け落ちていった。
ふらつく靴音は少女の前を通り、部屋のドアを開け、中へ入って行こうとしている。けれど後ろへ戻ったり前へ倒れそうになったり横へ傾いたりしていて、中々部屋の中へ入れないでいる。
少女は変わらず頭を垂れて座っている。中へ入れない汚れた靴には見向きもせずに、ずっと頭を垂れて座っている。
僕は動けずにいた。またどこかで鳩が鳴いている気がして、暗い廊下で座ってうつむいている少女と無秩序にふらつく汚れた靴と天井に張りついている主の居ない蜘蛛の巣とを無作為に見ていた。
突然、バタンとドアの閉まる音がする。
見るとふらつく靴の姿は見当たらず、暗い廊下に少女だけが座っている。
少女はずっとうつむき頭を垂れていた。まるで枯れているようだった。僕は枯れていると思っていた。けれど、それは違っていた。向日葵は太陽を見て育つけど、少女はふらつく靴を見ていない。
ふらつく靴は太陽ではないから。
少女は顔を上げる必要が無かったんだ。太陽が照ればまた顔を上げて追いかけるに違いない。この暗い廊下に陽射しが差せば、少女は顔を上げ、光を求め走り出すに違いない。
早く陽射しが差せばいいな、と思った。
なのにふらつく靴はまたよろめくように背中で扉を開けた。一度入った扉から、後ろ向きに倒れそうな角度で、でも倒れまいともがく手を振り回しながら何かを掴もうと必死に耐えている。
汚れた靴は汚れた靴なりに倒れまいと、もがきふらつき耐え続けている。アルコールを飲まなければ、靴を洗ってあげれば、あんなにふらつく事もないだろうに。
それでも汚れた靴は倒れまいと必死に耐えている。倒れる事が負けだと言わんばかりに、この寂れた古く暗いアパートのドアの縁にシワついたシャツの袖から出した色褪せた惨めな皺だらけの手を掛け、まるで蛇に飲み込まれた小ねずみが緩慢な動きで外に出ようと蛇の腹を動かしているように、必死にもがき耐えていた。
もう食べられているのに。
もう逃げられないのに。
憐れだな、と思った。
一緒だな、と思った。
汚れているな、と思った。
ふらつく靴はドアの壁に手を掛け、右足を上げ倒れそうになるのを左足一本で持ちこたえようとしていたが、そのまま左足の踵を軸にして右回りにクルリと回り、壁に背中を打ち付けて、でもそのおかげでようやくふらつくのを止めた。そして得意気に、破れて開いた爪先をパカパカと動かしている。
背中を打ち付けているのに。惨めな姿なのに。鳩に笑われているのに。頭から鳩の糞を被っているのに。
それだけでなく……
それだけでなく……
クルリと回る時に右足で少女を蹴飛ばしているというのに。少女は弾かれ倒れているというのに。
ふらつく靴はゲップをしてから高らかに笑った。
まるで雲の上の巨人のように、勝ち誇っているかのように、醜く汚く笑った。
蹴飛ばされ転がった少女は廊下で丸くなっている。大事な絵本を放り出し丸くなったまま動かない。刈られて無造作に束にされた向日葵みたいに動かずじっとしている。
その少女の口からは糸が出ていた。その糸はどんどん伸びていき、やがて少女を被っていく。そして少女は繭になった。綺麗な白で殻を作り、その中で丸く身を固めている。
綺麗だと思った。
美しいと思った。
少女は繭の中で丸くなりじっとしている。それを光りが包み、この暗い廊下も照らす。ヘドロのようなこの廊下を、このアパートを、この世界を、この社会を、この現実を、僕を、靴を、鳩を、糞を、全てを照らし光り輝いていく。
綺麗で美しい
その綺麗で美しい光り輝く繭から一本の手が現れ、廊下を滑るように伸びて行った。その手は廊下に転がる絵本へと伸びて行く。いつも大事に少女が持っていた絵本へと。今は少女の体から離れ廊下に放り出されている絵本に。毎日読んで擦りきれた少女の大事な絵本に。いつか幸せを掴むその時の為に一言一句の全てを、書かれている絵の細部まで全てを覚えている絵本に。その絵本を掴もうと繭から伸びる少女の小さな手。
その小さな手も光り輝き、廊下を僕を照らした。
あぁ、そうか。
繭から伸びた光り輝く小さな手が大事な絵本を掴んだ時、少女は向日葵を昇るんだ。高く、高く、どこまでも高く、雲を突き抜け天を突き抜け、高く、高く、もっと高くどこまでも昇るんだ。そして幸せを掴むんだ。絵本を読み続けた少女はそこでようやく絵本を閉じる。それが少女の幸せなんだ。
と、僕は思った。
でも違った。
突然、高らかに、でも酷く醜く、耳が溶けて落ちてしまいそうなほど汚く汚れた声で、ふらつく靴が笑った。
もう少しで少女の手は絵本へと届いた。あと少し、本当にほんの少しだったのに。
少女の手が止まり、輝きが消えていく。大事な物を掴む為に伸びていた小さな少女の手。
その先にある擦りきれた絵本。
その上には醜く汚れたふらつく靴が乗っていた。
嫌な笑い声を出しながら踏みつけている。絵本が腐っていく。
止まっていた少女の手はそれでも取り返そうと再び伸びていった。
指が触れた時、ふらつく靴が動き絵本を高く蹴り上げる。絵本は宙を走り壁に当たる。そしてバサバサと音を立てながらバラバラになって、静かにゆっくりと一枚一枚が澱んだ廊下の床へと落ちた。
僕は胸が痛くなって一度目を閉じた。
そのわずかな隙に輝きを失いつつあったけどまだまぶしかった光りは、瞬時に消えていて少女を被っていた繭も無くなりいつもの薄暗い古びた廊下に戻っていた。薄暗い廊下に少女が座っている見慣れた光景。ふらつく靴は部屋に入りいびきを掻き、少女だけが廊下に居るいつもの光景。
だけど絵本は少女から離れた場所でバラバラになって散らばっている。
車に轢かれた猫を思い出した。
動かなくなった親子の猫の側をいつもと変わらず車が走っていた。車の中の人達は楽しそうに、でも猫を見た瞬間迷惑そうに「かわいそうに」とおざなりに声をだし、そしてまた楽しそうに走って行った。猫は悪くないのに。猫はまだ生きていたのに。
少女は立ち上がり、よろよろとバラバラになった絵本の元へと歩き出し一枚一枚を手に取り拾い始めた。まるで絵本を読んでいるようにバラバラになった一枚一枚を間違える事なく、順番通りに綺麗に拾い集めていく。狭い、でも少女にとっては広い薄暗い廊下に散らばるバラバラになった絵本の一枚一枚を移動してはしゃがんで確認をして、順番通りになるように拾い集めていく。
だいぶ拾い集めた頃、少女は豆の木に登るジャックの絵を手にしていた。そして次の一枚を探しに移動する。
少女の小さな体に抱えられた、拾い集められ重ねられたバラバラの絵本は移動する度にグラグラと揺れている。
雲の上で宝物を見つけたジャックの絵を拾おうと、しゃがんで少女が手を伸ばした時、抱えていた絵本がドサドサと少女からこぼれていった。慌てて止めようとしたけど、手元には表紙だけしか残っていなかった。
少女はこぼれ落ちた絵本を見ている。動かずにじっと見ている。けれど、何かを堪えるように頬と鼻の穴だけがヒクヒクと動いていた。
何かが溢れそうになった時、少女は足をドンとしてからまた一枚一枚を拾い始めた。間違わないように絵を確かめながら、一枚一枚を紡いでいくように拾い集めていく。
またジャックが雲の上で宝物を見つけた絵の番になる。少女はそっと移動してゆっくりとそれを拾う。小さな手がしっかりと一枚を掴んだ時、また重ねられた絵本がドサドサと少女の体から落ちていった。
また少女は動かない。じっと溢れた絵本を見ている。
けれど、頬と鼻の穴のヒクヒクはさっきより大きく、噛み締めた口元まで震えている。
少女はまた拾うに違いない。足をドンとしてから拾い集めるに違いない。一枚一枚順番通りに間違う事なく、声に出し読むように絵本を拾い集めるに違いない、と僕は待っていたのに少女はずっと動かない。動かずに絵本を睨んでいる。その目が水のように揺れている。今にも溢れそうに揺れている。
それでも少女はまた絵本を拾い集めるに違いない。きっと拾い集めるに違いない。僕はそう思っていた。
少女は長い間動かずに絵本を睨んでいたけど、ようやく手を動かした。
拾う為ではなく、たった一枚だけ手に残った絵本の表紙を投げ飛ばす為に。
そして足元に散らばるバラバラの絵本を蹴り散らかした。それだけでは足りずに両手でかき集めてはそれも放り投げ始めた。
少女は水のように揺らめく目でバラバラになった絵本をかき集めては投げ棄てている。あんなに大事にしていたのに。毎日読んでいたのに。少女の宝物なのに。
元に戻らなくなったバラバラの絵本を悔しそうに悲しそうに投げ棄てる度に、少女の目が流れ落ちそうになっていく。
僕はいけない、と思った。
少女から水のような目が落ちてはいけない、と思った。少女は太陽を探さなければいけない。太陽を追いかけなければいけないんだ。
水のような目が流れ落ちてしまえば少女は枯れてしまう。本当に枯れてしまう。そうなれば太陽を追いかけられなくなってしまう。
それはいけない、と僕は思った。




