レポート00
湯里 時雨は、ごく普通の男子高校生でいられるはずだった。
あの事件さえなければ。
◆◆◆
少しばかり色素が薄い。日差しで赤色に見える髪と瞳は、いつだっていじめの対象になった。小学校の頃は、ただバカにされるだけだった。お前の髪がそんな色をしているから、親に捨てられたんだ。化け物。異国人。――そんな風に言われてきた。
高校は地元から遠く離れたところに進学した。幸い成績は悪くなかったために、それなりの進学校へ行けたのだ。これと言って大きな夢はなかったが、将来は大学へ行って、就職して、育ててくれたおじいちゃんにささやかでも恩返しが出来たら、と考えていた。
高校生活は穏やかだった。友達が出来た。部活はしなかった。その代わりにバイトをして、生活費を稼ぐ。田舎のおじいちゃんに、これ以上負担を掛けたくはなかったからだ。勉強をして、友達とおしゃべりをして、バイトに行ってお金を稼いで――いつしか一年が過ぎ去った。
ある日の夜。バイトの終わりが遅くなって、すっかり日が暮れてしまった。その日は雨だった。借りているアパートまでの帰り道は、歩いて二十分ほど。しとしとと雨が降る中で傘をさし、スーパーのあまりものを片手に持っていた。ふと、電柱の影に人がいた。街灯の明かりから少し外れた暗闇に、確かに誰かがいる。傘をさしている様子はない。
(どうしたんだろう・・・傘もささないで・・・。)
風邪を引いてしまうのではないか。怖いという気持ちも少なからずあったが、時雨は近寄って、その人に声を掛けた。
「どうかなさったんですか?」
その人はこちらを向く。するとその顔が明かりの中に入り、表情が見える。
「ひっ」
時雨は短く声を上げ、身体を強ばらせた。大学生ぐらいの男だった。人ではない。時雨がそう理解したのは、彼の顔を見たからだ。口が裂けるほどつり上げられ、笑っている。そこから覗く歯は鋭く尖り、血で汚れていた。今更ながら、男から血の濃い臭いが漂っていることに気がついてしまう。雨に紛れて、気がつかなかった。背筋をそっと撫でた恐怖が、時雨を支配した。
時雨は逃げ出した。雨の中を走って走って、走り抜いていく。だが、人通りはない。道沿いの家に明かりはない。
(何あれ?!ヤバイ?)
時雨は走りながら後悔していた。あの道を通った事を、彼に話しかけた事を。バイトに行った自分を。思えば、バイトの終わりが早ければ、こんな事にはならなかったのだ。とにかく、ひたすら逃げた。角を曲がり、塀を跳び越え、走り、狭い道を駆け・・・。体力と、足の速さには自信があった。どれぐらい走ったかは分からないが、気付けば知らない場所にいる。おそらく、ここまで来れば大丈夫だろう。そう思って足をゆるめながら後ろを確認しようとした。
すぐそこに、男の顔があった。
「うわああああ!」
時雨は驚きと恐怖で地面に転んだが、それでも逃げようとした。みち、と嫌な音が響いた。
「うぇ・・・?」
その男が、時雨のふくらはぎを踏みつけていた。細身の体型に似合わない、かなりの力が掛かった。このままでは折れてしまう。折れたら、逃げられなくなってしまう。男はいひいひと笑っていた。血走って濁った瞳が、時雨だけを見ている。片手には、出刃包丁が携えられていた。恐怖は、実感と確信へ変わった。
死んでしまう!
「うああああああああああああああああああああああっ!」
叫んだ。半狂乱になりながら、暴れて、どうにか抜け出して逃げようとした。男は笑っていた。声は聞こえないはずなのに、「殺してやる」と聞こえた気がした。男は大きく足を上げ、時雨の左足を踏みつける。鈍い音が響いた。時雨の足はふくらはぎの途中で折れ曲がっていた。あの鈍い音は幻聴だったのかと思うぐらい、自分の左足は簡単に折れてしまった。
「――――――――――――――――――――っ!」
もはや声すら出なかった。激痛が絶対の恐怖を時雨に植え付けた。もう逃げられないのだと。男は狂った笑い声の中で、とても楽しそうに包丁を時雨へ振り下ろした。一回、二回、三回――――途中から頭がぼんやりして、数えられなくなった。泣き叫んだ激痛も薄れて、身体の表面に熱を残して深く沈んで行く。
(ああ、これは夢なんだ。)
口を微かに動かしたが、声は出なかった。風が強くなったのか、ひゅうひゅうと細い音が聞こえるばかりだ。
(夢なら早く覚めないかな・・・。)
怖いのは苦手なのに。そういったのだが、空気が通る音に阻まれて消えてしまう。時雨は急激な眠気に襲われた。このまま眠ってしまえば、きっと目覚めたときには自宅のベッドにいるのだろう。嫌な夢だったと独りごちて、カーテンを開くと、いつもと変わらない朝の日差しが部屋を満たす。気怠い身体を引きずりながら朝の支度を調えると、自転車にまたがって穏やかな日常へ向かう。きっとそうに違いない。
そうして意識を手放そうとした時だった。
時雨は不意に、身体が転がり落ちるような感覚を覚えた。目の前が一瞬にして真っ暗になって、そのまま真っ逆さまに下っていく。咄嗟に腕を伸ばすのだが、暗い闇の中では自分の手も見えない。落ちていく感覚だけはあるのに、上下左右もまるで分からず、声も身じろぎする音も聞こえない。やがて自分が存在しているのかすらも分からなくなって、どうしようもなく恐ろしくなった。
(こわい!嫌だ!誰かたすけてっ!)
必死に手を伸ばした。
(独りにしないで!)
泣きながら叫んだ。
しかし、そこに音はない。
(死にたくないよ!)
その刹那だった。何か温かいものが頬に触れた気がした。
「うぇ・・・・・・?」
やんわりと拡がっていく温度の中で、音が耳に届く。どこか遠い自分の声が。コンクリートに打ち付ける雨の音が。そしてそんな雨に似合わない甘い匂いがした。
「もう大丈夫だ!」
突き抜けて明るい声が、どうしてか頭の中に残っていた。