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暗闇といえば宇宙だ。その膨大な存在は、日々拡がり、光速に近づいていく。その中で、太陽は四つの水素の原子核をひとつのヘリウムの原子核に変換し、そのとき失われた質量がエネルギーを生産する。
〝「おはよう」
「おはよう」〟
たとえばフロイトのいう「幼児期健忘」というものがある。ヒトは生まれてから二、三歳ほどまでの真の記憶を検索できない。彼女が実感したとおり、感情というものが、心というものが、複素数を介した存在であるならば。彼女が実感したとおり、体ができてから、心が生まれるまでタイムラグが生じるのなら。複素平面には実軸と虚軸があるため――虚数空間と実数空間両方への扉があるので――彼女の実感が、虚数的生物だけでなく、実数的生物にも通用する話だと考えることができる。
太陽は核融合反応を繰り返し、そのうちの二十億分の一ほどの熱を地球に向けて放出する。それは実数空間でのことだけであり、虚数空間には影響をもたらさない。
宇宙が膨張を続ける。だんだんと光速に近づいていく。
〝「昨日は……ごめん」
「なんだよ、泣いたくらいで」
「そろそろ、現実をちゃんと見ないと、いけないよね」
「さあな」
「テミも、リンも、ブルースも……もういない」
「みんなの分も生き延びようってことか」
「そうじゃなくてさ。そうじゃなくてさ……私たちは運が良かったんだ」〟
時間は相対的だ。ロケットに乗り続けているヒトにとっての一年と、普段どおりのんびり暮らしているヒトの一年では、時間の進み具合が異なる。それは宇宙にとっても同じこと。地球にとっても同じこと。
彼女の意識に多量の情報が流れ込んだ。そのほとんどは実数空間からではなく、虚数空間からのものだった。暗闇の中をタキオンが飛び交う。タキオンは光よりも遅くは走れない。
〝「ブロント……」
「なんだ?」
「私、クロウが好きだった」
「そうか……。今更だな」〟
宇宙は虚数空間に影響をもたらせない。なぜならば宇宙も実数空間に含まれているからだ。宇宙が膨張するごとに、太陽系の位置は移ってゆくが、虚数空間の座標が揺らぐことはない。
もしあるとき、宇宙にひっぱられた地球が、虚数空間と座標を同じくしたら。複素平面を中心に、対象の位置にちょうど重なったとしたら。
虚数空間と実数空間が繋がったとしたら。
〝「バカみたい」
「実際、バカなんだろうな」
「この地球に、他に人間がいると思う?」
「分からない。そんなこと、分かっても意味ないじゃないか」
「そうだね。どうせ、外には出られないのだし」〟
彼女に情報を流し込んでいたのは、クロウという少年だった。いや、クロウだけではない。ブルース、ジルバ、テミ、ミドリ、ルファ、ティンク。その面々は、ブロントとマゼンダの記憶で笑う、死者たちであった。
「リン……ここにいたんだね」
ティンクが彼女に言う。
〝「太陽が小さいね」
「太陽が小さいな」
「どんどん小さくなっていくな」
「だんだん離れていくんだな」〟
地球の生物が、一気に虚数空間に流れ込む。あの瞬間。虚数と実数が重なり合った、地球が動かなくなったあの瞬間。
彼女――リンは、急速に心が安定していくのを実感した。ここはまるで天国のような。
〝「チョコレート飲む?」
「飲もうか。飲もう」
「どっちが淹れる?」
「じゃんけんだな。……じゃん、けん」〟
ぽん。
リンが勝った。