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〝「ブロント、オレンジあったよ」
「へぇ、そんなもんどこにあったんだ?」
「倉庫のすみっこ。気付かないままだったみたい」
「果物食べられるなんて、思ってなかったな」
「そうだね」
「最後のひとつだな」
「最後、の……」
「あ」〟
泣く、というものを彼女ははじめて観測した。その不可解な現象に彼女は疑問を感じずにはいられなかった。マゼンダの中で、タンパク質が過剰に生成されていた。感情が隆起したことで生まれたらしい。視覚器官から液体を流して、余分なタンパク質を排出していた。それが「泣く」ということらしかった。
なぜだか分からなかったが、それを見て、彼女の感情は大きく揺さぶられた。悲しい気分というものを理解した。マゼンダへの親近感が増した。なぜ泣いているのかも分からなかったが、彼女はマゼンダをかわいそうだと思った。泣くという行為と悲しいという感情が、結束したのだ。
〝「泣くな」〟
ブロントの声も泣いていた。涙は流れ出ていないが、発声器官の震え具合がマゼンダと似ていた。
二人は抱きしめあった。ブロントがこたつから這い出て、マゼンダの背中を撫でたのがきっかけだった。縋るように抱擁して、二人して泣いていた。
彼女は今度は、困惑の感情をいだいた。なぜ泣いているの、なぜ涙を流すの、なぜ声を震わせているの、なぜ。彼女には分からないことが多すぎた。
その原因はどこにあるのだろう。彼女は「原因」という概念を既に獲得していたので、そう疑問をいだいた。そしてあのオレンジというものが原因なのだろうと推測した。あれを見つけてから、マゼンダが泣き出したのだ。
彼女がオレンジを観察する。表面はぶつぶつしていた。一点にぽつんとでっぱりがあり、その対極にわずかなへこみができている。中身を透視してみると、水分を多く含んだ袋が連なっているのが分かった。スクロースがもっとも多く含まれている。
なぜこの果物が、マゼンダを泣かせたのか。部屋の外を知らぬ彼女には、分かる由もなかった。ただただ疑問をいだき、憶測を並べ立てるしかできなかった。その間にも、かなしい、という感情がなだれ込んでくる。「かなしい」が彼女の心を満たした。彼女の体は虚数的物質で構成されていたが、「かなしい」は純粋な虚数ではないらしい。彼女は実数の感覚が分からないが、きっとこの「かなしい」は、実数と似たものなのだろうと思った。
〝「私たち、なんで生きてるの」
「知らねえよ。生きてるから生きてるんだ」
「みんなは死んだのに?」
「俺たちは生きている」〟
死、というものに実感が湧かなかった。それどころか彼女には、生きている感覚もよく分からなかった。虚数空間にとって、生死は、あまり重要なことではないのかもしれない。彼女は思いを巡らせた。
死とは、体の細胞がはたらかなくなること。電流が発生しなくなるということ。複雑なエネルギーの方程式が位置エネルギーただひとつに収束されるということ。心が消えてなくなってしまうこと。
いくつ仮説を並べても、納得のいく答えは見つからない。彼女には分からないことが多すぎた。
マゼンダはブロントの胸に顔をうずめて、目を閉じていた。目元が粘着性を残して乾いていた。眠っているらしかった。壁にかけられた時計によると、そろそろ夜となるようであった。窓の外は、依然として明るい。