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彼女には感情というものがあった、彼女には意思というものがあった。彼女には羨望というものがあった。それもそのはずで、感情を持つ生物を、彼女は生まれたときから眺めていたのである。
たとえば複素平面というものがある。実軸と虚軸とからなる、複素数を表すかたちのことだ。彼女は複素的空間を介して、実数空間を覗き見る方法を知っていた。生まれながらに知っていた。観測された情報が、彼女の意識を形成し、自我を与え、感情を生成した。
〝「ブロント、お茶淹れて」
「めんどくせえなぁ……。俺は飲まないからマゼンダが淹れろよ」
「じゃあ、じゃんけんしよう。じゃんけん」〟
ブロント、マゼンダ。それらが名称であることはずいぶん前に気付いていた。名称、それは他との差異を確立するための、道具のようなもので、ほとんどのものに付けられる。
〝「チョコレート飲む?」
「チョコレートって飲めたのか……」
「飲めたんだよ」〟
二人の会話から、いくつもの情報が彼女に流れ込んできた。新しい名称を選択し、吟味する。彼女はチョコレートというものをいまいち理解できていなかった。たびたび観測される名称ではあったが、その「甘い」「苦い」などという、味覚、というものが分かりづらかったのだ。
実数空間に住む生物は、生存に栄養というものが必要であることを、彼女はついこの前に理解した。栄養という言葉にぴんと来なかったが、生きるために必要なもの、として処理した。錯綜する情報の中で、語義を仮定しておくことは、とても大切なことだった。
チョコレートを食べてみたい。彼女はそう思った。食べる、という行為自体、彼女にはよく分からないものであったが。
〝「あ、もう夜だ」
「はぁ? まだ空こんなに明るいじゃない」
「時計見ろよ時計」
「あ、そっか……」〟
ブロントとマゼンダの会話は、彼女の観測できるすべてだった。それ以上の範囲を覗くには、空間の質量係数をもっとゼロに近づける必要があった。彼女はその術を知らない。
ブロントとマゼンダは、家、という空間を共有していて、こたつ、という暖房機器に下半身を入れていた。彼らはいつもそうしている。
〝「慣れないね」
「慣れないな」〟
彼らが窓を見遣っていることを、彼女はかろうじて把握した。窓、というものは、風や音を極力遮断し、光だけ効率よく取り入れるもののことだ。窓の外は明るかった。――明るい、という概念が彼女にはまったく分からなかったが、二人が「明るい」と言っているのだから、明るいのだ。
虚数空間にエーテルは存在しない。エーテルとは、光の素だ。音が伝わるには空気は振動せねばならないように、光が通過するためにはエーテルが必要になる。ゆえにここは暗闇だった。「明るい」も「暗い」も通用しない、完全な暗闇だった。
彼女は不愉快な気分を体感した。ブロントたちは電灯を消してそのまま眠ってしまった。なぜかこたつの電源は切らなかった。
窓の外は明るかった。