未来
川面が春の柔らかな日差しを反射してきらきらと輝いている。
どんな時代になっても自然の美しさは変わらないのだな、と当たり前のことを改めて認識しながら、幹夫は明恵と並んで河川敷を歩いていた。
買い物帰りに明恵が、「今日は暖かいから散歩でもして帰りましょうよ」と言ったからだ。
定年後、天気の良い日はこうして散歩をすることが増えた。
幹夫が仕事をしていた時は、なかなか二人でゆっくり過ごす時間はなかった。
その時間を取り戻すかのように、今はどこに行くにも二人で出掛ける。
年齢を考えると、お互いを一人にしておくことの不安もあった。
「気持ちいいですね」
明恵は太陽を眩しそうに見上げた。
「そうだな」
幹夫はそっけなく言う。
決してそういうつもりで言ったのではないが、癖のようなものであり、明恵もそれを分かってくれている。
「ほら、桜ももう少しで満開になりそう」
明恵は少女のようにはしゃいでいた。
まだ、三月の初旬だと言うのに桜は八分咲きだった。
幹夫の若かった頃には考えられない。
桜と言えば、幹夫が若い頃には四月に咲くものだった。
入学式や入社式などを美しく彩る花だったが、今や卒業式のイメージの方が強い。
もしかしたら、卒業式の時期でも、花が散りかけているかもしれない。
わずか半世紀の間にこれほどまでに変わってしまったのだ。
その過渡期にいるのは、貴重な体験かもしれないが、喜ばしいことではない。
失ったものが多すぎるからだ。
しばらく歩いていると、河川敷に座っている若い男女が見えた。
幹夫たちはその前を通り過ぎる。
その時に、若い男の方が英語で何かを言った。
彼らの年代は英語が話せるのだ。
それを聞いて、女は下品に笑い、さらにそのことに男は大喜びで下品に笑った。
一昔前、日本人の平均寿命は際限なく延び続け、日本人だけで高齢者を養っていくことが出来なくなった。
そのため、発展途上のアジア諸国から大量の労働者を受け入れたが、その代償として選挙権を与えることになった。
もちろん、外国人の出馬までは認めていない。
しかし、帰化した外国人が立候補し、大量の外国人労働者からの支持で、数名の国会議員が誕生した。
それだけならまだ良かったのだが、その国会議員たちが想像よりも大きな影響力を持っていた。
その影響力のために、必要以上の外国人労働者の受け入れをせねばならず、そうなると今度は日本人の若者たちの働く場が無くなった。
企業の半数以上が外国人という場合がほとんどで、そうなれば英語を話せなければ雇ってもらえない。
そのため、国が当時の英語教育では誰も英語を話せなかったことを反省し、全ての科目を英語で行うことを決めた。
つまり学校では英語しか話さない。
その結果として、生まれたのが彼らなのだ。
ただ、この英語教育は長くは続かない。
日本人の平均寿命が縮んだことと、ある政治家のおかげだ。
若くして政治家になった彼は、日本が他の国に乗っ取られようとしていることを憂いていた。
そこで、彼は若い政治家だけを集めた新党を立ち上げた。
当時の政治は諸外国の影響があったせいで混沌としていたため、彼らの存在は一躍注目を集めた。
その新党にテレビタレントとして知名度のあった政治家が多くいたことも幸いした。
政治に興味のない若者世代に目を向けさせることに成功したのだ。
そして彼は若者たちに向かって、「このままでは日本は乗っ取られてしまう。今こそ、君たちの世代が頑張らなくてはいけないのだ」と訴えかけた。
それだけなら、誰からも支持されなかっただろう。
さらに、彼は続けた。
「この諸悪の根源は何だ? 高齢者が増えすぎたせいではないか。高齢者にだけ優しい年寄りの政治家が先頭に立っているようでは、日本は駄目になる。私たちが日本を変えていかなくてはならないのだ」
この、あたかも高齢者は邪魔者だと言う彼の過激な演説に若者たちは熱狂した。
ネット社会の力も大きい。
瞬く間にこの演説はあらゆる場所に配信された。
そして、反発しそうな中高年世代も外国人労働者が増えすぎたストレスや当時の政治家への不満から彼らを支持した。
その結果、彼らは数回の選挙を経て第一党となる。
そこでようやく英語教育の再びの見直しが行われた。
英語を日常に話す彼らはある意味、この時代に生み出された被害者なのである。
ただ、これで外国人の流入が抑えられるようになったが、全てが上手くいくわけではない。
高齢者嫌いはいつまでも残り続けた。
その証拠に、河川敷に座る彼はこう言っていたのだ。
「さっさと死ねばいいのに。生きていたって邪魔なだけなんだから」
幹夫は仕事で英語を使うことがあったため、聞きとることぐらいは出来る。
しかし、幹夫の年代だと、ほとんどの人は英語が全く分からない。
彼は、どうせ何を言っているのか分からないと思ったのだろう。
幹夫にとってはこんなことは日常茶飯事だ。
特に腹を立てることもない。
幹夫自身もそうだったのだから。
自分の生活が決して裕福でないのに、年寄りの面倒を見ている余裕はないと不満だった。
その時の幹夫は、自分がその年寄りになるということを知らなかったのだ。
そして、河川敷に座る彼らもそうだろう。
数十年後には誰かの支えがなければ生きていけなくなることなど知らない。
もっとも、その数十年後まで生きているのかは分からないが。
幹夫にとっては、明恵は英語が分からないので、何を言われようとそれで良かった。
家が近くなってきたので、階段を使い河川敷から抜け出した。
そして、川を横切る橋を渡る。
橋には片側一車線の道路と歩道がある。
車が滑るように幹夫たちの横を通りぬけた。
「これ何だと思います?」
明恵が橋の壁面を指差して訊いた。
壁の一部に綺麗な四角の跡があった。
「何かが貼ってあったんじゃないか?」
「だから、何が貼ってあったんだと思います?」
明恵は幼い子供になぞなぞを出すようだった。
「選挙のポスターか何かだろう」
「聞いた話なんですけど、これって自殺防止のポスターの跡らしいんですよ。ほら、昔って自殺する人多かったじゃないですか。よくここから飛び込んだらしいんですけど、ある時から剥がされたらしいですよ。ちょうど、食べ物問題があったあたりから」
「人口削減政策の一環ってわけか」
馬鹿馬鹿しいと幹夫は鼻で笑った。
「そう言うことらしいですよ」
「どうせくだらない噂話だろう。何でもかんでもそうやって誰かを批判する材料にするのは、間抜けのすることだ」
「私は少し気持ち分かりますけどね。あの子が亡くなったのも、誰のせいでもなかったのかもしれませんけど、それだけじゃ気持ちのやりどころが分かりませんから」
明恵は悲しげに笑った。
その表情は幹夫の心に隠すようにしまってあった部分をきつく締めつけた。
幹夫が若い時には稀な例だったが、今や親より子供が先に死ぬことも珍しくない。
幹夫たちの一人息子の孝介も十年ほど前に死んだ。
幹夫は川を見下ろした。
その水の中には無造作に捨てられた命が漂っているのだろう。
「ここに沈んでいる命を拾い集められたら良かったのにな。そうすれば孝介に与えてやれたのに」
「本当にそうですね。捨てるぐらいなら、生きたいって思う人にあげればいいのに」
家に帰るとすぐに、幹夫と明恵は仏壇に手を合わせた。
仏壇に飾られた写真は孝介が二十八歳の時のものだ。
生きていれば今は四十歳になっている。
家族を持って、年に何度か孫の顔を見せにこの家にも遊びに来てくれただろう。
リビングでは明恵がお茶と先ほど買ったばかりの団子を用意してくれていた。
お礼を言いながら幹夫はテーブルに着く。
しばらくは何も話さずに団子を食べていたが、明恵はただぼうっとして座っているだけであったのに気付いた。
「食べないのか?」
明恵は少しだけ頬を緩ませた。
「いえ、ちょっと孝介のことを思い出していたんですよ」
「孝介のこと?」
「あの子、癌になる前、彼女がいたじゃないですか。ええと、名前は何だったっけな」
「春奈さんだろ」
「そうそう、春奈さん。私たちには言ってなかったけど、あの子たち結婚するつもりだったと思うんですよ。向こうのご両親の許可が得られたら、私たちに報告するつもりだったんでしょうね」
幹夫はふんと鼻を鳴らした。
「そのわりには、孝介が癌だって分かっても一度もお見舞いに来なかったじゃないか」
「いえ、一度だけは来ましたよ。あなた、お仕事だったから知らないでしょうけど。その時に私が断ったんですよ。もう来なくていいって。だってかわいそうでしょ。もう死ぬだけの孝介を見ているのって。その役目は親のあたしたちがするから、あなたは孝介のことを背負っちゃいけないって言ったんですよ」
「それで来なくなったってわけか」
「あの子、今頃どうしているんでしょうね」
「さあ、俺には分からん」
「元気でやってくれているといいですね」
明恵は弱々しく笑った。
幹夫は自分が持っていた団子を見つめた。
そもそもの原因がこれだった。
数十年前、世界は食料危機に直面していた。
増え続ける人口に自然が耐えきれなくなったのだ。
そこで、世界中の学者はこの問題の解決に尽力し、多額の資金がつぎ込まれた。
その結果、ある遺伝子学の研究チームがクローン技術の実用化に成功したのだ。
そのおかげで、ありとあらゆるものの複製が可能となり、さらに数年後には複製だけでなく遺伝子操作により様々なものを生み出せるようになった。
世界はこれで救われると誰もが思った。
しかし、こういうものには必ず落とし穴がある。
後の研究で、この遺伝子技術で生み出されたものには発癌性物質が含まれることが分かったのだ。
この技術はこれで終わり、また別の解決策を考えなければならなくなったはずだった。
しかし、日本を含めた数カ国のみがこの研究を続け、予算を費やした。
元々、衰退の一途にあった日本の農業はこの遺伝子技術のために一気に衰えてしまい、また農業を拡大しようにも無理があったのだ。
当然、この方針に日本中で反対デモが起きた。
若かった幹夫もこのデモに加わった。
デモは各地で広がり、不買運動が起きて遺伝子操作された食べ物が売れなくなった。
これに政府は慌てるのかと思いきや、極めて冷静に対処した。
デモを押さえつける必要はない。
ただ待てば良かったのだ。
人間は物を食べて生きている。
市場のほとんどが遺伝子操作された食べ物に置き換わっている以上、それを買わないということは何も食べないということだ。
そんな不買運動が長く続くわけがない。
一人、また一人と離脱していき、一週間もすれば、デモは自然と終息していった。
最後はリーダーであった男が栄養失調で搬送されてあっけなく終わった。
その男が十年後に書いた著書の中にこんな一文がある。
我々は反対することが目的の集団になってしまった。その時点で我々の敗北は決まっていたのだ。
それを読んだ幹夫は怒りに震えた。
幹夫だけではなく、金儲けのためにくだらない本を書き、本当に日本を救いたいと思ってついてきた人たちを侮辱するかのような内容に当時の関係者から非難の声が上がった。
しかし、皮肉なもので非難すればするだけその本は売れていった。
そして、その後はごく一部の人間を除き、当たり前のように遺伝子操作された食べ物を口にしている。
結果として癌患者は増え続け、日本政府はさらに驚くべき方針を打ち立てた。
それは、癌患者の治療はしてはいけないというものだ。
もちろん、それを明確に打ち出したのではなく、癌を保険対象外にしてしまい、一般人には治療費を払えないようにしたのだ。
これと遺伝子操作技術を合わせて、一部の人間は人口削減政策と呼んでいる。
しかし、これには反対運動が起きなかった。
先の不買運動で国民は自分たちの無力を知り、二度も立ち上がることが出来なかったのだ。
このような歴史の中で、孝介は癌になり、ただ死を待つだけになってしまった。
幹夫は癌の苦痛に顔を歪める孝介を見ながら、自分を恨んだ。
もし、自分が若いころにこの歴史の流れを止めていれば、孝介にこんな思いをさせることはなかったのだ。
「明日、お墓に参り行きませんか?」
明恵はお茶に手を伸ばしながら言った。
「どうしたんだ? 命日でもないのに」
「命日じゃないと行っちゃいけないなんて決まりはないですよ」
幹夫は何も言わずお茶をすすった。
少し冷めていたが、飲むにはちょうどいい温度だった。
「何となく呼ばれている気がするんですよ」
明恵は目を細めて窓の外を見遣った。
「誰に?」
「もちろん孝介ですよ」
「縁起でもない」
明恵は幹夫を見ながら微笑んだ。
「あの世じゃありませんよ。お墓にですよ」
そういうことか、と幹夫はもう一度お茶をすすった。
「今の子供たちのその子供ぐらいになったらこんな気持ちにならないんですかね?」
「さあな。俺には分からん。他人の気持ちなんて絶対に分かりっこない。特に今の若い奴らは何を考えてるのかさっぱり分からん」
「私たちは人って少なくとも七十歳、八十歳までは生きるものだって思ってたでしょ。でも、今の子供ってみんながそう思っているわけじゃない。自分の子供が先に死んでも、特に気にならないんでしょうかね」
「さあ」と幹夫はもう一度首を振った。
「でも、自分の大切な人が死んだら、やっぱり悲しいだろう。例えそれが避けられないものだったとしても」
「やっぱりそうですよね。最近、怖いんですよ。私の両親が死んだ時も悲しかったけど、孝介の時はその比じゃなかった。だから、孝介はやっぱり私たちにとって宝物だったんだなあって少し救われたりもしたんですよ。でも、今の子供たちってそういう感情がないんじゃないかって思ったりしませんか。自分の子供が死んでも、『まあ、仕方ないか』って終わらせてしまう気がして」
幹夫は想像してみた。
もし、自分の子供にすら愛情を向けられなくなったらどうなるだろう。
そんな人間が自分以外の誰かを大切にすることが出来るだろうか。
考えれば考えるだけ、幹夫は怖くなった。
他人のことを思いやれない人間は人間ではない。
それはただの醜い動物だった。
「不思議なものですよね。これだって決して誰かを不幸にしようと作られたわけじゃないのに、今はそうなってる」
明恵は団子を持ちながら言った。
今はほとんどの食べ物がニュートラル細胞と呼ばれるものを遺伝子操作して作られている。
この名前はありとあらゆるものに化けられる細胞ということで名付けられ、そして、この技術は世界の食料危機を救うために必死で努力した結晶だった。
しかし、それが今や人間から思いやりの心を奪おうとしている。
「まあ、でもこれが無かったら、俺たちはとっくに死んでたんだろう。人間として生きていくことを捨てて、ただ動物として生きていくことを選んだんだ。それが幸せなのかは分からない。いや、少なくとも幸せではないだろうな」
「そうですか? 私はあなたとこうやってお団子を食べられているだけでも十分幸せだと思いますよ」
そう言って明恵は団子を一つ食べた。
「それに、孝介にも会えましたしね。生きてなきゃ、味わえないことですよ」
「お前はさっき、これがみんなを不幸にしてるって言ったばかりだろう」
「みんなとは言ってませんよ。確かに私は辛い思いをしました。でも、その中でも幸せなこともありました。そうやって不幸なことを探すよりも、大切なものを探した方が幸せな人生だと思いませんか。自分の人生にはいいことなんてないんだって思うよりも」
「確かにそうだな」
幹夫は頷く。
「幸せなことを幸せだと感じられているだけ、俺たちは幸せなんだろうな」
「だから、今の子供たちが辛いことを辛いと感じれなかったら、幸せなことも見つけられない気がするんですよね。何だかかわいそうな気がします」
「まだ俺たちはこの食べ物に冒されていないってことか」
幹夫はそう言うと、止められなかった歴史の流れに少しだけ抗ったような気分になった。
翌日、幹夫と明恵は孝介の墓に向かっていた。
孝介の墓は少し山を登ったところにある。
どうせなら景色の良いところの方がいいだろうと決めたのだが、歳を取ると坂道が堪える。
お供え用の花を抱えながら、幹夫は一歩ずつ踏みしめるように登った。
「昨日の河原も綺麗でしたけど、ここも桜が咲きそうですね」
明恵は遠足のように楽しげに歩いていた。
「しんどくないのか?」
幹夫は思わず訊いた。
「しんどいですよ。でも、ほら昨日も言ったじゃないですか。辛いことばかり見ないで、桜が綺麗だとか、風が気持ちいいとか、そういうことを考えるんですよ。そうすると、案外辛くなくなるんですよ」
春の柔らかい風が幹夫の頬を撫でた。
そして、顔を上げるとそこには今にも咲きそうな桜の木が並んでいる。
つぼみから咲こうとしている桜は、卵から孵化しようとしている小鳥のようであった。
小鳥が自分の足で立ち、羽ばたくために懸命に殻から抜け出そうとしている姿と重なる。
幹夫はそれを眺めながら心地よい風を感じると、心なしか、足取りが軽くなった気がした。
少なくとも、前を向いて歩けている。
「孝介もこの景色を見ているのかな」
「そうだと思いますよ。あの子、写真が好きだったじゃないですか。休みになると色んなところに撮りに行って。今頃、どこから撮ればこの景色を一番表わせられるのか、考えていると思いますよ」
そして、二人はしばらく周りの景色や季節の変化を感じながら歩き、孝介の墓までたどり着いた。
「あれ?」と明恵が墓の前で首を傾げた。
「これ誰でしょうね?」
孝介の墓には真新しい花が供えられていた。
ちょうど今、供えられたばかりというぐらいに生き生きとしていた。
「誰だろう?」
幹夫も思い当たらない。
もう死んで十年も経つのに、未だに墓参りをしてくれる人などいるのだろうか。
「とにかくどなたか分かりませんが、せっかく持って来てもらったんだから、このままにしておきましょうか」
「そうだな」
幹夫は持ってきた花を花立てではなく、墓石の前に横たえるように置いた。
「さて、お水を汲みに行きましょう」
幹夫たちが近くの水道でバケツに水を汲んで戻ってくると、孝介の墓の前には女が一人と子供が一人いた。
「あの」
明恵が初めに声をかけた。
女は驚いたように体をびくっとさせ、恐る恐る振り返った。
その顔に、幹夫と明恵は女以上に驚いた。
女はかつて孝介と交際していた春奈だった。
「春奈さん?」
明恵が春奈に問いかける。
「ご無沙汰しております」
春奈は丁寧に頭を下げた。
「このお花、あなただったのね。今でも気にかけてくれてるなんて、孝介も喜んでいると思うわ」
明恵は心底嬉しそうに、春奈に抱きつくのではないかと思うほどに喜んでいる。
しかし、春奈には再会の喜びが感じられなかった。
そして、「白々しい」と春奈は吐き捨てるように言った。
「え?」
幹夫と明恵は同時に声を出した。
「孝介、あっちで遊んでなさい。ママはこの人たちと少しお話があるから」
春奈はそう子供に告げた。
孝介と呼ばれたその子供は怪訝そうな顔をしながらも、その場を離れた。
「あの子、孝介って言うの?」
明恵は先ほどとは違い、少し距離を置いた話し方になっていた。
「どう思います? みじめだと思いますよね。でもね、それもこれも誰のせいだと思ってるのよ!」
突然の大声に驚いた明恵は言葉を失っている。
幹夫も事態が呑み込めずにいた。
「あなたはいいわよね。孝介と最後までいられたんだから。でもあたしはどうなのよ。愛した人の最後も看取れないで、親のエゴで引き裂かれたあたしはどうすればいいのよ!」
「そんな言い方はないだろう。明恵だって、あなたのことを思ってあなたと孝介を会わせないようにしたんだ」
幹夫は思わず割って入った。
「何が、あたしのことを思って、よ。この人はね、自分の息子の最後を一人占めしたかっただけよ。どこの誰かも知らない女に孝介の人生を汚されたくないって思っただけよ」
「少し落ち着きなさい」
幹夫は春奈を宥めた。
「あなたも孝介のお見舞いに行ったのは一回だけなんだろう。そこまで孝介を愛していたとは思えないがね」
「確かに孝介に会わせてもらえたのは一回だけよ。でもその後も何回も行ったわ。行っても病室の前でこの人に止められて会わせてはもらえなかったけどね」
春奈は明恵を攻撃するように指差した。
「昨日は一回しか来なかったって言ってなかったか?」
幹夫は明恵に訊いた。
しかし、明恵は黙っているだけで答えようとはしなかった。
「旦那さんにまで嘘吐いて」
春奈は軽蔑した感情を目一杯表現するような口調だった。
「何でそんな嘘を……」
「決まってるじゃない。あたしを悪者にするためよ。あたしを、恋人が癌になったらすぐ切り捨てる女にしたかったのよ。どうせ、孝介にもそう言ってたんでしょ」
「違う。そうじゃない」
明恵は涙声になりながら反論しようとした。
「だったら何で?」
春奈は涙を流し始めた。
「あなたは孝介に持っていた愛情を全て渡すことが出来たでしょうけど、あたしの孝介への愛はまだあたしの中に残ってるの。だから、子供にも孝介なんて名前を付けてしまった。それが分かって、あの子の父親は出ていってしまった」
明恵は涙が流れそうなのを懸命に堪えていた。
おそらく、ここで泣くことは許されないと悟っているのだろう。
「あたしはこれからもあの子と生きていくわ。だってあの子だけが、あたしの孝介への愛を受け止めてくれる唯一の存在だもの。そしてあたしが守っていかなきゃいけない大切な存在だもの。あたしは、あなたたちみたいに親のエゴで誰かを不幸にしたりするような親には、……絶対なりません」
春奈はそう言い残し立ち去った。
明恵はその春奈の後ろ姿に、頭を下げ、聞きとれないほどの小さな声で、「ごめんなさい」と言った。
しばらく幹夫は遠のいていく春奈とその子供、孝介の後ろ姿を見つめていた。
明恵はまだ頭を上げることが出来ない。
「驚きました?」
もう春奈たちの姿が見えなくなってから、ようやく明恵は頭を上げた。
「まあ、それは」と幹夫は曖昧に返事をした。
「ごめんなさい」
「もう終わったことだ」
「信じられないかもしれないけど、私はあなたに嘘をついたつもりはなかったんです。昨日の時点では私の中であれが真実でした。彼女は一度しか姿を見せなかった。私の申し出を素直に受けてくれたって。でもあれは私の都合のいいように記憶を塗り替えていたんですね。春奈さんに言われて全て思い出しました。事実を。あの時、私がしたことを」
「もう終わったことだ」
幹夫はもう一度繰り返した。
「私、彼女のことが嫌いだったってわけではありません。むしろ好きでした。気さくで、心配りも出来て、笑顔も可愛らしくて。それでも彼女を拒絶してしまいました。あの時は本当に彼女のためだと思っていました。でも、本当は私のためだったんですね。彼女の言うとおり、親のエゴですね」
明恵は自嘲の笑みを浮かべている。
幹夫はここで反論すべきだったが、言葉が出てこなかった。
春奈の言っていることを受け入れてしまっていたのだ。
「ごめんね」
明恵は孝介の墓を撫でながら言った。
「あなたも春奈さんに会いたかったわよね」
「今さらどうすることも出来ない。お前がどんなに後悔したって孝介だって、春奈さんだって誰も救われないんだ」
この言葉は幹夫自身に言っている。
幹夫が止めることの出来なかった流れが全ての人を呑み込んで不幸にしようとしている。
その後悔にいつも苛まれ、苦しんでいるのだ。
「実は私も癌なの」
幹夫は自分の耳を疑った。
孝介に語りかけるように発せられたその言葉は、あまりにも衝撃的だった。
「この前、体調が悪いって病院に行ったじゃないですか。あの時に言われたの」
「え? いやだって、風邪だって言ってたじゃないか」
「また、嘘を吐いちゃいましたね。ごめんなさい」
その嘘と言うのは癌だということであってくれと願ったが、どうもそうではないらしい。
明恵は間違いなく癌に冒されている。
また一つ、大切なものが幹夫の人生から奪われていくのを感じた。
帰りは下り坂だったので、行きよりは遥かに楽なはずだった。
しかし、行きよりも足取りが重い。
明恵が癌だと知らされたからだ。
一歩踏み出すたびに明恵の命が削られていくような感覚があった。
もし、この場にとどまれば明恵が死ぬことはないのではないかと訳の分からない妄想にとりつかれそうにもなった。
「私ね、癌だって言われてもそんなにショックを受けなかったですよ。だって仕方ないことですもんね」
明恵はそう言うが、それが嘘だということは幹夫にも分かっていた。
自分がもうすぐ死ぬことを知らされてショックを受けない人間などいない。
「無理はするな。辛かったら辛いと言えばいいんだ。それだけで少しは楽になるだろ」
「本当に無理はしていませんよ。ただね、あなたに申し訳ないなとは思いますね」
「俺に?」
「自分が死ぬことよりも、残されることの方が遥かに辛いですよ。孝介が死んだ時にそう思いました。今まであなたに支えられてきたから、せめてあなたよりは長生きしようと思ったんですけどね。そんなことも出来ない、出来の悪い妻でごめんなさい」
「そんなことはない。俺だってお前に支えられっぱなしだ。お前は俺の大切な妻だ」
「ありがとうございます」
人は死ぬ。
そんな当たり前のことに直面しながら、これほどまでに苦しむのはなぜだろうか。
今の子供たちは、こんなことを考えないのか。
そう思うと、幹夫は少しだけ彼らが羨ましかった。
「もう少し、桜を見ていかないか」
幹夫は明恵の手を掴んで言った。
「あら、珍しいですね。あなた、いつもせかせか生きていたから、ゆっくり桜を見ることなんてなかったですよね」
「そういう歳なんだ」
幹夫と明恵は腰掛けるのに手頃な岩を見つけ、そこに座った。
暖かな日差しが心地いい。
「お弁当でも持ってこれば良かったですね」
「それはまた今度の楽しみだな」
「何がいいですか?」
「お前が作るものだったら何でもいい」
まだ満開とはいかないが、完全に花開いているものもある。
春の柔らかい風に花びらが流されて行った。
命の儚さを象徴しているようでもあり、命の美しさを表現しているようでもある。
「孝介ならどんな写真を撮るんだろうな」
幹夫がぼそりと言った。
「どうしたんです?」
明恵は戸惑っているような笑顔を見せた。
「これから咲こうとしているつぼみを撮るのか、満開の桜を撮るのか、それとも散っていく花びらを撮るのか」
「孝介なら、多分つぼみを撮ると思います。あの子、想像力が豊かな子でしたから。完成されたものを見るよりも、これからどういう風になるんだろうって、そういうものの方が好きだったと思いますよ」
明恵は確信したように言う。
母親ならではの感性だろう。
「あいつは、まだまだつぼみで、これから咲こうとしていたのに、誰かにむしり取られてしまった。お前もまだまだなのに」
「私はもう満開ですよ。あとは散るだけ。それをあなたに見届けてもらうなら、最高の人生だったって思える気がするんです」
そして、年が明けてすぐ明恵は亡くなった。
明恵は自宅で眠るように亡くなった。
ごく一部の人間以外は癌治療を受けられないため、その分鎮痛剤は良いものが出回るようになった。
孝介の時は、激痛に苦しみながら死んでいったが、明恵はその鎮痛剤のおかげでほとんど苦しむことなく逝くことが出来た。
もう春奈と出会った孝介のお墓参りから一年が経っていた。
幹夫は一人で孝介と明恵が眠る墓に出向いた。
そこには、一年前と同じく真新しい花が供えられていた。
未だに春奈は気にかけてくれているのだろう。
それも明恵もそこにいるということを知ってのことだ。
幹夫は明恵が死んでから、無気力に、ただ意味もなく生きてきた。
人生に何の意味も見出すこともなく、誰との関わりもない。
果たして、そんな人生がこの世界にある意味があるのだろうか。
墓参りを済ませるとあてもなく河原を歩いた。
明恵が生きていたころは買い物帰りによく散歩をした場所だ。
ここを歩けば隣に明恵がいてくれるような感覚になった。
ぼうっと一人で歩いていると、若者が英語で話す声が聞こえた。
どうやら幹夫に言っているらしい。
「年寄りが一人で何してるんだよ。邪魔だからさっさと死んじまえよ」
相変わらずだな、と幹夫は特に腹を立てることはない。
桜はこんなに美しく咲くのに、人間はますます醜くなるのか、と呆れるだけだ。
明恵と約束したお花見は叶わなかった。
幹夫は来年にしようと言ったからだ。
来年まで明恵は生きていると信じたかったのだ。
幹夫は橋の上に行き、川を見下ろした。
よどみなく流れる川や美しく咲く桜、そして河原に座り込む若者を見ていた。
自然は本当に美しい。
そして人間はどこまでも醜い。
川面でぽちゃんという音が鳴った。
魚が飛んだのだろう。
いや、魚じゃない。ここでかつて命を投げ捨てた誰かが飛んだのだ。
この先の世界はどうなるのだろう。
醜い人間の支配する世界は決していいものではない。
そして、その流れを止める手立てもない。
もう疲れたな、と幹夫は思った。
明恵は孝介と会えたのだろうか。
全てを告白して許してくれただろうか。
大丈夫だろう。孝介は母親思いの優しい子だ。
明恵が謝れば、明恵の気持ちも分かってくれる。
幹夫はもう一度川を覗いた。
そして、そのまま飛び込んだ。
この川に続く世界が素晴らしいものであることを信じて。