ep6. 闇子の『や』は『ヤバすぎる』の『や』!?
開かずの間の調査をすることになった生徒会一同。その中で特に思わせぶりな態度を取っているのが、会計である不思議少女、黒泉闇子。そして生徒会の面々が次々と事件に巻き込まれていき……。
深夜九時を回る頃、本来ならば誰もいるはずのない旧校舎に一人の女子生徒が忍び込んだ。
木造の旧校舎には照明の類など一切なく、懐中電灯だけが唯一のともし火だった。床板の軋む音が鳴るたびにゴクリと唾を飲み込んでいく。額からは小粒の冷や汗が何滴も流れ、歯を食いしばらせていた。しかし表情は恐れているというよりも寧ろこの状況を楽しんでいるかのようにニッコリと笑みを保っていた。
「誰かいませんかぁ?」
すっとぼけた声で辺りを確認して回る。もちろん返事はない。
「ちぇ、面白くないの。夜の旧校舎っていうぐらいだからトイレの花子さんなり歩く人体模型なり出てきてもよさそうなのに。でも本番はこれからだよねぇ。果たしてあの噂は本当なのかな?」
女子生徒は期待に胸を膨らませながら二階への階段を昇っていった。目的は渡り廊下中央付近にある小さな部屋、通称「開かずの間」だった。
彼女が噂を耳にしたのは今日の昼休みだった。
「ねぇねぇ、知ってる? 開かずの間の噂」
「ああ、あれでしょ? 今月に入ってあそこに入っていった生徒が次々に消えているって奴。確か中等部の旧校舎だっけ?」
「なんかね、あそこ昔ヤバイ生徒が部活に使っていたらしいよ。それで、その生徒が問題を起こして、とうとう……」
「とうとう……どうしたの?」
「ごめーん、その先は知らないんだ」
「ダメじゃん!!」
友人同士で「キャハハ」と笑い飛ばした。その女子生徒もその場は一緒になって笑い飛ばした。
他の皆は半信半疑にその噂話を聞き流していたが、その女子生徒は真実を確かめたいという好奇心を止めることが出来ず、夜中の旧校舎へと入っていった。
「確か開かずの間に足を踏み入れた生徒は二度と戻ってこられないんだよねぇ。ま、どうせ単なる噂だろうけど、この目で確かめて見なくっちゃ」
懐中電灯の明かりだけを頼りに、恐る恐るその部屋に近付いていく。一歩踏み出すたびに心拍数が上がっているのを感じ取るが、彼女はそれを武者震いだと自身に言い聞かせた。
そうして歩いていると、例の部屋にたどり着いた。扉は引き戸になっており、その大きさ自体も小さく、言われなければ物置ぐらいにしか思えない。懐中電灯を上のほうに向けると、文字がかすれているが「オカルト研究会」と書いてあるのが読める。
「誰か、いませんかぁ?」
もう一度、今度は先ほどより真面目な声で確認する。もちろん声など返ってこない。
女子生徒はゆっくりと引き戸を開けた。
部屋の外から内部へ懐中電灯を照らす。中は思ったよりもずっと狭く、至る所に蜘蛛の巣が張っている。ダンボールや木の箱が無作為に並べられており、奥に小さな机と椅子があることが分かる。この部屋が実際に部室として使われていた以後は物置になっていたのだろう。
「ほらぁ、なんにもないじゃん」
ほっと一息入れて、女子生徒は敷居をまたいだ。
「やっぱりただの噂だよね。第一、開かずの間だなんていつの時代の七不思議よ? あーあ、つまんない……」
コトン――
女子生徒の足元に何かが当たった。何だろう、と思いそれを拾い上げて光に照らした。
「あれ、これって人形? それにしても……」
彼女が拾ったのはフェルト布を刺繍した小さな人形だった。女の子を模したものではあるが、彼女はそれに少し違和感を覚えた。
「この人形が着ている服……うちの学校の制服だよね?」
怪訝な顔をしながらも、彼女はそっとその人形を元の場所に置いた。
その瞬間、女子生徒はふっと、目の前が暗くなっていたことに気がついた。
最初は懐中電灯の光が弱くなっていたのだと思った。しかし電池は来る前に換えてきたばかりで、しかも部屋に入る前はきちんと点いていた。次に、少し眩暈がしたのかと考えたが、それも違う気がした。
「何、何よこれ!?」
周りが次第に暗くなっていったというより、周りが「闇」へと溶かされていく感覚に陥った。視界に映る景色がまるで墨汁に塗りつぶされるかのように黒に染まっていった。女子生徒は慄いて手に持った懐中電灯をその場に落とすが、その光さえも闇は真っ黒に飲み込んでいった。
「いや、いやあ!」
やがて彼女の視界から光という光は一切消え、景色は黒一色に染まる。彼女はふと自分の手を見た。他の物は闇に飲み込まれているにも関わらず、自分の身体だけはくっきりと認識できることに気がついた。
「ど、どうなっているの!?」
「ふふふ……」
どこからか少女の声が聞こえてきた。女子生徒より幼いか同い年ぐらいの声だった。
「誰!?」
女子生徒は叫ぶが声すらも闇へと飲み込まれた。魔法を詠唱しようとするが、何故だか声がかき消されてしまう。最早女子生徒は声を出すことすら叶わなくなっていた。
女子生徒はもう一度自分の身体を見た。まだ見えていると安心したのも束の間、少しずつ彼女の指先が黒く塗りつぶされていった。
「いやあぁぁぁ!」
精一杯悲鳴を挙げたつもりでも声は消されてしまう。そうこうしているうちに指先だけでなく腕、足、そして胴体さえも少しずつ闇へと埋もれてしまう。
「ふふふふふ……」
再び彼女の耳に謎の少女の声が聞こえてくる。姿かたちを認識することも出来ず、この意味不明な状況を尋ねることすら出来ない。
「あなたも、お仲間に入れるですの」
それが彼女の耳に届いた最後の台詞だった。先ほどまで首筋だった闇がいつの間にか全身を覆い、それに伴って彼女の意識が少しずつ薄れていった。
闇が晴れると、部屋の中は元通り雑然とした物置に戻っていった。
しかし先ほどまでと違うのは、そこにいた女子生徒はいないこと、彼女が手に持っていた懐中電灯が明かりを点けたままその場に転がっていること、そしてさっきあったものともう一体、別の人形が落ちていることだった。
その人形は女子生徒が着ていた制服と同じものを纏い、顔つきから髪型に至るまで彼女と酷似していた。
しばらくして、その人形を一人の少女が拾い上げた。小柄でゴシックロリータ風の服を身に付けたその少女は、人形を手に取ると口元を歪めて笑い出した。
「ふふふ……また新しく、『コレクション』が増えましたの」
彼女は大事そうにその人形を抱きかかえると、呪文を唱えて闇へと溶け込んでいった。
「いいか? いち、にの、さんで開けるぞ」
「きょ、恭治さん、本当に開けるの?」
「大丈夫、椿ちゃんは下がっていて。何かあったらこの俺が守ってあげるから」
「はいはい、人の妹にちょっかいかけるな」
「お、お兄ちゃん……」
「心配しなくていいよ。どうせこんなの根も葉もない噂だよ」
「そ、そうだよね……」
「よし、いくぞ!」
恭治たちは引き戸の取っ手に手を掛けた。
「いいぃち」
「にいいぃの」
「さああぁあん!」
恭治の叫び声と共に戸が勢いよく開けられ、数秒間沈黙が流れた。
「……なんていうか」
「開いちゃった、ね――」
目の前には埃を被ったダンボール箱やら小さな机やらが雑然と並べられた部屋が広がっている。が、それほど違和感があるわけでもなく、ほとんどただの物置という感じだった。
中等部で噂になっている開かずの間の真偽を確かめるために、蘭と恭治は椿にせがまれて朝早くから旧校舎に忍び込んだ。が、結果は何も得ず。
「ほら、だからただの噂だって言っただろ。椿も心配しすぎだよ」
「だぁってぇ……」
「おっと、蘭。椿ちゃんを責めるのはそこまでだぜ」恭治が髪をかきあげて格好つけながら言った。
「別に責めていない。こんな噂に振り回されるなと言いたいだけだよ」
蘭はもう一度部屋の内部を見渡した。しかし何度見渡してもそれ以上の変化は感じ取れない。ふぅ、とため息をつくと蘭はそこから立ち去ろうとした。
「ホントに、何もいなかったの?」椿は怯えたように震えながら蘭を見つめた。
「疑り深いな。何回見てもいないって」
「……のや」少女の声が聞こえた。
「俺的には、可愛い女の子の幽霊とか出てきて欲しかったんだけどな」
「バカらしい。何回もいうようだけど、幽霊とか心霊とかはこの世にありえないの」
「……のみ」再び少女の声が聞こえた。
「ほら、恭治は覚えているだろ? 前に沙代子ちゃんが魔力思念影で出てきたこと」
「あ、ああ……」恭治は悲しそうな顔をして俯いた。
「あ、そっか。ごめん、この話はやめておこう。まぁ僕が言いたいのは世の中で言われている心霊とかは大抵魔力とかが関係してるというわけで……」
「……のこ」更に、少女の声が聞こえた。
その場にいたものが一瞬にして凍りついたように互いの顔を見る。
「あのさ、蘭……」最初に口を開いたのは恭治だった。「さっきから――」
「みなまでいうな。多分僕も同じことを考えている」
「う、嘘だよね……」椿の震えが顔から全身に広がっていった。「なんか、女の人の声が聞こえるんだけど……」
「椿ちゃん、はっきり言わないで!」恭治は涙目で訴えた。
その時、蘭はふと背後から人の気配を感じた。恭治と椿がせわしなく震えているのをよそに、蘭は背後を振り返った。
「えーっと、どちらさまで……」
数秒後、蘭の目玉が真っ白になると同時に、彼の視界に一人の少女が飛び込んできた。
「こ、こんにち……は」
蘭は一旦平常心を保つと、そのまま驚いて冷や汗を流し続けた。
目の前にいる少女は彼を見つめたかと思うと、そこでニヤっと口元を三日月の形にして微笑んだ。
「闇子の『こ』は、『こんにちは』の『こ』――」
彼女の挨拶を聞くまでもなく、蘭はその場に倒れこもうとしたが、寸前で冷静さを取り戻して立ち上がった。
よく見ると彼女に見覚えがあった。長い前髪に瞳を隠して、ゴシックロリータ風の改造制服を違和感もなく着こなしている少女。更には彼女独特の挨拶が蘭の中でロジックを組み立てた。
「あ、そういえば、黒泉闇子さん……ですよね? 生徒会会計の……」
「ふふっ……」闇子は特に返事をするわけでもなく、その場で微笑んでいる。
「そういえば、つばきも見覚えがある! 確か、この間の下着盗難の時に……」
「やぁ、黒泉さん、ご機嫌麗しゅう。これはうちの桐生がとんだ失敬を」恭治がいきなり口調と態度を変えて闇子に話しかけてきた。
「いいんですよ……ただ、次からは気をつけてくださいね。でないとどうなっても……しりませんよ」
蘭の背筋に悪寒が走った。「はい、きおつけます……」
「ふふ……ところで、みなさんはどうしてこちらに?」
「えっと、その……」椿が恥ずかしそうに口をもたつかせた。「開かずの間の、噂を確かめに……」
「そうそう、蘭の奴がさぁ、噂を本気にして『怖いわーん』なんていうもんだから」
「嘘つくなよ!」
「闇子の『や』は『やっぱり……』」闇子が呟くと、部屋に入った。そして近くにあった机の埃を手で払い、最後にふっと息を吹きかけた。
その下から、何やら大きな紋様のようなものが見えた。円の中に反対向きの正三角形を二つ重ねた星のようなものが描かれている。蘭はなんとなくその形を見たことがあるような気がした。
「黒泉さん、それは……?」椿が尋ねた。
「魔法陣……」
「なんでこんなところにそんなものが……」恭治はすぐさま、何かを思い出したような顔をした。「そういえばここ、まだ俺が中等部にいた頃になんかの部活が部室にしていたって聞いたことがある!」
「なんかの、部活……?」
「オカルト研究会です」闇子が答えた。「そして、闇子はそこの部員……でした」
「おかると……そうだ、思い出した! でもまさか黒泉さんが部員だったなんて……」
「なんだ、女の子の情報だけは人一倍持っている恭治でも知らなかったの?」
「それは褒め言葉だと解釈しておくぜ」恭治は皮肉っぽく言った。「オカルト研究会は確か、出来て一年くらいで廃部になったって聞いたけど……」
「そう……」闇子がまた蘭たちに近付いていった。「オカルト研究会は、闇子ともう一人――たった二人だけの部活でした。けど、そのもう一人の生徒はある日問題を起こしてしまったのです。それが原因で彼女は退学、そして一人だけとなってしまったオカルト研究会は廃部――」
「問題……?」それは一体、と蘭たちが尋ねようとしたところで始業の鐘が鳴り響いた。蘭は少しだけ安堵した。内心これ以上の出来事を尋ねるのが怖かったからだ。
「始業です……この話はこれまでです」
「あ、ああ……」
立ち去っていく闇子に付いていくように、蘭たちも教室へと戻っていった。
(やはりあの部屋は――)
口をへの字に曲げながら闇子は考えていた。
放課後、蘭はいつもどおり生徒会室へと足を運んだ。
「失礼します」
「やだあぁぁぁ!」
「ですから白雪会長、ちゃんと仕事はこなしていただかないと……」
「だって、だって――」
戸を開けた瞬間、蘭の目に飛び込んできたものは言い争う白雪と生徒会副会長、天道雫の姿だった。言い争うというよりは駄々をこねる白雪に対して厳しく折檻する副会長といったほうが良いのかも知れない。
「あの、一体なにが?」蘭は近くにいた森原小鈴に尋ねた。
「見ての通りだよ。白雪会長がどうしても仕事をしたくないってわがままを言うから副会長がたしなめているところ」
「騒がしい。桐生、お前からも何とか言ってやれ」桜はそういいながら椅子に座り茶をすすっていた。
「仕事をしたくないなんて、白雪さんにしては珍しいですよね」
「事情が事情だからね」
小鈴は机の上にあった書類を蘭に手渡した。「行方不明の女子生徒に関する報告」という題名がすぐ彼の目に飛び込んだ。
「そういえば今月に入ってから五人の生徒が行方不明になっているって聞きましたね」
「そう。それで、もっと資料をよく見て」
蘭が字を目で追いながら資料を捲っていくと、二ページ目に差し掛かったあたりで引っかかる一文を見つけた。
『彼女の友人によると、最後に話した際に少女は深夜に寮を抜け出して開かずの間の真偽を確かめに行くと言っていた模様』
蘭は声が出なかった。まさか今日一日でこの単語を二度も聞くことになろうとは。
しかも最初の生徒だけではなく、二人目と五人目の生徒も同様の証言が書かれていた。
「ね、分かった? この事件、最近噂になっている開かずの間が絡んでいる可能性が高いってこと」
「私も前からあの部屋には嫌な予感がしていた」
「ま、まさか――」蘭は首を横に振った。「ううん、そんなハズはない。実は今朝その開かずの間とやらに入ったんですが、中はただの狭い部屋でした」
「それは朝の話でしょ? あたしたちも昼間確認したけど特に変わった様子はなかったし。けど万が一、夜に何かあったとしたら――」
「ああ、それで白雪さんはあの状態に……」
「昼間も一苦労だったんだよ。『やめて、まだ死にたくない、怖い』とか半泣きでさ。結局何もなかったからよかったものの、夜にどうなっているかを確かめに行くなんて言ったらあんなになっちゃって」会話の節々から小鈴の半端ではない疲れが覗えた。
白雪がホラー嫌いなことは映画を見たときに知った。居眠りしながらもきちんと仕事をこなす彼女ではあるけれども、今回の仕事は彼女にとってのある種死活問題だろう。
「あの、いいですか?」蘭が白雪と雫の間に入った。「生徒会長とはいえ、無理に嫌がっている仕事をさせることはないんじゃないですか? 幽霊とか、そんなの正直ありえないと思いますけど、これじゃあ白雪さんがかわいそうすぎます。やるのなら僕らだけでやりましょう」
「あのねぇ、桐生君」雫は額を押さえながらため息をつく。「君の気持ちも分かるけど、会長の責任も考えなさい。もちろん私も個人的に開かずの間については半信半疑よ。でも、万が一という可能性もありえるでしょ。このまま事態を放ったらかしにして被害が拡大したり、会長抜きで事件を追った結果私たちが行方不明になったりしたら会長の責任問題になるのよ。『生徒会長は何をしていたんだ。事態が悪化したのは生徒会長の怠慢だ』なんて言われてね」
「そんなまさか……」
「ありえない、とは言い切れないわ」
生徒会長という立場上、元から少なからず白雪に対して反感を抱いている生徒がいることはなんとなく蘭も察していた。もちろんそのことに関して蘭も割り切っていたし、言いたいやつには言わせておけ、という感覚だったが、こうして現実を突きつけられると居た堪れないほど愕然とした気分になる。
「ごめんね、蘭くん」落ち着きを取り戻したのか、白雪は涙目で蘭のそばに寄ってくる。
「白雪さん――」
「それじゃあ生徒会長……」
白雪はしばらく考え込んだ。「――やっぱり無理」
「そうですか、やっぱり無理……ってえええええぇぇぇぇぇ!?」
「だって怖いものは怖いんだもん! 白雪の『し』は『仕方がない』の『し』だよお!」
「はぁ、全く……」雫は額を押さえた。
「白雪さん、何で闇子さんみたいなことを……」
「そうよね、もっと仕事熱心な会長だったら私も苦労しないわよね。はぁ……そういえば黒泉さんはまだ来ていないの?」雫がいうと皆は一斉に部屋の中を見回した。「最近来ないのよねぇ、あの子」
「……のや」
「黒泉さんなら今朝見かけましたよ。ほら、例の開かずの間に行ったときに」
「……のみ」
「ああ、そう。ならもし彼女に会うことがあったなら……」雫はそこで言葉に詰まった。もちろん続きが出てこなかったからではない。言いたくても言えなかったのだ。
「気のせいかしら――」
雫は恐る恐る後ろを振り向いた。
「闇子の『こ』は、『こんにちは』の『こ』……」
背後から見覚えのあるはずの少女が現れた。
雫は一瞬彼女が誰か分からなくなり唖然とする。「く、黒泉さん……よね」
「ふふっ……闇子のこと、忘れたんですか?」
「い、いえ――最近見かけなかったから」
「闇子の『み』は『皆さんにご迷惑をおかけしました』の『み』……実はしばらく個人的な事情で……」
「個人的な事情?」
「ふふっ……」それっきり闇子は黙り込んだ。
しばしの沈黙の後、闇子は机の上に置いてあった資料を手に取った。
「これは……」闇子は真剣そうに資料のページを捲る。「そうですか……もしかしてこの調査をするんですか……?」
「う、うん……今夜ちょっとね。まぁ生徒会長があの調子だからどうなるか分からないけど」雫は白雪のほうを指差した。
「行きましょう」
「え?」
「調査は必要だと……思います。この事件にあの部屋が関わっていることは間違いありません……だから、今夜行きましょう。生徒会長も、今日だけはお願いします」
「えっ、う、うん――」白雪は空返事をした。
闇子の一声は生徒会のメンバーにとって予想外のものだった。普段何を問いかけても微妙な反応しかしない彼女が、これほどまでに明確な意思表示をすることは珍しい。
「そっか……あそこは黒泉さんにとって思い入れのある場所、なんですよね」
蘭がそういうと、闇子は途端に無言になり、そのまま出入り口の扉へと向かった。そして「それでは今夜九時に」と一言だけ呟いて部屋を出て行った。
「しまった……」
「桐生君、今のは軽率だったわ。彼女にだって思い出したくない過去があるものよ」
「そうですよね……」
「ねぇねぇ、やっぱり行くの?」白雪は不服そうにうな垂れているが、しばらくすると観念した様子で姿勢を立て直した。
「あ、いいこと考えた。桐生君!」空気を読まずに小鈴が蘭に近寄ってきた。「ちょっと耳貸して」
小鈴が蘭に耳打ちをすると、蘭の顔が次第に汗ばんでくる。「えっ……」
「と、いうわけ。いいアイディアでしょ?」
「そ、それはさすがに……」嫌です、と続けようとしたが何故か言葉を発することが出来なかった。
「何のアイディアよ?」
「えっとね……」小鈴は先ほどの内容を皆に打ち明けた。
闇子はふと時計を見た。時間は既に五時を過ぎている。
彼女はここ数日引っかかっていることがあった。例のあかずの間に、微かだが覚えのある魔力を感じ取れた。最初にそれに気がついたのは、噂が流れ始めたときに真相を確かめようと訪れたときだった。失踪事件が起こり始めたのはそれから間もなくだった。
「……そこにいますよね」
闇子は人気のない廊下に立ち尽くしながら、何かに問いかけた。窓から目を背けてはいたが、明らかにその声は窓の外に発せられたものだ。
「長いこと迷っていましたが、決心がつきました……今夜、貴方に会いにいきます」
窓の外の木が風に揺れた。何かを暗示するかのように枯れ葉が数枚落ちる。
独り言ならそれでいい。しかし、この言葉は確実に『彼女』の耳に届いている――
「ただし、他の人たちには手を出さないで……もし会長や桐生さんたちに手を出そうものなら……闇子の『こ』は『殺します』の『こ』――」
ようやく、闇子は窓の外をにらみつけた。日が傾いており、外には誰もいない。しかしそんなことを歯牙にも掛ける様子もなく、闇子はそのまま立ち去った。「また、後で会いましょう……ジュジュ」
外の木が揺れた。しかし風は全く吹いていない。
いつの間にか、木の枝の上に少女が座っていた。
「ふぅん、やっぱりあの子は来る気ですの。ふ、ふふふ……」
少女はいきなり笑い出した。笑えて仕方がなかった。闇子の脅しを思い出すたびに、へそで茶を沸くような気分になった。
「『他の人たちには手を出さないで』だって。そんなもの……」少女は右目の眼帯を押さえつけた。「出すに決まっていますの。あはははは……」
少女は高笑いをし続けた。笑い声を響かせながら、彼女は夕闇へと溶け込んでいった。
風が吹いた。夏場にも関わらず木の葉が何枚も落ち続けた。しかしそれがやむ頃には既に、少女の姿はなかった。
午前九時、旧校舎の昇降口前に生徒会の面々が集まっていた。
珍しく時間通りに全員が揃っており、そこにいる皆に不服はないはずだった。
――ただ一人を除いて。
「……かわいい」
女子たちは目を丸くして蘭を囲んでいる。
「……不服です」
「服なら着てるじゃん。かあいいの」
「そうじゃなくて!」蘭は小鈴に突っ込もうとしたが、たなびくスカートを押さえるのに必死だった。
「ふふっ……似合っていますよ」
「うん、蘭くんかわいい!」
「なんていうか、これは予想外だったわ」
「桐生、その破壊力は万死に値する」
皆が思い思いに肯定的な感想を述べていくが、蘭は顔をしかめたままだった。
蘭は今制服を着ている。ただし制服は制服でも、女子の制服だった。ブレザーは男子と同じものだが、ネクタイではなくリボンを胸元に付けて、スラックスの代わりにチェックのスカートを履いている。顔が元々女っぽく身長もそこまで高くない蘭がそのような格好をすればほとんど女子生徒にしか見えなかった。
「あのー、これって意味あるんですか?」蘭は小鈴に尋ねた。
「んー、念には念を入れて。ほら、事件に関わったのはみんな女子生徒でしょ? 旧校舎に潜入するならこのぐらいやっておいたほうがいいかなぁ~って思って。女の子の数が一人でも多いほうが犯人も油断するかもしれないし」
「……本心は?」
「蘭くんの女装姿が見たかったから」一同がずっこける。「やっぱり女装少年よねえ。一見可憐な少女に見えるその実は、麗しき美少年。少女の装いに身を包み、恥じらいを隠せない初々しさ。慣れないスカートの下にそびえるのは男の子の……きゃー、小鈴の『こ』は『これ以上は何も言えない』の『こ』!」赤面で熱く語りだす小鈴。
「理由になっていないな……」沈黙の中、桜だけが突っ込む。
「雫さん、どうやったらこういう人が出来るんですか?」
「キャラを作ったものの作者にその存在をすっかり忘れ去られ、あまり個性がないからといって無茶苦茶に後付設定をされるとこうなるのよ」
(まぁ別に女の子の格好はもう慣れているけど……なんかそう思える自分自身が情けなくなってきた)
「と・に・か・く! 蘭くん、女の子の姿に目覚めたらいつでもお姉さんにいいなさいね!」
(とっくに目覚めたよ! 別の意味で)
蘭は呆れ果てた。小鈴にも、自分自身にも。
少し前の自分自身にとって女子は遠い存在だった。というよりも自ら引き離していた。
憎しみとまではいかないが嫌悪するべき対象であり、近付いてくるものを冷たい態度で離していった。会話など必要最低限ですら行わず、椿以外の女子とはほとんど口を聞いたことはない。
今はどうだろうか。蘭が白雪に恋をしてからというもの、自分自身で以前より頻繁に女子と会話をする機会が多くなった気がしていた。もちろん生徒会のメンバーとは仕事の付き合いで話をすることもあったが、白雪やアリス、椿、生徒会役員といった女子に少しずつ心を開いてきていると感じていた。その上自分自身が女になってしまい、ほんの少しだけだが女の子の気持ちが分かってきた。
「じゃあまずは私と会長が行くわ」
「え!? 二人だけで?」
「今回の事件は何が起こるか分からないから。まずは上級生の私たちが行くわ。もしも、もしも私たちが戻ってくる気配がなかったら、その時は……助けを呼びなさい」
「白雪さん……本当にいいんですか?」
「だ、大丈夫だよ。これも仕事だもん、ね!」健気に微笑む白雪だが、それが蘭の不安を強くさせた。
「行きますよ、白雪会長」
「う、うん……あ、そうだ。ぴゅうちゃん、出てきて」
白雪の肩からひょっこりと使い魔が顔を出す。
「ぴゅう?」
「蘭くんにぴゅうちゃんを預けておくね。私の身に危険があったらぴゅうちゃんが知らせてくれるよ」
「白雪さんまで、そんな不安をあおらないでくださいよ」
「蘭くん……私、あれから考えたんだ。こないだお姉ちゃんに言われたこと。さっきは行きたくないなんて駄々をこねていたけど、やっぱり私自身が強くならなきゃダメかな、って。そう思ったんだ」
「白雪さん……」
「それじゃあ行ってくるね」
潔く旧校舎に入る白雪の顔は、表面上は明るかったがどこか陰りが見えた。
「オバケなんて、ないさ……オバケ、なんて、嘘さ……」
「会長、少し静かにしてもらえますか?」
「うう、だって……」
白雪は身体を震わせながらトボトボと旧校舎の廊下を歩いていた。雫はそんな白雪の隣で彼女に合わせながら歩いた。
旧校舎の内部は非常に暗く、電気も通っていないため懐中電灯の明かりしか便りにならない。
「――怖くない、怖くない」
白雪は何度も自己暗示を掛けていた。
「会長、本当に大丈夫ですか?」
「うん、こんなことでおびえていたらいつまでたっても強くなれないもん」
「全く……」雫は呆れつつも白雪の言動が以前と少し違っていることに内心驚いた。
階段を昇り、目的の部屋に近付いた。雫はドアの取っ手を掴みながら、目を閉じて集中した。
「魔力はあまり感じ取れないわね」
「だ、大丈夫だよね?」
「……?」
雫は恐る恐る扉を開けた。
その瞬間、つま先から背筋へ、強烈な悪寒が走る。
先ほどまで微塵も感じられなかった魔力が一斉に胎内へと感じ取れた。
「ようこそ、ですの――」
二人は一瞬にして目を疑った。
暗い部屋の中央に、見覚えのない少女が待っていましたといわんばかりに立ち尽くしていた。
「では、あなたたちにはコレクションになってもらいますの」
少女はあざ笑うかのように指先をこちらに向けた。
瞼が重い。
僕は、一体どうしたんだ。
「ん、んっ……」
蘭は必死で目を開くが、まるで何も見えない。
まさか目を潰されたのか、と考えるが、その考えはすぐに否定した。自分の身体を見れば実にくっきりとそこにあるのが分かる。
「ここは、あの部屋の中?」
どうも様子がおかしい。ただ暗いだけならば、ここまで自分の身体を見ることなどできないはずだ。しかし今の状況は、暗闇の中で自分の身体だけが見えている。相変わらず自分は女装したままだ。
「……の」
突然、どこからか声が聞こえてきた。蘭は耳をすませてその声の方向を探した。
「あの……」
声は背後からだ。蘭は後ろを振り返った。そこにいたのは見知らぬ少女だった。蛍神学園の制服ではなく、白いゴシックロリータ服を着ている。右目にはこれまた白い眼帯を着けており、透き通るような肌と合わせて背景の黒と良いコントラストになっている。
「あなたもここに迷い込みましたの?」
「あ、うん……君も?」
「はい。でも、大丈夫です。ここから抜け出せる道を見つけましたから」
「ほ、本当に!?」
「もちろんです。案内してさしあげましょうか?」
蘭は首を縦に振った。一刻も早く、ここから抜け出したい気持ちが強く、藁をもすがる思いだった。
しかしこの空間は何なのだろう、と疑問に思わないわけがない。もちろん行方不明になった白雪や雫、女子生徒たちのことを忘れたわけではない。
「あの、他に誰かここに……」蘭は思い切って聞いてみた。
「いえ、誰もみていませんの」
「そう、ですか……」
蘭は愕然とした。
「あ、そういえば――」少女は何かを思い出したようだ。「さっき、他に誰か来たような感じがしましたの」
「えっ!?」
「すぐに追いかけましたが見えなくなりましたの。確かあれは、二年生の方が一人とあなたと同じ一年生の方が二人……」
恐らく闇子たちのことだ、と思ったのも束の間、蘭はすぐに足を止めた。
「僕を、どこに連れて行く気ですか」
少女も足を止め、振り向いた。蘭は少し彼女から遠ざかった。
「何が目的だ?」
「ふふっ……どうしましたの?」
「『どうしましたの?』じゃない。今、“あなたと同じ一年生の方が二人”って……なんで僕を一年生だって知っているんだよ!?」
「それはもちろん、胸の……」
それを言いかけて少女はようやく気がついた。蛍神学園高等部のブレザーは、男子はネクタイであるのに対し女子は胸にリボンが付いている。これは学年ごとに色が違い、一年は緑、二年は青、三年はオレンジとなっている。
「そうだよね、普通ならこれをみれば学年は一目瞭然だけど、この服は実は借り物で、貸した人は……二年生なんだよ」
蘭は彼女から距離を置いた。間違いなく、その少女は自分を罠に貶めようとしていると、直感した。
「女装が似合っているのは自覚していたけどね、まさかこれが役に立つとは。ある意味で小鈴さんに感謝しないと」
「ふふ……本当ですの。その格好、男の子なのによくお似合いですの、桐生蘭さん」
少女から黒い殺気のようなものが感じ取れた。彼女はけたたましく笑い、蘭にその恐ろしい顔を向けた。
「お前が、犯人か?」
「犯人なんて呼ばないで欲しいですの。紫苑 呪々(しおん じゅじゅ)というれっきとした名前がありますの」
「犯人かって聞いているんだよ! 目的はなんだ!? 白雪さんたちをどうした!?」
「いっぺんに質問しないでほしいですの。まぁ仕方がないですの……ここは呪々が創り出した闇のフィールド、そして――」
呪々は指を鳴らした。すると先ほどまで暗闇に溶けていた部分から少しずつ小さいものの姿が露になった。
一瞬、それは人かと思ったが違った。人の形をしているが、明らかに小さい。そしてピクリとも動かない。それらは皆、フェルトのような生地で作られた人形だと気がつくのに時間は掛からなかった。
蘭はそれらを見てはっとした。人形は全て女子の姿をしているが、全てに蛍神高校の制服が着せられている。いや、おそらく着ていたものがそのまま人形になったのだろう。ということは、この人形は――
「ふふ、気がついたようですの。この人形たちは全て、あの部屋に迷い込んだ生徒たちですの」
そして呪々はもう一度指を鳴らす。再び、人形たちが露になる。しかし今度は違った。その人形たちに見覚えがあったからだ。
「白雪さん……雫さん……」
姿かたちこそ変わり果てているものの、それらは明らかに白雪と雫だった。呪々が更に指を鳴らすと、今度はまた別の人形が出てくる。
「小鈴さんに桜さんまで!?」
「大人しく待っていればいいのに、あなたの後を追ってきたので、この方たちもお仲間にしてさしあげましたの」
「ふざけるな……」
蘭は腸が煮えくり返りそうになる。呪々は愉しそうに、全てをあざ笑うかのように微笑んでいる。
「さて、本当のお遊びはここからですの」
呪々は浮かんでいる白雪の人形を手に取ると、左手に持った鋏をひろげ、それの首に挟んだ。
「なにをする!?」
「ふふっ、このまま彼女の首を切り落としたらどうなると思いますの? 答えは簡単、人間に戻っても、彼女は一生戻ってこなくなる……代わりに阿鼻叫喚な代物が出来上がるだけですの」
「お、お前……」
「ただし、あなたが呪々のものになると誓えば、彼女は助けてあげますの」
「呪々のもの? 僕も人形にするつもりか……」
「ふふ、そんなことはしませんの。あなたにはやってもらうことがいっぱいありますの。それが何なのかを教える義理はありませんけど」
蘭は呪々に殴りかかろうとしたが、人質を取られたせいで動けない。蘭は自分の無力さを恥じると同時に呪々に対する怒りが増幅していった。
「そうそう、その顔ですの。憎しみに悶え、怒りで自分自身を見失う、どす黒い顔――見ていて気持ちがいい……」
そう言い掛けた瞬間、彼女の横を何かが通り過ぎた。
そして思わず手に持っていた鋏と白雪の人形を落としてしまった。蘭はすかさず人形を拾い、また距離を置いた。
「やることが随分と汚くなりましたね……呪々」
呪々の背後に、一人の影が現れた。それは人形ではなく、れっきとした人間だった。
影が完全に見えるようになると、その人物が誰であるかはっきりした。
「や、闇子さん……」
「ふふっ、どうやら闇属性のあなたに同じ闇属性の変身魔法は効かなかったようですの」
「『闇子』の『み』は、『見ての通りです』の『み』……」
そう呟きながら闇子はコツコツと近付いてきた。
「最初、あなたの目的は闇子に対する当てつけかと思いました……けどそうじゃなかった。狙いは最初から、桐生さんだったんですね……」
「ピンポーン、ですの。まず、学園内に開かずの間の噂を流し、好奇心で来た生徒たちをこの闇のフィールドに閉じ込めて次々とコレクションにしますの。そして事件性が出てきて生徒会が動き出したら、やってきた桐生さんを連れ去り、そしてついでに目障りなあなたも始末するという一石三鳥の計画ですの」
「相変わらず、人の姿を変えることに快感を覚えるサディストっぷりですね。あのときのように……」
「“あのとき”? それってまさか……」
蘭は少しずつ、呪々の正体がつかめてきた。しかしそれを口に出しかけた瞬間、闇子が答えを言った。
「彼女は、かつてこのオカルト研究会に所属していた、闇子の……親友でした」
「それじゃあ、あの問題を起こした生徒っていうのも!?」
「呪々ですの」呪々が答えた。「二年前、呪々は新発明した性転換の術を、とある男子生徒にかけましたの。彼は、みるみるうちに可愛らしい女の子になっていきましたの。あれは、最高の瞬間でしたの」
「性転換の術とはいっても、生半可な魔法使いでは到底使うことの出来ない、非常に強力なものでした。呪々はただそれを己の快楽のために使用しました。その男子生徒は女性になっただけでなく、精神に異常をきたして今でも入院しているそうです……」
「あはは、そうなんですの? それならばもう少し手加減してあげるべきでしたの。おかげで退学になるし、術の実験をする場所もなくなるし、散々でしたの」
蘭は想像した。その男子生徒は、ただこの女の快楽のために人生を滅茶苦茶にされた。しかもその術は自分がアリスにかけられたものとは桁の違う、精神まで蝕むものだ。彼はどんな苦痛を味わったのか、蘭はそれ以上の想像はできなかった。
「今思えば、あなたを親友と思っていた自分が憎いです……」
「ふふっ、闇子。あなたを利用するなんてちょろいもんでしたの。全ての属性の中で最も負に近い闇属性を持つあなたは、いつも仲間から外れた存在でしたの。あなたなんか優しい言葉をかければ一発で友達になれましたの」
蘭は我慢の限界に近付いていた。そこでふと闇子が気になり、彼女を見た。彼女は何も言わず俯き、目からポタポタと何かを流していた。
泣いている――?
蘭は闇子の姿に呆然としてしまう。
「さてと、どうやらこれを使うときがきたようですの」
呪々は両耳に手を当てると、眼帯の紐を外した。
その瞬間、フィールド内全てに強い力が奔った。
呪々の外された眼帯から見えた右目は、炎を埋め込まれたように真っ赤な瞳。眼帯のせいで見えにくかったが、彼女の細い眉はソの字を形作ってこちらを挑発するように睨んでいた。
蘭はこの強い力の正体に気がついた。
「これは、負の魔力……」
「そのとおりですの。あの方のおかげで、呪々は闇属性ともう一つ、負の魔力を得ることが出来ましたの」
「“あの方”?」
「いったはずですの。『教える義理はない』と。まずは闇子……」
呪々の周囲に負の魔力の粒が集まり始めた。一瞬にしてそれらは大きな塊となり、呪々の右手の指に集まる。刹那、そこから魔力は放たれて闇子に直撃した。
「うっ……」
「闇子さん!?」
「あはは、闇属性の変化魔法は効かなかったけど、負の魔法なら……」
闇子の身体が次第に闇に包まれていく。
「桐生さん……にげ、て……」
「このフィールドから逃げられると思っていますの? あはは、やはり闇子はオバカさんですの。馬鹿と阿呆と間抜けのミックスジュースみたいですの!」
彼女の言葉は腹立たしかったが、いっていることは最もだった。そうこうしているうちに闇子の身体が手足から身体へ、闇に包まれていく。なすすべもなくその場に立ち尽くす蘭は、闇子が変化していく様を黙ってみるしかなかった。
もう、ダメなのか――
(このまま事態を放ったらかしにして被害が拡大したり、会長抜きで事件を追った結果私たちが行方不明になったりしたら会長の責任問題になるのよ。『生徒会長は何をしていたんだ。事態が悪化したのは生徒会長の怠慢だ』なんて言われてね)
そうだ――
ここで自分が負けてしまったら、何も解決しない。白雪も行方不明扱いになってしまい、学園は更に混乱するだろう。それだけではなく、呪々がこれ以上行方不明者を出さないとも限らない。そもそも白雪たちを人形のままにしておくわけにはいかない。
――あれしかない。
蘭には最後の策があった。これが駄目ならば、全てが終わってしまう。一か八か、これに掛けるしかなかった。
「闇子さん。今まで隠していたことをちゃんと喋ってくれてありがとう。だから僕も……」
「桐生、さん……?」
蘭は闇子の傍へ歩み寄った。彼女の身体は、残すところ肩から上のみとなっている。
「僕のこと、嫌いになるかもしれないけど――」
間髪をいれず、蘭は闇子の唇に自分の唇をつけた。蘭の身体が黒く光り、徐々に姿を変貌させていく。まずは胸が握りこぶしぐらいの大きさへと膨らむ。髪は一気に長くなり、しなやかなウェーブを形成する。そして自動的に二つにまとまり、ツインテールの髪型になる。服装が制服から肌に密着した黒いレオタードになり、制服のスカートはレオタードの黒いスカートへと変わる。レオタードの肩から胸までは露出した形になっており、背中からは黒い蝙蝠のような羽が生える。肘まである黒い手袋をはめて、足も黒いニーソックスになる。そして変化が終了し、黒い光が消えた。
「これが、僕の秘密です」
闇子はサキュバスのような姿になった蘭を見て目を丸くした。本来なら呆気にとられているところだが、依然彼女に掛けられた魔法の効果が続いており、残りわずかとなった闇子の身体は着実に闇へと溶けていった。
「あとは、よろしくお願いします……」
闇子がそう言い残すと、彼女は完全に闇に飲み込まれ、しばらくしてそこに小さな人形がぽつりと地面に落ちた。それは、闇子そっくりの人形だった。
「……わかりましたよ、闇子さん」
「あはは、あなたは本当に面白い方ですの。で、それがどうしましたの? 呪々があなたの力について何も知らないでいるとでも思っていますの?」
蘭を狙っているということは、彼についてこの力についても既に調査済みだ、ということだろう。蘭もあらかたそれは予想できていた。知っていてここまで余裕な態度を取っているのだ。しかしこれで駄目ならば全てが終わってしまう。
「あなたの今の力は闇属性。だけどそれはこのフィールド内では何の力も及ぼしませんの」
「やってみなくちゃ分からないだろ。闇の化身よ、鋭き矢となりて全てを貫き通せ……ダークネスアロー!」
蘭に集まった魔力の粒が黒い矢へと変化し、彼から呪々へと一直線に放たれた。
しかし呪々は矢から逃げるどころか、左手で受け止めてそれらを全て黒い粒へと戻していった。
「ほら」
「くっ……」
「だから無意味と申し上げたはずですの。強い魔力を秘めているとはいえ、女になりたての似非魔法使いのあなたが呪々に勝てるはずがありませんの。それでは、呪々もあまり手荒な真似はしたくないので……」
呪々は左手をこちらに向けて呪文を詠唱し始めた。
「スリープミスト」
一瞬にして闇子の周囲に黒い粒が集まり、フィールド内に拡散していく。
「無詠唱呪文……?」
「そうですの。まさかいちいち長ったらしい詠唱をしようなんて、そんな効率の悪いことはしませんの」
馬鹿な――
無詠唱呪文は現存する魔法使いの中でも四大魔法使いを含めたほんの一握りの人間しか使うことはできない。それは蘭も充分に知っている。しかしそれを目の前の少女はいとも簡単にやってのけたのだ。彼女は一体――
そう考えているうちに蘭の身体から力がどんどん抜けていった。視界が歪み、深い眠りへと誘われていく。今になって油断していた自分を呪った。
「うっ!」
「あはは、そのまま眠りなさいですの」
もう駄目か――
そう思った矢先、蘭はさきほど呪々が落とした鋏に目が行った。蘭は重い右手を伸ばしてそれを拾い上げた。そして、一気に左手の甲に突き刺した。
「うぐっ!」
左手からは赤黒い液体が滴り落ちる。しかしこれで彼は完全とまでは行かないが目が覚めた。
「白雪さん、ごめんなさい。こんなこと、してしまって。あとで怒られますね、きっと」
蘭は白雪の人形に向けて呟いた。身体を起こし、手に持った鋏を呪々へと向ける。
「ふぅん、なかなかやりますの。可愛らしい外見をして、やることはド派手ですの」
「お前にいわれたくはない。というかそもそも可愛いっていうな!」
蘭は再び呪文を唱え始めた。
「闇の従者よ、漆黒の鎌を我に与えよ……ブラッディサイズ!」
手に持った鋏が黒い粒を浴びて大きくなっていく。しばらくするとそれは鋏ではなく身の丈ほどもある大鎌へと変化していく。
「ブラッディサイズ……少量の血液を媒体として大きな鎌を作り出す魔法。あはは、なるほど。いい判断ですの。よくこんな魔法知っていましたの」
「こないだ魔法辞典で見たのを思い出したんだよ」
呪々は自分の指先を強く引っ掻いた。指先から、ポタポタと血が溢れ出る。
「ならばこちらも……ブラッディサイズ」
彼女の血液に闇の力が集まり、徐々に大きくなっていく。そしてそれは彼女の掌で大きな鎌となる。
「ひとつお尋ねしますの。何故あなたはこんなに一生懸命なんですの?」
「僕は、お前が許せないだけだ」
「憎しみ? いえ、あなたの目は、どうもそれだけではない気がしますの。それは憎しみとはどう違いますの?」
「賭けてるものが違うんだよ」蘭は翼を広げ、飛び立った。「自分自身のプライドだけじゃない。白雪さん、雫さん、小鈴さん、桜さん、そして……闇子さん。この戦いで、みんなの人生とプライドを、僕は背負っているんだよ!」
呪々は黙ったまま鎌を構えた。
「よく分かりませんの」
「到底分からないだろうね、きっとお前には。闇子さんの言葉を借りるなら……」蘭は呪々の上空へと跳ぶと、鎌を大きく振りかぶった。「『桐生』の『き』は『絆』の『き』だ!」
蘭の大鎌が呪々へと振り下ろされる。呪々は鎌の柄でそれを受け止める。
強大な魔力がぶつかり合った。お互い力一杯鎌を押し通そうとする。それは数秒間続いた。
ペキ、と微かな音と共に鎌にヒビが入った。
呪々の鎌だった。強力な魔力と激しい力に耐え切れずに、折れる寸前となっていた。
「ちっ!」
蘭の鎌が呪々の鎌の柄を割り、一気に彼女の身体へと振り下ろされる。
しかし割れた瞬間、彼女は素早く後方へと下がり、それを避けた。
「はぁ、はぁ……」
先ほどまでの余裕のあった表情とは違い、呪々の顔が険しくなっている。気がつくと、彼女の頬に小さなかすり傷が出来ていた。
「ふふ、なかなかやりますの」
呪々は再びにっこりと笑うと、外していた眼帯を元に戻した。
「仕方がありませんの。今回はここまでにしますの」
「逃げるのか!?」
「呪々に傷をつけたご褒美に、ここから出してあげますの。もちろん、人形になった人たちも元に戻してあげますの」
呪々の身体が少しずつ闇に溶けていく。
「おい! お前にはまだ聞きたいことが……」
「いずれあなたとはまた会えますの。では、闇子にもよろしくお伝えくださいですの」
呪々が完全に闇へと消え去っていった。
「待て……くっ!」
蘭は激しい眩暈を覚えた。
(さっきの魔法が、まだ……)
蘭の視界が徐々に薄れていく。
全てを瞼の重みに委ねて、蘭はゆっくりと目を閉じた――
暗い部屋の中で、少女は頬の傷を抑えていた。
「あのままいけば、呪々は確実に……」
付けられた傷だけでなく、そこから全身へと痛みが回っていく。
ブラッディサイズは人の血液を媒体として創る鎌だが、効果はそれだけではない。傷つけた人間の体内に強力な毒物を流し込むという効果もあった。
「どうやらこの効果について、桐生さんは知らなかったみたいですの……しかし、ここまでやるとは正直意外でしたの。早いところ、あの方に解毒してもらわなくては……」
少女は右目に付けた眼帯を外した。そうすれば幾分かは楽になる。
「それにしても面白いことになってきましたの。闇子……今度はあなたにも容赦はしませんの。あはははははははははは!」
蘭が目を覚ますと、そこは真っ暗な空間だった。しかし闇のフィールドではなく、ただかび臭い部屋だった。
開け放たれた窓から月明かりが内部を照らした。見覚えのある机が置いてある。どうやら例の部屋みたいだ。
「そっか、元に戻ったんだ」
「お目覚めですか……」
暗闇から闇子の顔がにょっと出てきた。いきなりだったので、蘭は声にならない声を張り上げてしまう。
「ふふふ……そんなに驚かなくても」
「や、闇子さん……無事、だった」
「はい……みなさんも」
蘭は部屋の中を見渡した。狭い部屋の中に、白雪が寝息を立てている。白雪だけでなく、雫、小鈴、桜、行方不明になったであろう他の生徒たちも目を閉じて眠っていた。
「よかった――」
蘭は安堵のため息をついた。
「桐生さん、その……」闇子はもどかしそうに体をゆすった。「今回は、ありがとうございました」
「ううん……えっと、ごめん」
闇子はきょとんと蘭を見た。
「どうして謝るんですか?」
「あのさ、いきなり、その……キス、しちゃって」
「ふふ、いいんですよ。分かっていますから。それより呪々は、どうしたのですか?」
「残念ながら、逃げられて――」
「そう、ですか……でも、皆さんが無事でなによりです。でも桐生さん、気をつけてください。呪々は、きっとまたあなたのことを狙ってきます」
「一体、何のために?」
「それは分かりません。しかし、確実に何かが動き始めている、そんな気がするんです……」
数秒間の沈黙の後、闇子は蘭の怪我をした左手を触り、手に持っていた包帯を巻いた。
「闇子さん?」
「これで大丈夫です。また白雪さんに言えば魔法で治してもらえるでしょう」
「ありがとう……」
「ふふ、桐生さん。いつの間にか闇子に敬語を使わなくなりましたね……」
そういわれて蘭は気がついた。無意識のうちに、彼女を対等に見ていたのだと気がついた。そして一つの言葉がふと彼の心の中に浮かんだ。
(“親友”か……悪くない、かな)
蘭はゆっくりと立ち上がり、歩き出した。
「それじゃあ僕は学園長を呼んでくる。闇子さんにはあとを頼んでもいいかな」
「ええ、もちろんです……」
蘭が部屋を出るのを見送ると、闇子は蘭に聞こえないようにこっそりと呟いた。
「桐生さん……ふふふ……『闇子』の『や』は……」
廊下に出た蘭は、一瞬背筋がゾクッとした。
「あれ、風邪引いたかな? なんか寒気が……そういえば制服女子のままだった。着替えてこないと」
「闇子の『や』は……『やっぱりあなたのことが好きです、桐生さん』」