ep4.野良猫の子守唄
ある雨の日。蘭は母を亡くした子猫たちに餌をあげているアリスを目撃する。彼女の意外な一面が気になった蘭は、弟の恭治にその話をする。実は彼女には哀しい過去があり……。
雨音が絶え間なく地面を打ち鳴らしていた。
生徒会室にいるのは白雪と蘭の二人。蘭は室内の資料を整頓しているが、そんな彼をよそに白雪はソファーに横たわって昼寝をしていた。
「もう、白雪さん。そんなところで寝ていると風邪引きますよ」
当然のごとく、白雪の反応はない。完全に夢の中を遊泳しているようだ。
「白雪さん、しらゆきさぁん――」蘭は何度も白雪に囁くが、彼女の反応はまるでない。
雨音が強くなった。小さいが雷鳴も聞こえてくる。
蘭はこれといって梅雨が好きではない。というよりも雨というものに対して感慨深いものなど抱こうとは思わない。鬱陶しい、ただそれだけの代物だ。
(早くやまないかな……)
軽くため息をつきつつ、蘭は白雪に毛布をかけた。
ふと窓の外に目をやると、この豪雨の中にも関わらず一人の人物が立っていることに気がついた。赤い傘を差した見覚えのある金髪の少女――
「アリス、さん?」
蘭は思わず外へと駆け出して行った。
室内で感じたほど雨は強くはなかったが、それでも視界を鈍らせるには充分な量だった。それを振り切って蘭はアリスの元へと近寄った。
「アリスさん?」呼び止める蘭に、アリスは「あら?」と返事をした。
「桐生さん。こんな雨の中どうしたんですの?」
「それはこっちの台詞ですよ。一体何をしているんですか?」
「ああ、それは……」彼女がはにかんだ瞬間、茂みから「ニャー」と甲高い鳴き声が聞こえてきた。
蘭がふとそちらに目を移す。同時に、その声のした茂みがゴソゴソと動いた。
直後、茂みからひょっこりと小さな生き物が首を出した。それは、まだ生後間もないであろう子猫だった。それも一匹ではなく、五匹。
更に蘭はアリスを見ると、彼女の手に小さなコッペパンが握られているのに気がついた。しかも、それは三分の一くらいちぎられている。
「もしかして、この猫たちに餌をあげていたんですか?」と蘭は尋ねた。
「まあ、そういうことですわ……」
「ちょっと意外ですね」
「失礼ですわね。わたくしだって動物を愛する心くらい持ち合わせていますわ」
そう言うとアリスはしゃがみこんで、指先で親指ぐらいの大きさにちぎったパンを手のひらにのせた。子猫たちはそこに群がって、はぐはぐとパンにかじりついてくる。
「この子たちは、母親がいないんですの……」
「えっ?」
「ほんの少し前ですけど、裏山で野犬に襲われて……この子たちを助けるために、一人で闘ったんですの。命がけで」
突然の話に蘭は唾を飲む暇もなかったが、それよりもアリスのこんな姿に驚かずにはいられなかった。
「まあ、わたくしという人間にとって、弱きものを助けるという行為は日常茶飯事の朝飯前、一日一善ですわ」
日本語は無茶苦茶だったが何が言いたいのかはなんとなく伝わった。
謹慎中でやることがない、というのも理由の一つだろう。しかし、彼女の行為に嘘はないと蘭は感じた。
「どうでもいいですけど桐生さん、そんなところで立っていると風邪引きますわよ」
「あ、そうですね。それじゃあ僕はこれで……」
「あ、ちょっと待ってください」去ろうとする蘭をアリスは呼び止めた。「このことは、白雪さんには内緒ですわよ」
思わずぷっと噴出しそうになるのをこらえて、蘭は「はい」と素直に返事をした。
翌日も雨が降っていた。
昼休みはいつもなら中庭で昼食をとる蘭だが、その日はやむなく教室で食べていた。対面には恭治も座って食事をとる姿は、こんな日でなければ滅多に見られなかった。
「へえ、姉貴がそんなことをねぇ」
「うん、ちょっと意外だった。いつものアリスさんからは想像できないからさ」
昨日の出来事を話しながら、二人はもごもごとパンを頬張っていた。
「蘭、あのさ……」恭治は飲んでいた牛乳パックを置いた。「姉貴は、その子猫たちに自分を重ねているんだと思う」
「えっ?」
恭治の表情が次第に曇ってきた。口元は笑っているが、その周りは哀しみで覆われている気がした。普段明るい恭治がこんな表情をしたのを見るのは蘭も初めてだった。
「蘭は、母親が歌った子守唄を今でも覚えているか?」
恭治の唐突な質問に一瞬戸惑う蘭だったが、「ううん、ない」と答えるほかなかった。
「まあそうだよな。聞いた俺が悪かった」謝った後、すぐに気持ちを切り返す恭治。「姉貴はさ、今でもその歌を覚えているんだよ。嫌というほど、鮮明に。忘れたくても、忘れられないぐらい」
「お母さん、死んじゃったの?」蘭は尋ねた。
「ああ、まぁな。昔……」そう言いかけたところで、恭治は口を噤んだ。「やっぱ、やめた」
雨が強くなってきた。
白いとも無色ともいえない雫が、外の空間を次第に脅かしていった。
「あーあ、雨って嫌だな……ホント、嫌になるな……」
恭治は外を眺めながら物憂げに呟く。その表情を察してか蘭はそれ以上尋ねないことにした。
じっとりと少女の服に雨水が滲んでくる。重みを増したその身体を気にすることもなく少女は猫を抱きかかえていた。
雨は未だ止むことを知らない。べっとりと地面に絡み付いてくる。
「お母さん……」
少女は雨の来た道を目で追うように空を仰いだ。瞼の上に数十滴もの雫が滴る。
母はもう自分とは別の世界にいる。どう手を翳そうとも触れることすら叶わない。自分が抱えているこの猫も、きっと同じような気持ちなのだろう。
しばらくすると、後ろから誰かがやってくるのに気がついた。
「アリス様、今日もあのネコどもに餌をおやりになりやがるんですかニィ?」
「何か問題でもありまして?」
「いえ、別に。しかしこのギンスケ様を差し置いてあんな薄汚いネコどもに……アリス様も物好きでありやがりますニィ」
「あなたはお黙りなさい、ギンスケ」
「ヘイヘイ」
聞こえてきたのはクラスに一人はいるようなちょっと毒舌の子どものような声と、少女よりもずっと年上の女性の声。会話の内容から察するにネコに餌を与えに来たようだ。
少女は後ろを振り返った。そこには真っ赤な傘を差した高等部の制服を着た金髪の綺麗な女性と、いやらしい顔で彼女の肩に留まっている銀色の猫みたいな(最も蝙蝠のような羽がついているから猫とも言いがたいが)生き物だった。
「あら? あなたこんなところで何していますの?」
アリスに尋ねられ、少女は彼女と目を合わせる。
「初等部の子かしら? もしかしてあなたも子猫たちに餌をおやりに……」
その瞬間、アリスははっとした。
少女は一匹の猫を抱きかかえていた。それもいつも餌を与えている子猫ではなく、成熟した大人の猫。さらにアリスはその猫に見覚えがあった。雨ではっきりと見えなかったが、耳の裏にどこかで引っ掛けたような傷跡がついていた。
「もしかして、その子は……ミミィ、ですの?」
忘れかけていた記憶を紡いでいっても、彼女にはその猫が何であるのか確証があった。
しばらくすると、何も知らない子猫たちが呑気に顔を出した。同時にミミィは少女の腕を離れて子猫の近くに擦り寄った。
「ミミィって、確かポックリお亡くなりになりやがった母猫ですよニィ?」
「そんなことあるわけが……まさか、幽霊?」
「違いますニィ」ギンスケの一言がぴしゃりと止めた。「恐らくは『魔力思念影』ですニィ」
「まりょく、しねんえい?」アリスはギンスケに尋ねた。
「魔力を持った生き物が死ぬときに現世に思い残すことがあると、その魔力が独立して本人そっくりに実体化することがあるんですニィ。大抵『ドッペルゲンガー』とか呼ばれていやがりますが、本当は霊ではなく魔力の塊ですニィ。まあしばらくすれば自然に消えちまいますニィ」
ギンスケの説明に耳を傾けながら、アリスはミミィの魔力思念影を見つめていた。まるで本当に生き返ったかのように、子猫たちはミミィにじゃれつき、ミミィも子猫たちをなだめるかのようにペロペロと舐め始めた。
「そっか……」少女はミミィに語りかけた。「君も寂しかったんだね。ずっと、子どもたちに会えなくて……」
そう言って少女は再びミミィを抱きかかえた。ミミィは少しだけ腕の中で暴れるが、少女はそんなことお構いなしだった。
「ねえ、お姉ちゃん?」少女はアリスに尋ねた。
「な、なんですの?」
「お姉ちゃんは、大切な人が死んじゃったこと、ある?」
少女の言葉に、アリスは一瞬息を飲んだ。
「今から裏山へ行くんだけど、一緒についてきて欲しいの。面白いもの見せてあげる」
「え!?」アリスは驚いた。「あなた、何をおっしゃっていますの? こんな雨の日に裏山なんて……」
「今からね、裏山の大きな穴までこの子を生き返らせに行くの」
アリスは背筋が凍るなんてものではないほど、硬直した。
それは恐怖に近かったが、同時に希望にさえ聞こえた。少女の顔はあどけない無邪気なものだったが、どこか冷たくも感じた。
「あなた、お名前は?」血迷った挙句アリスは質問した。
「沙代子……卯月沙代子」沙代子は笑ったまま返事をした。
少女の顔色を伺いつつも、アリスは裏山へ行くことを決心した。
「た、た、たた、大変ですニィ! アリスの馬鹿ご主人様が、裏山で、ネコと沙代子とかいうガキと生き返らせニィ……」
生徒会室に勢いよく入ってきたその生き物は落ち着かない動作で支離滅裂な言葉を喋った。生徒会室には部屋の整頓をしている蘭と、机に突っ伏して眠っている白雪、そして暇潰しに遊びに来た恭治の三人がいた。
「あれ、姉貴のバカ使い魔か。こんなところに何しに来たんだ?」
「姉貴ってことはアリスさんの? やっぱり飼い主に似るというかなんというか……」
「だーかーら! オイラの話を聞きやがってくださいですニィ!」
一呼吸間を空けて空気を落ち着かせた面々はギンスケの話を聞いた。ちなみに白雪はこの騒ぎの中でも微動だにせず、相変わらず居眠りをしていた。
「なるほど。その親猫が魔力思念影となって現れたのは分かった。しかし裏山で猫を生き返らせるなんて一体……」
二人と一匹の中で疑問符が生じた。
「大きな穴? 裏山で生き返らせる? そんな話聞いたこともないよ」
「大体、その沙代子って子は猫を生き返らせて何の得があるんだ?」
「そ、それは……オイラにも分からないニィ」
「ふむ、理由は分からんがおそらく二人は魔力の穴へ向かったんじゃろうな」
突然声がしたかと思うと、横から突然学園長が割り込んできた。
「わっ! いつの間に……」
「話は全て聞かせてもらったぞ。裏山の中腹あたりに立ち入り禁止区域があるじゃろ? 何を勘違いしているのか知らんが、考えられるのはあの奥にある魔力の穴しかない」
「魔力の穴?」
二人は同時に尋ねた。
「人間が持っているのとは違い、いわば天然の魔力が温泉のように噴出している場所じゃ。周囲には何の影響もないが、近付くと危険じゃからな。立ち入り禁止にしておる」
「そこで猫を生き返らせることって出来るんですか?」
「そんなわけあるか!」
学園長は目を見開いて怒鳴りつけた。
「いいか、どんなに我々の魔法が完璧であっても、死んだ者を生き返らせることなど不可能。たとえ出来ても、そんなものは即刻禁術扱いじゃ。それにあの穴から噴出している魔力は闇属性よりも力の強い、負の魔力じゃ」
「もし、その穴に魔力思念影が入ると?」
「魔力と魔力がぶつかり合い、おそらくは消滅か……下手に混じればもっと危ないものが出来上がるか……」
学園長に脅され、一時的にその場にいた者は凍りついたかのように硬直するが、すぐに気を取り直した。
「その卯月沙代子とかいう生徒が何をしでかそうと考えておるのかは分からんが、早く止めないと取り返しのつかないことになるかもな……」
「ああ、姉貴が心配だ。その沙代子って子も……ん? 卯月沙代子、うづきさよこ……」
恭治はしきりにその名前を呟くが、しばらくして彼の表情が一瞬にして蒼ざめた。
「蘭、俺は先に行くぜ! お前は他に誰か応援を呼んでくれ!」
「ちょっと待ちやがれ! オイラが案内しますニィ!」
「お、おい! 馬鹿者!」
学園長が呼び止めるのも無視して恭治とギンスケは部屋を飛び出した。
「勝手に突っ走りおって……」
「学園長、行かせてやってください」
案外落ち着いた様子で蘭は学園長をなだめた。
「あいつなら大丈夫ですよ。基本的に馬鹿ですけど、誰よりも強い男です。それに、アリスさんの気持ちも、母猫の気持ちも、誰より分かっていると思いますよ」そう言って蘭は学園長に微笑みかけた。
「さてと、まずは白雪さんを起さないと……」
蘭は机に寝ている白雪を見た。すーすーと寝息を淡い寝息を立てているが、蘭の経験上彼女が一度寝たら起こすのは至難の業だ。
「仕方がないな……」
「どうする気じゃ?」
「こうするんですよ」
そう言うと蘭は顔を赤らめて眠っている白雪の耳元に、そっと唇を近づけた。
「白雪さん……ごめんなさい! でも、こうするしかないんです……」
蘭はもう一度深呼吸をする。
数秒間ためらいがちに姿勢をとり続けた後、間髪を入れず次の行動に移った。
「白雪さーん! 今日のおやつは駅前の問答無用屋のスペシャルチョコ大福ですよっ!」
蘭の響いた声と共に、白雪の目がはっと見開いた。
「ど、どこ? 問答無用屋のすぺしゃるちょこだいふく~!」
「やっと起きましたか……」
「おぬし、段々とこの女の扱いが上手くなってきたのう」
白雪はトリュフでも探す犬のように辺りをキョロキョロ見渡している。蘭はすぐさま「嘘です」と突っ込みを入れて彼女を振り向かせた。
「嘘だったの~? 蘭くん酷いよっ!」
「それどころじゃないんです! アリスさんが……」
「えっ?」
蘭は事細かにアリスのことを話した。
「そ、そんなぁ……た、たた大変だよぉ!!」
「落ち着いてください、まだ何かが起こったわけではないんです。僕は恭治を追いかけるので、学園長と白雪さんは他に応援を呼んできてください」
「で、でも……もし間に合わなかったら……そうだ!」
白雪は何かを閃いたように手をポンと叩いた。
「蘭くん――」
「はい?」
「ごめんね」
白雪が一言謝ったその瞬間だった。
蘭の視界に瞼を閉じた白雪の顔がアップで映し出された。それだけではなく彼女の鼻と自分の鼻がくっつきそうなほどに近付いていた。というのも互いの唇はもう既に思いっきり接触しているからである。
白雪と思いがけないキスをした蘭は、わけの分からぬまま身体が淡く光り始めた。光のヴェールが髪、胸、腰、そして身体の輪郭全てを女性へと変貌させ、最後に真っ白な羽を生やして光が消えた。
「し、白雪さん?」
天使の姿となった蘭は照れくささよりも驚いた気持ちが大きい。
白雪には能力のことを知られているとはいえ、まさか彼女からキスしてくるとは思いもよらなかった。
「ご、ごめんね……」こればかりは白雪も顔を赤くしていた。「あのさ、その姿だったら空からアリスちゃんのこと探せないかな?」
「なるほど、名案じゃ。応援はワシと生徒会長でなんとかしておくから、おぬしは先に向かってくれ」
「あ、はい……」戸惑いが消えないまま蘭は空返事をした。
雨が少しずつ引いていった。
薄い霧をもろともせず、裏山のぬかるんだ道を恭治はひたすら全力で走っていた。
「はぁ、はぁ……どこだ?」
「こっちじゃないですね。多分もっと奥のほうに行きやがったっす」
「畜生、馬鹿姉貴め――」恭治の荒い呼気に怒りが混じった。
走っているうちに、恭治の息があがっていく。同時に彼の視界が絵の具を溶かしたようにぐるぐると回り、意識も朦朧としてくる。
「ハァ……早く、いかないと――」
「む、無茶ですニィ! 兄貴、これ以上心臓に負担をかけるような真似は……」
「うるせぇ! お、俺だって、そのぐらい、わか…って……」言葉を言い終える間もなく、恭治は泥水の中に倒れこんだ。
「あ、兄貴!? あにきいいぃぃぃぃぃ!」
「だ、大丈夫だ……だけど、しばらく休憩かな……」
その場に寝そべりながら天を仰ぐ恭治。上空から止みかけの雨だれが何滴も降り注いでくる。
先ほどから何度も聞こえてくる心臓の音、それは恭治にとって母親の子守唄に近かった。
幼い頃、心臓に病気を患っていた恭治――そんな彼に母はよく優しく子守唄を歌ってくれた。アリスが我侭を言ったとき、眠れなくなったとき――母の子守唄は全てを静寂へと帰していった。
(そっか……考えてみれば姉貴は長いこと母さんの子守唄を聞いていないんだな)
母が遠い国で亡くなり、恭治が得たものは彼女の心臓だった。
以前と全く違う鼓動が聞こえてくるたび、どうしてか恭治にはそれが母の子守唄に聞こえてくる。だからこそ彼は母がまだ生きていると思えるのだ。
「母さん……」
しばらく空を見上げていると、彼の目に一人の少女が映し出された。
「全く、無茶なやつだな」
「お前は……」
霧が晴れる気配は全くなかった。
アリスが踏み入れたのは裏山の中でも彼女が踏み入れたことのない草の道。景色はほとんど白一色だったが、なんとか手探りで歩く場所を理解することはできた。
「あなた、一体どういうつもりですの?」アリスは沙代子に尋ねた。「死んだものが生き返るなんて、そんなのありえませんわ。第一こんな裏山に一体何があるというのです?」
「大丈夫だよ。この子が生き返ったら、お姉ちゃんが生き返らせたい人もきっと生き返るよ」沙代子は特に悪びれる様子もなく返事をした。
アリスは葛藤していた。なんとなく少女に着いてきてしまったが、心の奥底では彼女の言うとおり死んだものが本当に生き返ることを期待しているのかも知れない。だとすれば、母を生き返らせることも可能なのではないか――
とはいえ現在禁術を使用したことが原因で謹慎中のアリスにとって、これは危険な賭けでもあった。死んだものを生き返らせるのは魔法の理念に反しており、不可能な魔術であると同時に禁術ともされている。ここで下手な真似をすれば退学どころか更に酷い処分を受けることだろう。
「やはりやめませんこと? あなたが何を勘違いしているのかは知りませんが、やはりそんな話デタラメに決まっていますわ」
「どうして? お姉ちゃん、生き返らせたい人いないの?」沙代子はあどけなく返事をする。「あのね、私は死んだお母さんを生き返らせたいんだ」
彼女の返事に、アリスはドキッとした。
「お母さんね、私が小さい頃に死んじゃったの。お母さんは歌を歌うのがとっても上手で、いつも子守唄歌ってくれたんだ。だから、生き返ったらまた子守唄歌ってもらうの」
その言葉を聞いた瞬間、アリスは少女と自分の姿に影を重ねた。
(この子も、わたくしと同じ? 母親がいないから……)
「お姉ちゃん、着いたよ」
アリスが考え事をしている間にいつの間にか草むらを抜け出たことに気がつく。
「ここは……」
目の前に見えたのは図太い針金を張り巡らせたフェンスに大きく書かれた「立ち入り禁止」の文字。しばらく手入れされていないのか、雨風で風化されボロボロになっている。
「さ、沙代子さん? ここは立ち入り禁止では……」アリスが注意している間に沙代子はフェンスをよじ登っていた。
「お姉ちゃん、早く来なよ」沙代子はアリスを呼ぶと、フェンスを飛び降りてミミィを抱きながらさっさと奥へ駆けていった。
「ちょっと、お待ちなさい!」
アリスも沙代子に続いてフェンスを越えて奥へと走っていった。次第に何故か悪寒が強くなってくる。
「ここだよ、お姉ちゃん」
沙代子が立ち止まったのは大きな穴の前だった。
アリスが感じた悪寒のようなものはそこから湧き出ているものだということが分かった。それと同時に、アリスはふと我に帰った。
――ここで、死んだものが生き返ることなどありえない、と。
「くっそー、飛びづらいな。おまけに視界も悪い」
蘭は上空からアリスたちを探すが、いかんせん雨のせいで飛びづらく視界が悪い。
「学園長から聞いた話だと多分こっちの方向だと思うんだけど……」
山を上空から探していると、蘭はアリスらしき人影と少女の姿が目に入った。
「ん!? あれは……」
「沙代子さん、ダメですわ! そんなことをしたって生き返るわけが……」
必死で説得するも沙代子は彼女の声に耳を貸そうとしなかった。
「君も、子どもたちに会えなくて寂しかったんだね……でも、すぐに生き返るよ」沙代子はそう言って、何も分からないミミィの魔力思念影を穴へ放り込んだ。
――その瞬間だった。
穴から魔力の衝撃波が一斉に吹き荒れ、沙代子とアリスが飛ばされそうになる。そして上に押し上げられたミミィの魔力思念影が次第に負の魔力と混ざり始める。
穏やかだったミミィの顔が憎しみで溢れたように怒ったような形相へ化し、爪、牙は大きく鋭く変わっていった。真っ白な毛並みも赤黒く変化し、段々と虎か熊ほどの大きさになっていった。
「そんな……」
愕然としているのはアリスだけではなかった。沙代子も元通りに生き返ると思ったのがこのような怪物へと変化したのにショックを受けたのか、その場で怯えた顔をしていた。
アリスも同じような気持ちだった。しかしミミィだった怪物はそんな二人を構うことなく獲物に飛び掛るように襲ってきた。
「きゃああぁぁぁぁぁぁぁ!」
アリスも沙代子も絶体絶命かと思われた、その時だった。
「光の聖者よ、汝の其の力を以って我が身を守る壁となれ! プリズムシールド!」
綺麗な声をした女性の詠唱と共に、ガシュッ! という鈍い音が彼女らの耳に聞こえてきた。
「だ、大丈夫ですか?」
アリスが恐る恐る目を見開くと、左手を翳して真っ白な光の壁を放っている一人の天使がいた。
「あ、あなたは……」
「説明は後です! 早く逃げてください!」
化け物は光の壁に驚いて何度も向かってくるが、そのたびに壁に弾き飛ばされる。何度も何度も繰り返しているうちに、疲れたのか少しだけ化け物の動きが鈍くなっていく。同時に光の壁も少しずつ色あせて薄くなっていった。
「ダメだ、これが限界か……」
光の壁が消えるにつれ、天使の姿が淡く光り、青い髪の少年へと変わっていく。
消える一瞬、光の壁から衝撃派が放たれ化け物は強烈にはじかれ転倒した。
「き、桐生さん?」アリスは何がなんだかわけがわからなくなっていた。「今のは、一体……?」
「なんというか、貴方のおかげで得た力ですよ。魔力の強い女性とキスすると僕も女性になって魔法を使うことができるようになるんです」
「わたくしのおかげ? へ? 全く身に覚えが……」
「その話は後にしましょう。とりあえずあの猫をなんとかしないと――」
その言葉を聞いた途端、沙代子の眼の色が変わった。
「なんとかするって? ダメだよ、そんなの! せっかく生き返ったのに、子どもたちと会えたのに――」沙代子は必死な目で訴える。「ミミィだって、お母さんだって生き返りたいに決まっているよ! アリスお姉ちゃんだって、生き返って欲しい人が……」
雨が再び強くなった。
「沙代子さん……」アリスは彼女の傍に寄った。
刹那、静寂と共にペシッ! という音が響き渡る。しばらく何も考えることができない沙代子だったが、いつの間にか自分が平手打ちされていることに気がついた。
「お、お姉ちゃん?」沙代子は不思議そうな顔で見つめた。
「もういい加減にしませんこと? 死んだ者が生き返ったって、誰も喜びませんわ。ミミィはただ、子どもたちの姿を一目見たかっただけですわ」重々しい口調で、アリスは必死で涙をこらえていた。「沙代子さん、わたくしもあなたと同じようにお母様を亡くしたから、あなたの気持ちがよく分かりますの。お母様が死んだとき、そのことが信じられなくなって、できることなら生き返らせたいって……酷いときにはわたくしが死んでしまえばよかったとか思ったぐらいですわ」
「アリスさん……」
「でも、お母様が亡くなったときわたくしは自分のことしか考えていませんでした。今では後悔していますの。どうして子守唄を歌ってあげられなかったのだろう、どうしてお母様があの世で幸せに眠れるように祈ってあげられなかったのだろう、と。だからこそ、あなたにそういう思いをさせたくはありませんわ……」
アリスは泣いていた。
「お、かあさ……ん――」沙代子もいつの間にか大粒の涙を流していた。蘭も何故だか涙が溢れていたが、雨粒で洗い流した。
黙りこくる三人を尻目に、しばらくすると化け物は重い身体をよろよろと起こして立ち上がった。
「ミミィ、ごめんね、ごめんね、ごめんね――」沙代子は何度も謝り続けた。
「大丈夫、もう沙代子ちゃんの気持ちはミミィに届いているよ。あとは僕たちでなんとかするから、沙代子ちゃんは下がってなよ」
「う、うん……」弱々しく頷くと沙代子は蘭の背後に下がった。
「さて、どうしようか――」
少しよろめいている化け物をよく見ると、若干だが身体が小さくなっているのに気がついた。
「そういえば、ミミィの身体が少し小さくなっていますわね。今のミミィは負の魔力と魔力思念影の融合体……」アリスは何かを思いついたような顔をした。「先ほどの桐生さんの魔法に何度も弾かれたせいで融合された魔力が分離したということは――」
「どういうことですか?」
「正の魔力、つまりわたくしたちが普段使っている魔法のエネルギーをぶつければミミィから負の魔力が離れて無になりますわ。ただ、いかんせん負の魔力が強すぎますわ。わたくし一人の魔法では……」アリスは蘭を見た。「そうですわ!」
アリスが何か思いついたように蘭に近寄った。
「桐生さん、協力してくださいますわよね?」
「え? 協力って……」と蘭が返事をするのも聞かず、アリスは彼に顔を近づけた。
いつの間にか蘭は本日二度目のキスをされているのに気がついた。
彼自身、まさか彼女と口づけをする日が来るなどとは思わなかった。しかしそんなことを考える暇もなく蘭の身体が紅く光る。
前回のように身長が縮むなどということはないが、今回は最初に頭の上に二つ、獣の耳のようなものが生えだした。腰まわりが若干細くなったかと思うと、胸が今まで以上に大きく膨らみ、髪の毛は滝が流れるように一気に長く伸びた。衣服がずぶ濡れの制服から上下に分かれたレオタードに変化し、胸元に紅いリボンがあしらわれる。最後に手が猫のような肉球へ変わると光が徐々に消えた。
「あ、アリスさん……いきなり……」
「あら? キスなんて挨拶みたいなものですわ」
「それにしてもこの猫みたいな姿は……」八重歯がこぼれるほど口を大きく開けながら呆れる蘭。
「ま、まあ目には目を、猫には猫、ってことですわ。多分……」
「お兄ちゃん……可愛い」後ろで沙代子が顔を赤くしていた。
そんなやりとりをしている間に化け猫と化したミミィが襲い掛かろうとこちらに向かってきた。
「グズグズしている暇はありませんわ! わたくしに続いて詠唱を!」アリスはそう叫んだすぐ後に呪文を詠唱し始めた。「炎の精霊よ、竜巻となりて万物を焼き尽くさん……」
「炎の精霊よ、竜巻となりて万物を焼き尽くさん……」蘭も彼女に続いて詠唱した。
真っ白だった周囲に次第に紅い魔力の球が集合してくる。二人分の魔力があるためにまるで火中にいると思えるほど空気を紅く染め上げていった。
沙代子も唾を飲み込み、彼女らを見つめながら後ろに下がった。
「ブレイズトルネード!!」
蘭とアリスが同時に叫ぶと彼女らの周りに集まった魔力の球が炎へと変化し、渦巻きとなって一直線にミミィへと放たれた。
声も挙げずミミィは炎に飲み込まれて熱くもがき始める。数十秒、炎の竜巻がミミィを焼き尽くし次第にミミィの形が小さくなっていく。
しかしうまくいくと思っていたのも束の間だった。
雨が強くなり、強大かと思われた炎も互いに相殺をし始めていく。魔法自体は強力なもので雨などもろともしないものではあったが、それでも威力が弱まることに変わりはなかった。
「くっ、とんだ誤った誤算でしたわ……」
「僕も、もう……」二人は歯を食いしばって耐え忍んでいた。しかし着実に炎が弱まり、消えていく。
二人がこれまでかと思っていた、その時だった。
「そこを動くな!」
二人の背後から突然声が聞こえた。
刹那、二人の目の前に一人の高等部の制服を着た少女が現れてミミィに飛びかった。
「速水流、水鳴斬!」
彼女が手にした刀には水がうねるように巻きつき、その剣先をミミィの頭上を狙って斬りかかった。
ミミィは一瞬怯み、同時に少女は背後へと下がった。
「今だ! 恭治!」
少女が叫んだと同時に二人の背後に険しい顔をした恭治が現れた。
「いけええぇぇぇぇぇ!」
彼の手から巨大な光球が放たれる。
それは素早く沙代子の横、アリスと蘭の間を横切る。そして、勢いよくミミィに命中した。
命中した光によってミミィの身体が閃光を放ち、少しずつ小さくなっていく。次第に周囲に魔力の粒が拡散していき光は消える。だがミミィの姿も跡形もなく消えていた。
「桜さん? それに恭治、お前……」
蘭は淡い光と共に姿が戻っていった。
「蘭、今のは一体……」
「あ、まあ色々あってこういう芸ができるようになったんだよ。お前こそ、それは……」
力の抜けきった恭治のだらんとぶら下げた手の先にはハンドガン程度の無機質な銃が握られている。先ほどの光はそれによって放たれたものだと蘭は理解した。
「魔錬銃――」口を噤んだ恭治の代わりに桜が説明した。「綾沢財閥が開発した魔法の弾を撃ちだす銃だ。だからこいつが持っていたっておかしくはない」
「それにしても桜さんはどうしてここに?」
「私は『偶然』裏山に向かうこいつを見かけて、様子がおかしくて気になったから後をつけてきただけだ。そしたらこいつが倒れていて、肩を貸してなんとかここまでたどりついたというわけだ」
「『偶然』だなんて、あんたもホラ吹きですニィ」恭治の肩からひょっこりとギンスケが顔を出した。
「うるさい、黙れ」と桜はギンスケを殴った。
「ま、そういうことだ。悪いな、蘭、姉貴。遅くなっちまって……」恭治は疲れきった顔で謝った。
「恭治……」アリスも同じように疲れきっていた。「あなた、どうしてこんなところに?」
「決まってんだろ、姉貴が心配だったんだよ」そう言って恭治は沙代子を見つめた。「それと、あそこにいる幽霊さんもな」
「え? 幽霊?」
皆が不思議そうな顔をするのも気にせず、恭治は沙代子に向かって歩み寄った。恭治は優しい顔をすると、胸元へ彼女を包むように抱いた。
「ちょっと、恭治!」
その場にいた者は更に驚くが、彼を止めようなどとは微塵も思わなかった。少しだけ優しい空気が流れ、時が止まったようにさえ感じた。
沙代子の耳に、トクッ、と心臓の音が聞こえた。
「聞こえるか? 俺の心臓の音。実はこれさ、俺の母さんの心臓なんだ――」
「お母さんの?」
「ああ。貰ったんだよ、死んじゃった母さんのを。そして今でもこうして子守唄を歌い続けているんだ……」
トクッ、トクッと絶え間なく恭治の心臓の音が佐代子の耳に届いた。
そのリズムに合わせて、沙代子はいつの間にか子守唄を歌っていた。
いつの間にか雨が上がった。
蘭がふと瞬きをすると、恭治の胸中で歌を歌っていたはずの少女は影も形もなくなり、後に残されたのは泣きじゃくった恭治と、彼の周りに集まった魔力の粒だけだった。
「嘘……」
「まさかあの子も、魔力思念影だったのか……?」
恭治はその場に座り込んだ。
「そういえば……お母様が亡くなったことを知ったあの時も、恭治はわたくしのことを抱きしめてくれましたわね」アリスもまた泣いていた。「でも、一番寂しかったのは――誰よりも恭治だったのですわよね」
蘭と桜、そしてギンスケも、その場にいた者は皆泣くことしかできなかった。
雨あがりの空の下、皆の涙が地面を絶え間なく濡らした。
翌日には雨がすっかり上がり、久々の晴天になっていた。
「アリスさん、また子猫たちに餌をあげているんですか?」蘭はアリスに話しかけた。
「ええ、でももうすぐこの子たちとはお別れですの」
「どういうことですか?」
「この子たちを引き取ってくれる方が見つかったそうですの。先ほどこちらにいらしてお会いしたのですが、とっても優しそうな方々でしたわ」
「そうですか……」
蘭とアリスは少し寂しげに微笑みあった。
「よっ! お二人さん!」
昨日の涙はどこへいったのか、どこからともなくいつもどおりの恭治が現れ、蘭の隣にしゃがみこんだ。
「恭治、そういえばどうして沙代子ちゃんがもう既に亡くなっていることを知っていたんだ?」
「いや、さ……」恭治ははにかみながら答えた。「実は生前に一回だけ、あの子に会ったことがあるだよね――」
一瞬にして時が止まった。
恭治の突然な告白に蘭とアリスは一瞬口をぽかんと開けた後、「ええぇぇぇぇぇぇ!」と大きく驚いた。
「確かその時はお母さんが死んだばかりで、ひとりで寂しそうに公園のブランコに乗っていたっけ。それが気になって俺は後ろからあの子のブランコを押したんだ。あの子びっくりして俺のこと睨み付けたっけな」
「何やってんだ、お前は……」
「んでしばらく遊んでいるうちに仲良くなって、あの子も笑顔取り戻して――あの時もこないだみたいに最後に抱きしめて心臓の音聞かせて、そして子守唄歌ってあげたっけ」
「そんなことがあったんだ……」
「でもさ、しばらくして風の噂で沙代子ちゃんが亡くなったって事を聞いて、俺正直ショックだった。そりゃそうだよな、子守唄歌った後に永遠に眠っちゃったんだからさ」コッペパンを千切りながら恭治は話を続けた。「だからすっごいびっくりしたんだよ。ギンスケから卯月沙代子って名前を聞いたとき」
「それであんなに必死で裏山へ走ったのか」
「女の子を心配するのは当然だろ。まああの子はすっかり俺のことを忘れていたみたいだけどな。」恭治は誇らしげに答えた。
子猫たちははぐはぐとコッペパンにかぶりついている。それを黙って観察する三人の顔はどこか寂しげだった。
「あ、そうだ」そう言って恭治は懐から一枚の写真を取り出した。「これさ、沙代子ちゃんの親戚から預かってきたものなんだけど――」
恭治が取り出した写真を蘭とアリスは覗き込んだ。
そこに写っていたのは三歳ぐらいの沙代子かと思われる少女と、彼女を抱っこしている金髪の見知ったような顔つきの女性だった。
「ここに写っているのって、アリスさん?」
「えっ……」アリスは驚きを隠せなかった。
「いや、これは姉貴じゃないんだ。あの子が生き返らせようとしていたお母さんなんだよ――」
その言葉に再び沈黙の時間が流れた。
「そうですの……だからあの時、わたくしのことを――」
アリスは沙代子を叩いたときのことを思い出していた。確かにあの時彼女は一言「お母さん……」と呟いていた。
「あの時、きっと本当に母親に怒られている気分だったのでしょうね」
「母親思いの良い子だったんだよ。ただ母親を生き返らせたいって気持ちが強くて魔力思念影となって現れた、それだけのことだ」
「しかし、今回の件はわからないことだらけだよ。どうしてあの子は魔力の穴で人を生き返らせるなんて思ったんだろう? そもそもどうしてあの穴の存在を知っていたのかな?」
蘭が尋ねると、恭治とアリスは笑顔を取り戻して答えた。
「確かに気になりますが、もう考える必要はありませんわ」
「ああ、もう終わったこと。これでいいんだよ、これで――」
恭治はそう言って子猫を一匹抱きかかえた。
「なあ、俺の心臓の音、聞こえるか?」
恭治が呟くと、その猫は彼の胸中で眠り始めた。
その寝顔はとても無邪気で、とても安らかなものだった――