月夜の晩に 50音順小説Part~つ~
疲れた体にあたたかい湯は芯の奥までしみこむ。
やはりここの温泉の湯は格別だ。
職人気質な司は食べ物でも身の回りの品にしても自分のこだわりのある
気に入ったものしか使わない。
それは温泉も然りである。
最近は伝統工芸品になど興味を持たない人間が増えてきており売れ行きは下降気味
12年前に妻に先立たれて以来独り身で加えて年も年なのでどこか旅行に行くなど十数年ぶりである。
最後に旅行に行った先も確かこの温泉ではなかっただろうか。
だがあの頃と寸分の狂いもない景色が司の眼前には広がっていた。
目の前の風景はまさに風光明媚、山々が連なりその間に綺麗な満月が浮かび上がり
優しくこの虫の音色が僅かに聞こえる静かな空間を照らし出していた。
昔はよく妻とここへ来たものだ。
器量よしとは言えないが頑固な自分と連れ添うだけの忍耐力はありそれは人一倍強かった。
毎年ここに慰安旅行として来てたものの妻が体調を崩してそのまま亡くなるまで
入院中ずっとまたこの温泉に行きたいとうわ言のように呟き続けていたことを思い出した。
結婚してから献身的に仕えていた妻、そんな妻には悪いが一度っきり彼女を裏切ったことがあった。
それは結婚して間もないまだ二十代後半の若かりし頃だった。
当時、司は職人としては半人前で親方に教えを乞いながら技を学んでいた。
ある時親方に行きつけの飲み屋に連れてってもらった際に司はそこにいた飲み屋の女に
惚れてしまったのだった。
ボロくて職人ばかりが集まる辛気臭い飲み屋には似合わない美しく洗練された女で
動作一つ一つにどこかしら都会育ちなのを思わせる仕種があり聞き上手なのもあってか
普段男たちが口にできない悩みや苛立ちを上手く取り除いているようだった。
司もそれに漏れずその中の一人であった。
最初は女の優しさに癒されているだけであったのが徐々にそれは恋心へと変化し
女も次第に司へ惹かれてゆきいつしか二人は恋仲へとなってしまった。
度々二人は誰も二人を知る人のない遠い場所へ出かけることがあった。
若い司にとって女は息苦しい仕事場や結婚という枠組みにハメられたことを忘れさせてくれる
何事にもとらわれず自由にさせてくれる、そんな存在であった。
だがいつしか女は司に一言も言わず飲み屋を辞めどこかへと消えてしまった。
探そうにも女の行方を知る者は誰もいなかった。
もしやこのままの関係に苦悩し一人ずっと悩んでいたのではないか。
愛人という名のまま苦しめてしまった女にはとても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
女と過ごした時間は泡沫の如く儚いものであった。
女とも何度かここに足を運んだことがある。
二人で湯につかりただただ景色を眺める。
「綺麗ですね。」
「そうだな。」
そんなことを繰り返してずっと二人で入っていた。
半世紀近い過去の記憶へと跳んでいた司の心は瞼を開くことで今へと戻ってきた。
今 司の横にはその女もいなければ妻もいない、ただ一人だけである。
先程まで鳴いていた虫の音もすっかり聞こえなくなってしまった。
それがまたさらに哀愁を誘う。
体もすっかり温まりそろそろ出ようかと腰を上げた時若い女の声が聞こえた。
「綺麗ですね。」
湯気で姿はよく分からないが人がそこにいるのはなんとなくわかった。
「そうですね。」
湯気の向こうから声をかけてきた女がいることを全く気付かなかった司は
混浴風呂であるが若い女が入っているのなら遠慮しようと湯船から出て足早に退散しようとした。
「待ってください。こんなきれいな景色を一人占めするのは勿体ないですし寂しいです。
もうしばらくご一緒してくださいませんか?」
いきなりの誘いに戸惑ったが断る理由もないので逡巡した挙句再び湯船へと戻った。
「ここにはよくいらっしゃるんですか?」
「いいえ、随分と前に妻と訪れたきりでして。」
「では今回の旅行も久しぶりに奥様と来られたんですね。」
「いや妻は12年前に亡くなりましてここへは一人旅行なんですよ。」
「・・・そうなんですか。なんだかまずいこと聞いてしまったみたいですいません。」
「もう昔のことですからお気になさらないでください。そちらもお一人でいらしたのですか?」
聞いた後に野暮なことだと思ってしまい最後の方が尻つぼみになってしまった。
若い女がこんな山奥の人が来ない温泉にいるなんて誰かいい人と来たに決まっている。
「私も一人です。以前ここに何度か連れてきてもらったことを覚えていて
その時のこの月が照らす景色が忘れられなくて思い切って来たんです。」
「ここの景色と湯は格別ですからね。」
「はい。その人とも綺麗ね、そうだねってずっと同じことばっかり繰り返し言ってました。」
ふふっと笑う女が体を大きく揺らしたのか波紋が司のいるところまで伝わってきた。
「その人とは一緒に来ないのですか?」
先程の無遠慮な質問に答えてくれた女だったので今度の質問にも気軽に答えてくれるものだと
思っていたがいつまでたっても女からの返答はない。
「あの、すいません。言いづらいことでしたら答えなくて結構ですので・・・」
「あっ違うんです。その人のこと思い出してしまって・・・。
あの人とは不毛の恋だったんです。相手には奥さんがいて、けど私のことは真剣に好きでいてくれたし
私もこのままでも彼の傍にずっといたいと思っていました。」
女の言葉に昔の飲み屋の女が重なった。
まるで同じ境遇だ。
「私の家は財界では名の知れた家でして、厳しい教育を受けて小さい頃からお稽古事を教養させられ
とても窮屈な思いをしてたんです。で、ある時耐えられなくなった私は家出したんです。
その人とも家出した居候先の飲み屋で出会って最初はただのお客さんの一人だったんですけど、
なんだか彼といると心が休まるし普段頑固なあの人の心の弱さを知っていくうちに
だんだん愛しくなってしまったんです。」
司は女の顔を見たくてたまらない思いで向こうを見つめるが相変わらず湯気のせいで
うっすらとしか女の姿が分からない。
あの女のはずがないのだがあまりにも飲み屋の女と今目の前にいる女の話が似すぎている。
飲み屋の女は今頃はもう還暦を過ぎた老婦人だ。
湯気の先にいる若い女はさらに語る。
「だけどそんな幸せな日々も長くは続きませんでした。居場所を父に見つけられてしまい
そのまま無理矢理家に連れ戻されてしまいました。だからあの人に別れの挨拶も何も言えませんでした。
その後私はお見合い結婚させられそれっきり彼とは会っていません。」
司は何も言えずただ彼女の話に耳を傾けていた。
「・・・すいません、私の身の上話なんてつまらなかったですよね。」
「とんでもない。随分とお辛い思いをなさってきたんでしょうね。」
「私のことはいいんです。私が心配してたのはあの人のこと、何も知らせることも出来ずに
彼をところを去ってしまい今あの人はどうしてるか、幸せなのか、
それだけが気がかりでした。」
女の話が他人事のようには聞けず司は飲み屋の女にずっと言いたかった言葉をその女に向けて言った。
せめてこの女に言って自分の気持ちをすっきりさせたかった。
「きっとその人もどこかで幸せに暮らすしてますよ。あなたも自分の幸せを探せばいい。」
ずっとつかえていたものが外れた気がした。
今の夜空のように心には一点の曇りもない。
「その言葉を聞けて嬉しい。」
司はもしかしたら最初から気付いていたのかもしれない。
女の言葉と共に今までかかっていた湯気がすぅっと消えていき女の姿がはっきり視えた。
白いうなじが月夜に照らされ妖艶な美しい女を一層引き立たせた。
こちらを真っ直ぐ見る若い女は飲み屋の女だった。
女のふっくらとした唇が動く。
瞬く間に湯気が女を包み込み司がそちらに水飛沫を立てながら急いで向かったものの
もうそこに女はいなかった。
女がいたところには湯に綺麗な満月が映っていた。