第3章 すれ違う心、届きはじめる声
翌朝。
校舎の廊下には、夜の雨が残していった湿った春の匂いが漂っていた。
窓から差し込む光が白くにじんで見えるほど、空気は冷え切っている。
由希は、手に持った資料の重みを感じながら職員室へと向かっていた。
いつもと同じ時間、いつもと同じ足取り。
それなのに――胸の奥だけ、昨日からどこか落ち着かない。
(また、あの子……今日も、誰より早く来ているんだろうか)
その考えが浮かぶたび、胸の中心に薄い波紋が広がる。
急かすように、あるいは怯えるように。
静かに、しかし確かに。
玲奈はいつも、一番に教室へ入る。
まるで誰にも邪魔されたくないかのように。
人の気配を避けるように。
その姿は、由希には「避難」に見えていた。
学校という場所にいるための、ぎりぎりのラインを探しているような――
そんな繊細さがあった。
職員室の扉に手をかけた瞬間。
由希の指先が微かに止まる。
(……見に行こう)
朝の見回りは、教師なら誰がしても不自然じゃない。
ただ、それを理由にしてしまうのは自分でも分かっていた。
本当は――
ただ、気になるだけだった。
自分でも説明のつかない衝動が、足を廊下へと向かわせる。
教室の扉をそっと開くと――
まだ朝のチャイムも鳴っていない教室に、
玲奈がひとり、窓際の席で小さく座っていた。
光に背を向けているせいか、
輪郭が少し薄く見える。
背中は細く丸まり、
膝の上に置いたスマホを両手で包むように握りしめている。
(……やっぱり、いた)
由希は胸の奥が軋むのを感じた。
(あの子……昨日よりずっと、不安そうだ)
玲奈の体全体から、言葉にならない緊張が滲み出ていた。
それに気づいた瞬間――
トントン……トントン……
小さな、しかし確かな音が聞こえてきた。
机の端を人差し指で叩く音。
昨日から気になっていた癖。
「落ち着けない音」。
それが昨日の由希の印象だった。
でも、今日は違う。
リズムが、淋しさと期待の入り混じったような、
不安定なのにどこか“合図”に似た音になっていた。
(あれ……“待っている音”だ)
鳴ってほしい通知を待ちながら、
“来るはずの言葉”を心が探している。
そんな焦りと願いが混ざった音。
指先は小刻みに揺れ、
そのたびに玲奈の喉がほんのわずか震えているようだった。
(誰……?
あの子、誰の言葉をそんなにも……)
問いは喉までせり上がる。
だけど、その先を言うわけにはいかない。
教師としての距離。
守らなければいけない境界線。
それを越えれば、
きっと「勝手な踏み込み」になってしまう。
だからこそ、
言えない。
聞けない。
ただ――
胸の中のざわめきだけが、静かに大きくなっていく。
玲奈の世界のどこかに、
“誰か”が存在している。
その人は玲奈を支えているのか?
それとも、寄りかかってしまっているだけなのか?
どちらなのかは、まだ分からない。
だけど確かなのは。
(あの子……誰よりも誰かを求めてる)
その孤独は、
由希の目には、あまりにも――痛々しく映った。
そのころ。
玲奈のスマホが、小さく震えた。
画面には、いつもの名前。
ちゃーん
胸の奥がかすかにあたたかくなる。
ゆらゆら:ちゃーん、今日ね
ゆらゆら:朝起きたとき、胸がぎゅってした
送った瞬間、玲奈は指を止めた。
“ぎゅってした”なんて言葉、
現実では誰にも言ったことがない。
すぐに返事が届く。
ちゃーん:ぎゅってするのはね
ちゃーん:誰かに会いたいときの心臓だよ
「会いたい」
その二文字に、玲奈の心がびくりと揺れる。
ゆらゆら:誰って……
ゆらゆら:誰なんだろう…
送ってから、じっと画面を見つめた。
心臓の鼓動が、さっきよりも早い。
(……誰に、会いたいんだろう)
ちゃーん?
クラスの誰か?
昔仲が良かった子?
どれも違う気がする。
(……なんで、“ちゃーん”の言葉ってこんなに安心するんだろう)
顔も知らない。
声も知らない。
でも――心の奥の部分だけ、そっと触れてくれるような気がする。
気づけば、胸の締めつけが少しだけ和らいでいた。
そのとき、また通知が光る。
ちゃーん:ゆらゆら。今日さ
ちゃーん:学校で1つだけでいいから
ちゃーん:心が「楽」になること、探してみて
ちゃーん:小さくていいよ
“楽になること”。
玲奈は読んだ瞬間、まぶたをぱちぱちと瞬いた。
(楽になること……そんなの、今まで考えたことなかった)
学校は“耐える場所”。
空気みたいに過ごすことが一番の正解。
目立たないことが唯一の安全。
――そう思い込んでいた。
だから、「楽」を探すなんて発想はなかった。
(でも……小さくていいなら)
ほんのすこしだけ、胸の中に灯がともる。
薄くて頼りないけれど、確かにあたたかい光。
玲奈はゆっくり天井を見上げた。
学校のことを考えて胸が軽くなるなんて、初めてかもしれない。
(やってみようかな……ほんの少しだけ)
それは、小さな挑戦。
一歩だけ前へ進む勇気。
その一歩を押してくれたのは――
やっぱり、“ちゃーん”の言葉だった。
ほんの数行の文字が、
玲奈の世界を静かに変えようとしていた。
昼休み。
ざわめきに満ちる教室の中で、玲奈は黙って弁当を広げていた。
机の上には、色とりどりのおかずではなく、
簡単に詰めてきた白いご飯と卵焼きだけ。
周りの笑い声は聞こえるけれど、
どれも自分とは別の世界の音みたいだった。
(“楽になること”……見つけられるかな)
そんなことを考えながら箸を動かす手は、
どこかぎこちない。
職員室へ戻る途中、教室をのぞいた由希は、
その様子を偶然――いや、もはや“必然”のように目にしてしまう。
窓のそば、ひとりぽつんと座る玲奈。
俯きがちで、周囲に溶け込もうともしない。
(誰とも話していない……)
昨日も見たはずの光景なのに、
胸に刺さる重さが違う。
(どうして、こんなに気になるんだろう)
教師として、見守るのは当たり前だ。
だがこれは、もっと違う何か。
名前のつかないモヤモヤが、
胸の奥でふくらんでいく。
(あの子に声をかける“理由”、本当にないの?
ほんの一言でも……救われるかもしれないのに)
由希の指先が、教室のドアにつかえたまま止まる。
教師の立場。
距離感。
線を越えてはいけないこと。
それらが頭の中でぐるぐると回る。
けれど同時に、別の声が囁く。
――放っておけない。
その声のほうが、ずっと強かった。
(……伝えたい。“見えているよ”って)
自分でも驚くほど真っ直ぐに、
由希はそう思った。
胸の奥で湧いた思いを押し込めようと、
由希は出口のドアに手をかける。
そのとき。
コト――
小さな、けれどはっきり響く音。
玲奈が箸を手から落とした音だった。
顔を上げた玲奈の瞳は、
ほんの一瞬、弱く揺れていた。
由希の心臓が、とくん、と跳ねる。
(……今、行くべきだ)
気づけば、足がもう動いていた。
迷いも計算もない。
ただ――あの子の隣の空気を、そっと埋めたくて。
由希はまっすぐ、玲奈の席へ向かっていた。
昼休みが終わる少し前の教室。
ざわざわとした空気の中で、玲奈の周りだけがぽっかりと穴のように静かだった。
由希が歩くたびに、クラスメイトたちは
「あれ、どうしたの?」
という視線を投げる。
でも由希は気にしなかった。
気にしないふりをした——のほうが正しい。
胸の鼓動が速くて、
自分の足音さえ大きく響いているように聞こえた。
玲奈の席の前に立つと、
彼女は小さく肩を揺らして顔を上げた。
その表情には驚きと、
それよりも先に“構え”があった。
また何か言われる。
また傷つく。
そんな覚悟のようなもの。
由希は喉の奥がぎゅっとつまるのを感じた。
でも——言わなきゃ。
「…あのさ」
声は思っていたよりも小さくて、震えていた。
玲奈は返事をしなかった。
ただ、ゆっくりと瞬きをしただけ。
それでも由希には、それが「聞いてるよ」という合図に見えた。
「昨日の…その、ノート……落としてたよ。届けたの、私」
玲奈の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「……ありがとう」
その声はかすれていた。
でも今まで聞いた玲奈の声の中で、いちばん“人”に向けられていた。
由希の胸の奥が温かくなる。
もっと何か言いたかった。
大丈夫?とか、困ってることある?とか。
でも…
言葉がうまく口の先まで出てこなかった。
だから、ぎこちない笑顔を残して席に戻ろうとした。
放課後——
由希は図書室の前で偶然、玲奈の声を聞いてしまう。
「ちゃーん、今日もありがと…」
小さな声。
まるで幼い子が、誰にも見つからないように宝物へ話しかけるような。
視線の先には、小さなクマのキーホルダー。
玲奈が鞄に隠すようにつけていたもの。
ちゃーん——
由希はその呼び方を、初めて知った。
玲奈はクマを両手で包むように持って、
そっと頬を寄せる。
その瞬間だった。
玲奈が、微笑んだ。
とても短くて
消えてしまいそうな笑みだったけれど、
確かに、優しい光がそこに宿っていた。
由希は驚いた。
同時に、胸がきゅっと締めつけられた。
(こんな顔…するんだ)
言葉にできない感情があふれ、
視線をそらすことができなかった。
——職員室
「最近、佐伯さんの様子…何か気づいたことはある?」
帰りの職員室前で、
生活指導の川原先生が由希に声をかけた。
由希は一瞬、答えに迷った。
玲奈のあの微笑みを思い出す。
あんな笑顔を見せる子が、
教室ではひとりぼっちに見えるなんて。
「…少しだけ、話しました。でも…まだよくわからなくて」
先生は柔らかく頷いた。
「あなたみたいに、気にかけてくれる子がいるなら、それだけで救われる子もいるよ」
その言葉が、由希の胸に静かに沈んだ。
(私…何かできるかな)
まだよくわからない。
けれど、
放課後に見た玲奈の小さな笑顔は、
由希の中で確かに“答え”になっていた。
そして
由希は気づいていない。
自分の一言が、
玲奈の心の扉をほんの少しだけ開き、
孤独の温度を変え始めていることを。
玲奈の小さな変化も、
由希が陰ながら見守っていることも、
まだ誰も知らなかった。
自分が今まさに探し続けていた“誰か”。
胸がぎゅっと締めつけられるたびに、
心の奥で名前もないまま呼んでいたその存在が――
もうすぐ、
ほんの数歩先まで来ていることを。
窓から差し込む光にかき消されるほど静かに、
それでも確かに、
ひとりの大人が彼女へ歩み寄ろうとしていた。
(誰かに気づいてほしい)
(ほんの少しでいい)
玲奈が無意識に願っていたその「少し」が、
今まさに届こうとしていた。
けれど。
――その奇跡のような瞬間を、
玲奈はまだ知らない。
そして、由希もまだ知らなかった。
由希はただ気になったから。
放っておけなかったから。
ただそれだけの理由で向かった一歩が、
いつかふたりの心を深く揺らし、
運命の軌跡を静かに変えていくことを。
あの日の昼休み。
教室のざわめきの中で踏み出した、
ほんの小さな一歩。
それは、
のちにふたりの世界を大きく動かす――
最初の音だった。
毎日のように胸の奥で渦を巻いていた“言葉にならない孤独”が、
ほんの少しずつ、形を変え始めていることに。
自分の中で当たり前になっていた静けさ――
廊下でひとり歩く足音、
教室のざわめきの外側に立っているような感覚、
声を出す前に喉の奥でつっかえる、あの重たい空気。
それらのすべてに、
変化の兆しが生まれつつあることを、
玲奈はまだ知らない。
――それは本当に、わずかな気配だった。
でも、冷たい風にまぎれるように、
それは確かにそばまで来ていた。
玲奈自身が無意識に閉ざしてきた心の扉に、
そっと触れるような、温かい気配が。
そして。
その“温かさ”の持ち主である由希も、
まだ何も知らなかった。
たったひとつの視線。
小さな勇気。
放課後のほんの数秒の出来事。
そんな些細なものが、ふたりの運命を大きく動かすなんて。
まるで、まだ何も始まっていないように見える日常の中で、
運命の歯車は音もなく回り始めていた。
ふたりの物語は、
すぐそこまで来ていた――。




