case06 ある食堂の一幕
「はぁ……」
テーブルの上に置かれたきつねうどんを前に、スマホを眺めて溜息を一つ。
画面に表示されているメッセージアプリには、『ごめんなさい』のスタンプが並んでいた。
少々気分がささくれる出来事が有ったので、仲間連中を誘って昼飯ついでに愚痴でも聞いてもらおうと思っていたのだが、どいつもこいつも都合が悪いとの事。
事情を分かっている連中が何人か、夜なら都合がつくとの事なので、『いつもの居酒屋に集合』とメッセージを送ってアプリを閉じる。
軒並み昼飯を断られた時は、『友達甲斐ねぇな』などと思ったりしたものだが、こうして自分の用事を後回しにしてまで都合をつけて夜には集まってくれるあたり、有難い事だと思い直す。
実に人の心とは斯くも身勝手な物なのである。
スマホをテーブルに放ると、やや伸びてしまった感のあるきつねうどんに取り掛かる。
食欲は無いが、何か入れないと体に悪いと注文した胃に優しそうなきつねうどんではあるが、それすらも積極的に摂取する気に慣れず、ついつい箸の先で弄んでしまう。
食い物で遊ぶなどお里の知れる行為であるし、普段であればそのような事はしていないのだが、今は心の緊急事態宣言中でもある。
多少の行儀悪さは御寛容頂きたいと、心の中で誰ともなくそう言い訳しながら、片頬着きつつ琥珀色の汁の中に揺蕩う肢体を箸で追いかけていた。
「ちょっとアンタ!」
どれくらいそうして居たろうか、ふと人影が差したかと思えばそんな声がかけられる。
顔を上げてみれば、俺の事を見下ろす視線が二つ。
居丈高に人を見下ろす視線が一つと、もう一つは……、その後ろに隠れるようにこちらを窺っていた。
「げっ」
思わずそんな声が漏れてしまう。
慌てて周りを見渡せば、ごった返していた筈の食堂は人も疎らで、自分がどれだけの時間ここで管を巻いていたのかと少々愕然としてしまった。
「ちょっと! 何処見てるのよ!」
そんな俺の様子に業を煮やしたのか、再び居丈高な声が降り注ぐ。
仕方なく声の発生源を見てみれば、俺に許可を取る事も無く対面の席に声の主が腰掛ける所だった。
余談だが、もう一人の人物はその隣に腰を掛けようとしていた。
「何の用だよ」
いかにも不愉快ですといった体で目の前の人物に声をかける。
隣の人物には視線も向けてやらん。何より向ける理由がない。アウト オブ 眼中というやつである。
「そんなの言わなくてもわかるでしょ。この子の事よ!」
いや、そうだとは思っていたけどやっぱりか……。
甚だ面倒臭ぇな。
「その人がどうかしたのか? つか、相手の許可も取らず、挨拶も無しに相席するとか、最低限の礼節も弁えない様な民度の低い人間とは御一緒したくないんでとっとと森に帰ってくんねぇかな」
礼儀知らずに好意的で無ければならない理由も無し。不機嫌さを隠す事もせずに相応の対応をする。
目の端に映った『その人』呼ばわりされた人物が一瞬体を震わせたような気もするが、俺には関係の無い事である。
「そんな事どうだっていいわよ! それよりもこの子の事よ! アンタ、この子と別れたってどういう事よ!?」
―― あらやだ。この人ったら他人の話を聞かない猪型正義厨だわ。
思わずオネェ言葉で脳内会話してしまう。
「どういう事も何も、今お前が自分で『別れた』言ったろ? 比喩でも隠語でも無くそのままの意味だよ。それが理解出来ないなら小学校から国語やり直して来てくれ」
殊更馬鹿にしたように申し上げる。いや、『したように』って言うか、明確に馬鹿にしているのだけれど。
「そうじゃ無くて、何で別れたのかって事を聞いてるのよ! アンタ人の事馬鹿にしてるの!?」
煽られた焚火が気勢を上げる。
面倒臭ぇ奴と思っていながらつい煽ってしまった。
我ながら悪癖だと思うが、後悔しても後の祭り。
これが流行りの『もう遅い』ってやつかと少しだけ反省する。
「何でって言われてもなぁ。俺はもう関わり合いになる気は無いから、『そっちの人』から聞いて無いなら、先にそっちに聞けとしか」
そう言って、斜め前にちゃっかり腰掛けている『その人』にちらりと視線を向ける。
―― いやいや、なんでそっちが被害者みたいな顔してんのよ。
まぁ、こちとら心理学者でもメンタリストでもないから、『申し訳なさそうな顔』と『被害者面』の区別がついていないだけかもしれないが、今更どうも良い話。
「聞いたわよ! でもさ、たかが一回の浮気で別れるとか、アンタ男のくせにちっちゃ過ぎない?」
―― 一体全体、ナニが小さいと仰るのか、ちょっと確認させて頂いてもよろしいか?
心の中で御下品な返しを入れるが口には出さない。態々コイツとの会話を広げてやる必要も無い。
―― ところで、口に出さないなら何処にナニを出すんですかね。
なんて更に下品な脳内会話が浮かぶ当たり、俺も達観しているのか、将又現実逃避しているのか……。
「一回だろうが百回だろうが浮気は浮気だろ。こっちではもう結論出てんだから、赤の他人が横から差出口たたいてんじゃねーよ」
取り敢えず一般論で返答。まぁ、これで納得するような人間なら、そもそもこんな所まで来て御高説垂れ流すような事はしないだろうけれど。
「アタシはこの子の親友よ! 他人なんかじゃないわ!」
―― デスヨネー。ところで、このやたらと『親友』をアピールする人種ってのはなんなんだろうね。実は友達居ない不安の裏返しかなんかじゃねーのかな。
そんな似非心理学を脳内で展開する。うん、これも一種の現実逃避だな。
「だったらその『親友』とやらを構ってやりゃあ良いじゃねぇか。今回の件で思う所があるんだったら、お前のやるべき事はその親友様を諭すか、精々慰める事であって、望まれもせずに無関係の人間の平穏を乱す事じゃねぇだろ。違うか?」
こちとら別に愉快な事をされている訳でも無し。軽く睨み付けながら目の前の唐竹頭に言い返す。
「アンタこの子の彼氏でしょ! 無関係じゃないじゃない!」
―― 自分に都合の悪い所はスルーですか、そうですか。
「『元』彼氏な。日本語は正確に使ってくれ」
呆れた声で指摘してあげる。
「『元』だろうが彼氏は彼氏でしょ! アンタ好い加減にしなさいよ! 大体、この子の何処に不満があるのよ! 見た目だって悪くないし、家庭的だし、ちょっと魔が指して浮気したかもしれないけど、それが無ければアンタになんて勿体ない位の彼女じゃない!」
中には脳じゃなくて引火性のガスでもつまってんのかね。と思う程に容易く激昂して顔を真っ赤にしている唐竹頭。
「全然違ぇよ阿呆。そもそも好い加減にするのはそっちだろ。お前の親友とやらは浮気するような人間で、器の小さい元彼氏はそれを許容出来なくて別れた。それだけの話しだろ? お前の親友とやらもそんな器の小さい人間と別れられて良かったじゃねぇか」
疎らとは言え、他人の目がある公共の場でこんだけ大声出されれば注目も集める。少しはこっちの迷惑ってもんを考慮してくれませんかね。
「それと、パチンカスのサイマーやアル中にも言える事だが、『それさえ無ければ良い人』ってのは、言い方変えれば『それが有るから駄目な人』って事なんだよ」
―― 二回は言わないけれど、これ非常に大事なところです。
「話を逸らさないでよ! この子も悪かったかもしれないけど、浮気なんてされる方にも原因があるじゃない! 元はと言えばアンタがこの子を寂しがらせたの――」
逸らしてなんていないんだけどなぁと思いながら、喚き立てる唐竹頭を右手で制して黙らせる。
「な、何よ……」
その質問には答えず、右手は上げたまま、左手でスマホを操作し、頑張って覚えたフリック入力でとある物を検索する。
「はいこれ」
お目当てのものが表示されたスマホの画面を突き出しそれを確認させる。
「……な、何よコレ!」
それを確認して、理解した唐竹頭がまたもや激昂する。
一応、理解出来るだけの知能は有ったらしい。
「アンタらみたいのが言いそうな事ってのは既にテンプレ化されてんだが、その様子だとまんまその通りだったみたいだなぁ。んで、見ての通りそれに対する回答も用意されてる。これ以上何か喋りたいんだったら、ここには書かれていない事にしてくれ。時間の無駄だから」
提示してみせたのは有名な例のコピペ。
所謂模範解答と言うやつである。
「アンタ何様のつもりよ!」
――俺様のつもりですが何か? で、確かにそれは書かれていないな。
心の中で苦笑しながら、丼に置いてあった箸を手に取り、奴の目の前に転がしてやる。
「何のつもりよ……」
俺の意図をはかりかねて、唐竹頭が訝しげな声をあげる。
「そもそもさ、浮気する人間なんてのは便所に落ちた箸みたいなモンなんだよ。それも、誰が使ってるかもわからん公園とか駅の公衆便所な」
転がした箸を手に取り、再び丼に添える。
「いくら『綺麗に洗いました』『消毒しました』『衛生的に問題ありません』なんて言われたところで、また使おうなんて思わんよ。使える人は居るかもしれないが、少なくとも俺には無理だ。『二度と落としません』なんて言われたところで、既に落っこちてる事実は変えようも無いんだよ。使おうとする度に、『この箸は便所に落ちてたんだよなぁ』なんて考えたくねーしな」
そこまで言って、唐竹頭の隣に視線を移す。
さっきから一言も口を開かずにこちらを窺っているソイツに声をかける。
「だから、いい加減俺に絡むの止めてくれねーか? 俺にとってアンタは既に不愉快な存在でしかねーんだわ。彼氏いるのに他の男とヤるとか、そっちの男の方が好きなんだろ? だったらその男と堂々と付き合えば良い。とっとと俺から離れた所で勝手に幸せになってくれ。尤も――」
我ながら酷い事を言う自覚はあるが、好い加減ウザくてしょうがない。堪忍袋の緒は切れる為に有るんだぜ?
「―― 便所の暗がりでコソコソしてたゴキブリが、日の当たる所に出て来たところでカブトムシになる訳じゃねーけどな」
言葉を吐き捨てる。こんだけ言われてま理解出来ないようなら、また色々考えないとだなぁ。などと、頭の片隅で酷く冷静に考えながら。
「アンタ! よくそんな酷いこと言えるわね!」
―― 自覚は有るんだから、態々言われるまでもねーよ。
「言わせてんのはアンタらだろ? 頼みもしないのに勝手に寄ってきては妄言垂れ流しやがって。実は言葉責めされたくて辛抱たまらん欲しがり屋さんか? 俺にはそう言った趣味は無いから、そういう意味でも二度と俺に近寄んな」
言いたい事は言ったし、話は終わりとばかりにスマホに視線を落として適当にブクマをザッピングする。
流石にこれだけ言われれば、無駄な事だと理解するだろうと思っていたのだが……。
「アンタ! 話はまだ終わってないわよ!」
なんだかまだ、席を立たずにテーブルを叩いている唐竹頭。マジですか……。
「こっちは最初っから話す事なんて無いんだよ。好い加減周りにも迷惑だからとっとと森に帰ってくれ」
幾度目かになるかもわからない、うんざりした声で答える。
「るっさいわね! 兎に角アンタは、小さい事言ってないでこの子とヨリを戻せば良いのよ! 態々私が頭を下げて頼んであげてるのよ!? 浮気位誰でもするもんだし、そんなものを乗り越えるのが愛ってもんでしょ!」
―― いや、頭下げてねーじゃん。よしんば下げたとして、お前の頭に1ジンバブエドルの価値もねーんだが……。
「ほーん。なら、アンタは浮気されてもそれを許せんのか? アンタなら浮気されても乗り越えられるってのか? 当然できるんだよな? 人の事を小せぇだのなんだ言っておいて、まさか自分は出来ませんなんて言わねーよな?」
軽く挑発してやる。
「当り前じゃない! 私は彼氏が浮気したって許すわよ! それも含めて彼氏だもの、人を好きになるってのはそういう事なのよ!」
うわ~、言い切ったわ~。
なんと言うか、自分に酔ってる感が凄くて此処まで臭ってきそうです。マジお腹イッパイ。
「だ、そうだ。良かったな、お前の『親友』とやらは許してくれるらしいぜ」
斜め前の人物に視線を走らせながらそう声をかける。
「えっ……?」
言われた事の意味を理解出来ず、困惑した声をあるが、そういやコイツ、今日初めて声を出したんじゃないのか?
「どういう事よ?」
唐竹頭が訝しげな声をかけてくるので、本日一番の爆弾を投げ込んであげる事にする。
「あれ? 知らなかったの?」
とは言え一回すっとぼける。焦らしプレイの一環と言えるかもしれない。
「だから、何の事よ!」
「コイツの浮気相手、アンタの彼氏だぜ?」
「は……?」
「え……?」
俺の言葉に、場が一瞬静まり返る。
「だから、コイツが浮気してた相手、俺からしたら間男か? それが、アンタの彼氏だって言ってんだよ。いや~アンタにも見せてやりたかったわ。どっちの口とは言わないけれど、実に美味そうに咥え込んでたぜ?」
軽くおどけながら語ってやれば、その言葉を理解したのか、唐竹頭の肩がワナワナと震え始める。
「アンタぁっ! 一体どういうつもりよっ!」
次の瞬間、大声で喚きながら隣に座っていたソイツに詰め寄る。
「最低! 信じらんない! 普通親友の彼氏と浮気なんてする!? どう責任取ってくれるのよ! アンタもアイツも絶対許さないから!」
「えっ……ちがっ……わたっ……」
あまりの剣幕と罵倒の嵐に、言い訳の言葉も上手く出て来ないらしい。
と、思いながら観察していると、一頻り罵倒して満足したのか、スマホを取り出すと何処かへ電話をかけ始める。
「ちょっとアンタ聞いたわよ! 私の友達と浮気してたんだってね! よりによってあの子と浮気とか最低! 信じられない! 絶対に許さない! アンタとの付き合いもこれまでね! こっちから願い下げだわ!」
一気に捲し立てると、電話を切ってしまう。
―― すげーな、まさかそこまでするとは……。この俺の目をもってしても見抜けなかったわ……。
「まぁ、落ち着けよ」
電話を切って尚憤懣やるかたないといった感じの唐竹頭を宥める。
「はぁ!? よりによって彼氏が浮気してたのよ!? しかもこの子と! 落ち着ける訳無いでしょ!? なんでアンタに指図されなきゃいけないのよ!」
―― デスヨネー。俺の蒔いた種とは言え、ちょっと引いちゃうな~
頭の隅にそんな事を思い浮かべつつ、取り敢えずは種明かし。
「それ、嘘だから」
「……は?」
俺の言葉を理解するのに、やや時間を要するらしい。うん、勘の悪い子は好きよ。
「だから、嘘。ソイツが実際ヤってるとこなんて見てねーし、そもそも俺、アンタの彼氏なんて知らんわ」
肩を竦めながら種明かしをしてあげる。
そもそも、実際にヤってるとこなんて見た日には俺、立ち直れんわ。今だってギリギリ致命傷で済んでるのに、そんなん見た日には確実に致命傷だわ。
―― あれ、どっちにしろ致命傷じゃね? なんか涙が出そう。だって男の子だモン!
なんて益体もない事を考えていると、
「アンタぁぁぁぁっ! 一体どういうつもりよ!?」
本日一番のツングースカ大爆発である。
「まぁそう怒りなさんな。軽い冗談じゃねーか」
軽く手で仰ぎながら答える。この場合、熱を冷ますというより火を煽る為の風を送る事にもなる動作ではあるが。
「冗談って……。言って良い事と悪い事が有るでしょっ! そんな事もわかんない訳っ!?」
「まぁ、そりゃ御尤もな御意見なんだけどさ……だが」
人差し指を一本立てて、それを向ける。
失礼な行為かも知れないが、別にコイツらに敬意を払う必要も無いしな。
「間抜けは見つかったようだな」
頭のなかでは例の効果音が鳴り響いている。ちょっとドヤ顔しても良いですかね。
「どういう事よ?」
相変わらず俺の言葉が理解出来ないらしい。前言撤回、勘の悪い子は嫌いです。
「だってさ、さっきまで『浮気したって許しちゃう!』とか『浮気するところも含めて彼が好きなの!』とか調子の良い事言ってた人間がだよ? 俺の言葉の、その真偽も確認せずに、親友を罵倒するわ彼氏に一方的に別れ話するわ、これが間抜けで無くてなんなのかね? いやー面白いモン見せて貰ったわ」
そう言って、『ブラボー』とばかりに拍手してみせる。
「え……嘘……わたし……」
自分が何をしたのかようやっと理解したのか、力無く椅子に座り込んでしまう。
心なしか目も虚ろだ。
「まぁ、そんな訳だから、アンタら揃って俺に関わらない様にしてくれ」
盆を持ってそそくさと席を立つ。
結局、口にする事無くすっかり伸びてしまったうどんと、これを作る為に関わった全ての人に心の中で謝罪しながら、返却口に盆ごと返す。
振り返れば、件の二人は相も変わらずあの席に座り込んだままだった。
なんだか余計な厄介事を背負い込んでしまった様な気がして、そんな嫌な予感に頭を振りつつ、
「揚げ出し豆腐食いてぇなぁ……」
現実逃避の為、今夜の飲み会に思いを馳せるのだった。
作中において、どこかの掲示板やらで見かけたような言葉がありますが、
実際『よくこんな返しが出来るなぁ』などと感心してしまう事があります。
願わくば自分もそんなクリエイティブ()な人間でありたいと思う次第。
※そんな事態にならない事が一番良いに決まっているのですが、万一の場合、という意味で。
念の為ですが、私は『絶対離婚推奨派』ではありません。
事情が有る事もあるでしょうし、人情もあるでしょう。
そうしたものを加味した上で、当人がそう判断したのならそれを尊重すべきだと思っています。
中には『離婚! 離婚! とっとと離婚!』と囃し立て、しまいには再構築を選択した人間を
口汚く罵るような輩も見受けられますが、まぁ、そう言った手合いは結婚どころか恋人も居ないんだろうなと思っています。
あとは、自分の狭い知識だけを頼りに、やたら『嘘松、嘘松』と騒ぎ立てる連中ですね。
無粋な事極まりない。
ああいった場では、全て事実と受け止めて、全力で踊るのが紳士の嗜みと言うものですよ。
尚、作中の人物は別に結婚してないけどね。というのを、念の為に明記しておきます。
お読み頂き有難う御座いました。