二話 逆行
目の前の光景に驚きを隠すことができない。
男の顔は鳩が豆鉄砲を食らったような、或いはそれ以上呆気に取られた顔をしている。
それもそのはず。
男が見た最後の映像は、燃え盛る巨大な咥内が自分に迫り来る刹那の出来事。男の旅もそこで終わる――はずだったのだが、どういうわけか意識はあるし体も動く。
異世界転生だとか、異世界転移のような類かと疑うも、この空間には見覚えがあった。
広々とした厨房で、皆が忙しなく働いている。
火柱の上がる焜炉で中華鍋を振る者、巧みな包丁捌きで食材を仕込む者、器用な手つきで素早く料理を盛り付ける者。
どれもこれも、以前は当たり前だと思っていた日常だ。
いつの間にか、服装も飲食フリーター時代に支給されていた制服に着替えられている。懐かしさと理解し得ない状況に、男はその場から一歩も動けず立ち尽くしていた。
「敬千羽! 何してんだお前!」
喧騒たる厨房に一際目立つ怒声が飛ぶ。
ビクッと一瞬身体を震わせ、敬千羽と呼ばれた男は声の方向へと視線を向ける。そこには、フリーター時代長年お世話になっていた料理長の姿があった。
齢五十になるとは思えない程肌は若々しく、凛々しい顔立ちをしている。黒地に金色の刺繍が施されたコックコートを着こなすその姿は、まさに料理人そのものだ。
「河崎さん......!? あの時死んだんじゃ......」
思わず目に涙が浮かぶ。
そんな男の顔を見て、料理長の眉間に寄せた皺が益々深くなる。
「今からディナー帯のピークに差し掛かるってのに、何ボーッと突っ立ってんだ。 今日ちょっと変だぞ」
「すみません......」
何のことか状況を把握しかねているが、反射的に謝罪し、目元に溜まった涙を袖でぐいっと拭う。その行動を見て、料理長は三度表情を変える。
「おいおい何も泣くことはないだろ、言っとくけどこれはパワハラじゃないからな?」
呆れているような、焦っているような、何とも言えない顔をしているが、男には逐一変わる表情の変化が何より楽しく感じた。
ははっと思わず口元が緩む。
「全く、急に動きを止めたかと思えば泣いたり笑ったりおかしな奴だ。とりあえず自分の仕事はきっちりこなせよ」
そう言い残し、料理長は再び自分の持ち場へと戻っていく。
――あぁ、これはきっと夢なのだろう。
あの時、奴に喰われたのは確かだ。
それだけは鮮明に覚えている。
そして、最後に聞こえた謎の声も。
『強くなれ』か......。
「敬千羽さんが叱られるなんて珍しいですね。何か悩み事ですか?」
またも懐かしい声が思考を現実に引き戻す。
振り返ってみれば、優しい微笑みで瞳を覗き込むように見つめられていた。
「私でよければ相談に乗りますよ?」
見るからに手入れの行き届いた、艶のある長い黒髪を耳に掛ける。何故か前傾姿勢の彼女は制服の第二ボタンまで外しており、豊満な谷間がはっきりと露出していた。
「い、いや、特にそういうわけじゃないんだけどな......ほら、そんなことより仕事仕事!」
目のやり場に困り、視線が泳ぐ。
古谷美姫――彼女はここでバイトしている大学生だ。
敬千羽の記憶では、彼女も十年前に亡くなっている。
アイドル顔負けの清楚系美女で、性格にも非の打ち所がない――が、いつも敬千羽をあの手この手で困らせるような茶目っ気を見せていた。
今時の大学生はこうなのだろうか、と過去に幾度となく彼女には困らされていたことを思い出す。それも満更ではなかったのだが。
懐かしい日常に心が踊る。
いつまでもこの夢が続いて欲しい、と敬千羽は切実に願う。
――――その時、厨房の扉が壊れんばかりの勢いで開かれた。
まるで男を夢から覚ますように。
青ざめた顔でバイトの男子高校生が転がり込む。
「そ、外に! 外がヤバイんだって!」
悲鳴を上げるように入口を指差し、焦点の合わない目は何かに怯えているようだった。
この光景には既視感がある。
いや、見覚えがあるなんてものじゃない。
これは......"過去を繰り返している"。
表からガラスの砕け散る音が聞こえ、防犯用の警報が店全体に響き始めた。尋常ではない事態に厨房内も騒然とする。
何から何まで全く同じだ。
人の動きも、ガラスの割れる音も、警報のタイミングすらも。
ここまで一つのズレも生じていない。
ふとカレンダーの日付を見る。二〇五〇年一二月一日。
十年前、大災厄と呼ばれたあの日だ。
世界が改変され、多くの人が死に、流れる血が雨のように降り注いだ。ここが夢であれ現実であれ、あの惨劇をもう一度繰り返すわけにはいかない。
壁に立て掛けられた牛刀を手に、勢いよく厨房を飛び出す。背中越しに古谷さんと料理長の呼び止める声が聞こえるが、足を止めることはない。
――――今度こそ守ってみせる!
確かな誓いを胸に秘め、手にした牛刀に想いを宿すよう力強く握り締めた。