ジル・ド・ラヴル
ドミニクがミシェルに捕まった時、詰所から走り出す男がいた。
湿地帯の詰所から森を抜けて、一心不乱に走る男がいた。
足がすくみそうになるも男は叫び声をあげながら走った。
男はドンレムの村に戻った。
一刻も早くあいつが来たことを村中に知らさなければ。
「鬼だぁあ! 鬼がきたぞぉおおおお!」
あいつと顔を合わせたくなくてここにいる連中はラヴル近衛騎士団を抜けてここの守護を希望したんだ。
剣鬼と呼ばれるあいつ……ミシェル・ド・アンテュールは剣鬼などではない。ただの鬼だ、いや敵味方関係なく悪鬼と呼ばれるにふさわしい。
戦働きが異常だ。単騎での突破力、破壊力はこの世の者とは思えない。そして、訓練が異常だ栄誉ある騎士団に配属されたにも関わらず何人もの団員を廃人にしている。そして何より人間として異常だ。
自分に厳しく、他人にも厳しい。
自分が出来る事は、他人も出来ると思い込んでいる。
そして共に過ごした年月が長ければ長いほどその傾向は強くなる。
そしてこのドンレムの村には、鬼の基準となる5年を超えて寝食共にした騎士団の奴らがほとんどだ。年は食ったが歴戦の者ばかりだと自負している。
そのおかげもあって最近では蛮族も不用意にここに仕掛けてこない。
だというのに、兆しもなく鬼は後ろからやってきやがった。
村の中ではなぜか阿鼻叫喚、それも女子供が泣きわめくのではなく、野太いおっさんの声で悲鳴が上がっている。
「ジル様、少々お待ちいただけますでしょうか。古馴染みの奴らがどうにも浮足立っている様ですので、一足先に行ってお出迎えの準備を済ませてこようかと」
ミシェルは笑顔だったが、額には血管が浮き出ておりどう見ても怒っているのを取り繕っている。
「う、うん、お願いします」
「ありがとうございます。それでは」
目にも止まらぬ速さでミシェルは駆け抜ける。
一拍遅れてドーン、という何かが爆発したような音が聞こえたかと思うとすぐに静寂が訪れた。
しばらくするとミシェルが一番に騒いでいた男の顔を鷲掴みにしたまま現れた。どこかすっきりとした表情で用意が整いましたと迎えに来てくれたのでついていくと、村の中心たる広場にラヴル騎士団の皮鎧を来た戦士が頭を垂れて整列していた。
まるでこれから戦が始まるかのような光景に呆気にとられているとミシェルが刀を抜き放ち天に掲げた。
「我が主、ジル・ド・ラヴル様が本日この時を持ってこの北方の地を治める領主となった」
大地を震わせる唸りを伴った言葉がドンレムの村全体に響き渡る
「ここドンレムは領主直轄の領都となった。この地に住まう者たちよ。我が主は神の眷属、ジル・ド・ラヴル様である。必ずやこの地を豊穣の大地とし争いを吹き飛ばし平和を齎すであろう。」
広場には膝まづく戦士だけでなく、ドンレムの村中の人々が集まってきている。誰もがミシェルの言葉を真剣に聞いていた。
ミシェルの名乗りと演説を受けて騒ぎが大きくなるかと思いきや、張り詰めた空気のまま時間が流れる。
ミシェルがハルに視線を向けると互いに頷き合う。アイコンタクトだろうか。二人ともいつの間に仲良しになったのか。そんな事を思っているとハルの綺麗な声が広場に広がった。
「我が名はハル、主神クロノス様よりこの大地を統べ、長きに渡って行われる人族の無用の争いを治めるよう命を頂戴した。主神クロノスの加護を受けしジル・ド・ラヴルは正しく神の眷属、神の御子となった。そして御子の住まうこの地はやがて楽園と呼ばれるだろう」
普段の元気な姿から一番遠い元気っ娘のハルが今はとても神々しく見える。
「この大地に祝福を!」
ハルが腕を振り上げると、大地から草花が咲き乱れ、目に映る遠くの水田にまで広がる金色の稲穂が風に吹かれ波打っている。
ハルは腕を下すときによろめき倒れそうになるのに気付いた俺が抱きとめた。ふらついて俺の腕の中、辛そうにしているハル。俺と視線があったら水路を作った時以上のドヤ顔だ。俺はハルに微笑みかけ改めて周囲を見渡した。
これだけの奇跡を目の当たりにした村中の人々は驚き、どよめき、そして歓声を上げる。
奇跡以外の何物でもない。
俺はこの少女に、そしてこの武人に報えるだろうか。
前世で何かを成したわけでもない。冴えない普通のオッサンだった、いやそれ以下かもしれない。
毎日職場と家の往復でだらだらと生きてきたこの俺が。
そんな俺が生まれ変わったところで何か出来る訳がないと思っていた。
この世界で生まれ落ちて十五年、筆が握れるようになり前世の記憶を頼りに書き溜めている知識の書、未来日記。『オルフェウス』のゲーム知識でこの世界ではだらだら生きていけるなんて思っていた。
二人の立派な演説を受けてせめてこの二人にとってはいい領主でありたいとそう思ったのだった。
心の内を読んだかのようなタイミングで隣の武人から声をかけられた。
「ジル坊ちゃん、領主として初めての仕事です。分かりますね」
ミシェルは俺からいまだにふらつくハルを引き取ると掲げていた剣を鞘に戻した。
そして俺の前で膝まづく。
その光景を遠巻きに立って見ていた戦士以外の村人もその場で膝まづき、頭を垂れて沈黙した。
「我が名はジル・ド・ラヴル! この地を統べる者である!」
畜生、声が震える。前世でも、オルフェウス《ゲーム》でもこんな場面は一つも無かった。
むしろゲームが始まる時期はラスボスのジルの年齢が19だったはずだ。まだあと3年はあるはずだ。
緊張した俺は余計な事を考えすぎて名乗りを終えたところで止まってしまった。
ヤバいヤバいヤバい、間が伸びていくほどに俺の心臓は五月蠅いほどに跳ねまわっていく。
焦る俺の右手にコツンと何かが当たった。
短剣、神々しくも禍々しくも見える弧を描く刀身キラリと光る。差し出された持ち手には輝く大粒の輝石。
ハルは恭しく自身の短剣を俺に差し出していた。
ハルから短剣を受け取ると不思議と震えは止まり、あれほど五月蠅かった心臓も今は高揚感を感じるようになっている。
となりに美少女元気っ娘がいて、凛々しい老剣士が俺の側で膝まづいている。
不思議だ、一人ではないと思うだけでこれほど違うのだろうか。
前世では家族とも、友人とも距離を取ってきた。いつもひとりぼっちだった。
『オルフェウス』《こちら》にきても変わらずひとりぼっちだった。双子のルネが居たにも関わらず俺はひとりになろうとしていた。
でもそれは間違いだったんじゃないのか?
皆が俺に向けたあの何か伺うような視線は、俺が皆に向けた視線と同じだったんじゃないか。
誰もが怖かったんじゃないか。
拒絶されるのが、嫌われるのが、でも、怖がっていては何も始まらない。
前世だってこの世界に来てからだってそうだ。
まだ俺は何も出来ていない。
何者にも成れなていないんだ。
何者にもなっていない、世界征服を目論むゲームのラスボスでもないし、前世のしがない会社員でもないんだ。
ジル・ド・ラヴル、いや家名も関係ない、今はただのジルだ。
こうして今気付く事が出来たんだ。
こんな僻地に追放された俺に付いてきてくれたミシェルが居る。ここにはいないが俺を心配してミシェルをつけてくれた弟のルネもいる。付き合いはごくわずかだけどこんなに健気に慕ってくるハルだって居る。
俺は俺にしか出来ない事をしよう。
俺の前世にもない、未来日記にもない、今の俺の言葉で目の前の人たちに伝えよう。
「我は主神クロノスの眷属である、我が神と共に皆を導き、この地に楽園を築くことを約束しよう。我と共に大地を耕し、我と共に糧を得て、我と共に喜びを分かち合おう」
思いついた言葉はとても短かった。つたないものだった。
それでもこの場に居たミシェルも、ハルも、ドミニクを初めとするドンレムの騎士達も、この広場にいる皆が俺の言葉に声を上げて答えてくれた。
あぁ、俺はこの人たちの為に全力で生きよう。
この世界に生まれ落ちて15年、前世を含めると45年、だらだらと生きてきた俺とはお別れだ。
遠慮なんてしない。全力で皆の幸せを勝ち取るんだ。