ネルン水路と穀倉地帯
水生植物が溢れかえる湿地帯を貫くように現れた水路はドンレムの村に向かってひたすらまっすぐに伸びていた。
小舟がすっぽりと入るくらいの馬鹿でかいU字溝へサイズぴったりの船が浮かび、それを小型のゴーレムが曳くようだ。
「なんという神の御業! この水路があればドンレムとの移動に掛かる時間が大幅に短縮出来るぞ!」
ネルンの村長達もハルの作った水路を見て大騒ぎだ。
「ジル様、私共ネルンの民はジル様について行きたいと思います。いえ、お願いです! どうか私共をジル様のお側に置いていただけないでしょうか」
「いや、そんな、私共って、みんなのことを村長だけで決められる話じゃないでしょ?」
水路が出来て盛り上がる中村長が興奮気味に付いてくると言い始めた。
「いえ、すでにジル様がここに凝られた時から村の者たちで話し合いが行われていました。ですが、ジル様の方にも準備が必要かと思い。次に来られた時にと決めていたのです。しかし状況は変わりました。我らが使えるのは戦ばかりで民に目を向けぬ領主ではなく、神の眷属となり神の御業まで使われるジル様と共にあるのだと」
村長の言葉に村人全員が応えている。
「いやしかし……そうですな、今回の税を納めるまではこちらの集落に残りましょう。この米はクーラン領半分以上の都市を賄っています。このタイミングで途絶えれば必ずクーランは必ず傾くでしょう。ですがこの機会を逃せばドンレムでの作業が遅れてしまいます。数名の者達で構いません! ドンレムの近くに水田を作るためにどうか私どもを同行させてはいただけないでしょうか?!」
食料は確保しなければ生きては行けない、ドンレムがどのような村かはまだ分からないが、農業に特化したネルン湿地帯の住人は即戦力だ。クーラン領には申し訳ないが、クーラン領への納税は今年までにしてもらおう。村長には来年は農地が縮小してしまう事をちゃんと伝えさせれば……
「やるじゃない、流石はアタシの所有者ね。それじゃさっさと向こうに行きましょ」
これでいいのだろうか、ハルもなんか貰えるものは貰っておきなさい的な感じだし、ミシェルはうなずいてばかりで返事すら返ってこない。ホラントも水路の事をハルに詳しく聞いていて俺は放置を食らっている。みんな自分勝手過ぎやしないだろうか。
そこからは恐ろしくスムーズだった。本来は小舟と徒歩を乗り継ぎ、大きく蛇行しながら進むしか道はないのだが、ハルが作り出した自動で動く船に乗り込み、自然豊かな湿地の生き物を観察する余裕を持ちながら湿原の中をまっすぐにそして優雅に移動した。
「そろそろ湿地帯が終わるわ! それじゃ、このあたりに水田を作るわね」
ハルはそう言って船から身を乗り出し、水路を作り上げたように腕を振り上げた。
ハルを中心に光の波が水面を駆け抜ける。光が通り過ぎた後には正方形に切り出された水田と農業用水路が姿を表したのだった。
「神の奇跡だ! あとは苗を植えるだけでねぇか!」
後方からついてきているネルンの村人は突如現れた水田を見て大騒ぎだ。
「ハルは本当に凄いな、本当にありがとう」
「フンっ、アンタにはさっさと偉くなってもらわないと私も困るのよ!」
まったく、照れ隠しが下手な人形だ。
水路の快適な移動が終わり、ドンレムの村まであと少しだ。
湿地帯を抜けるとところどころ水に浸かった林が現れ、コケに覆われた地面が徐々に増えていく。
板で足場が組まれているので歩きやすいが、足場を踏み外せば沼のような地面に足を取られてしまうだろう。こういった自然環境なので人を寄せ付けない場所になっていったのだろう。
通路の脇に駐在所のような小屋がありそこから見知った人が現れた。
村長兼北方防衛部隊長であるドミニクがだ。
筋骨隆々とした偉丈夫で、坊主頭に身体のいたるところに傷痕が残ったいかにも武人といった男が人懐っこい笑顔を浮かべてこちらに近づいてくる。そんな彼の背中には愛刀である巨大なグレートソードが背負われている。
「ジル様、お元気そうで何よりです。今年も蛮族の動向調査の時期ですか。いやあ、去年も見事な手際で防壁の拡充と巡回経路の確保がすすみましたからな。今回もジル様が居れば100人力ですな!」
がははと笑うドミニクさんに伝えるのはなかなか気まずいが言わなければ始まらない。この地で俺が生き残るにはどうしてもドミニクさんの理解と協力が必要だからな。
「ドミニクさんもお元気そうで嬉しく思います。ですが、今回は蛮族の調査ではないのです……」
「ジル坊ちゃん、続きは私が。ドミニク久しぶりだな」
俺の言葉をさえぎる様にミシェルが横から入り込み、ドミニクの肩を掴んだ。
「げ、ミシェル…… お前どうしてここに?」
ドミニクさんの大きな身体がミシェルに掴まれて縮んてしまったように見える。
「そんな顔をしないでくれ、もう私は剣鬼でも騎士団長でもないのだから」
ドミニクは一生懸命腕を振り払おうとしているのにミシェルの手は離れるようすはない。怯えた表情でミシェルを睨むがまったく笑顔を崩さず動じていない。それを見たドミニクは諦めた様子で溜息をついた。
「うるせーよ。お前のせいでこちとら苦労が絶えなかったんだ」
「懐かしいな、あの頃の騎士団の精鋭達が北方の要となっているとは……」
ドミニクの言葉を聞いたミシェルは懐かしさに浸りながらうんうんとうなずいている。
「それでお前が何の用だよ、何でもかんでも出来たお前が北方送りになるわけないだろ」
「いや、実はな、ジル様がラヴル家の当主になり、新たにこの北方の領主になられたのだ」
「「えっ?!」」
ミシェルの言葉にドミニクだけでなく、駐在所で哨戒していた男たちが声をあげた。
「そして唯一の家臣が私だ。これから共に北方の地を切り開いていこうではないか」
「「えええええええええええええええ!」」
今度はミシェルの言葉に近くにいたものほとんどが悲鳴にも近い叫び声えをあげた。元騎士団やその家族たちには剣鬼として恐れられていたが引退してからもこれだけの畏怖を集めているとは老兵おそるべし。
村人たちの絶叫をよそにミシェルは常に平常運転だ。
「そんなに喜ぶな、いくら元上司と一緒に働けるようになったからとはいえ……」
ついに耐えられなくなったドミニクがミシェルに苦情を述べた。
「馬鹿か、嫌なんだよぉおおおお」
腕を引かれドミニクが連れ去られるのを俺は見守るしかできなかった。後で知ることになったが、旧交を温めるという名目で騎士団時代の訓練が剣鬼ミシェルの指導の元に行われる事が決まった。