罠から罠へ ギュレル山麓にて
「ジャド様、後方から火の手があがっています! 逃げてください!」
後方で待機していた私兵隊長が叫んだ。
そして、私達は気付いた時には敗走していた。
伝令と共に最前線に立っていた私は後方が炎に巻かれてもすぐに行動に移る事が出来た。
その後も運が良かった。伝令の騎馬とは別方向へ逃げたが、そのおかげで追撃するラヴルの騎兵から逃げ切れた。
私より後方に居た歩兵や弓兵は炎で退路を断たれ、更には追撃を受けていた。ほとんどの者は堀の底へ落ちてそれ以外の者も炎に焼かれて重症の者ばかりだった。
気付けばギュレル山脈の麓へと逃げ込んでおり、そこでようやく追撃をかけていたラヴル騎兵が居なくなっていたことに気付いた。
残された私兵と傭兵は騎馬に乗っていた者達と火傷を負った歩兵数人だった。
なんという失態だ。
まさかあんな長距離まで届く弓があり、更には爆発するなどとは思ってもみなかった。
明らかにあの弓の射程は異常だし、あの火矢も普通ではない燃え広がり方をしていた。
領地の放浪しかしていなかったあの忌々しいクソガキにあんな力があるはずないのだ。
ここにきて強力な手駒をふやしたのか。
まずい、非常にまずい。
このままギュレルに戻っては侵略も挟撃も何も無くなってしまうかもしれん。
「止めてください! 離して! 離してください!」
作戦が失敗した焦りと敵から逃げ切った興奮で沸騰寸前の脳に、さらなる刺激を与えるかのように甘く、それでいて棘のある声が聞こえてきた。
「ジャド様、敵から逃げる時に拾ったのですが、これが蛮族の娘ではないでしょうか」
嫌がる女を抱えてやってきた傭兵団の団長は卑しい顔を隠そうともせずに、縛り上げた女をこちらに差し出した。
赤いフードを被ったブロンドの女は、整った顔と氷のような瞳でこちらを睨みつける。その姿を見て私は何とも言えない征服感を感じた。今なら傭兵団長の卑しい顔も気にならない、恐らく私も同じような顔をしているのだから。
この女を差し出し見せればきっとソラル殿もやる気を出すだろう。
あの男も、英雄色を好むという典型的な男だからな。
これで首の皮一枚が繋がった。
「ぐふふ、ぐはは、ははは」
我ながら下品な笑い方だ、いつからこんな笑い方になったのか。
そんなことはどうでもいい。女を縛り上げそのまま鞍の後ろに縛り付けた。
「暴れれば振り落とされるだけだ。そうなりたくなければしっかりしがみ付いてるんだな」
燻る嫉妬と焦りを吐き出すように女にぶつけた。それでも女は歯を食いしばった
「食料をまとめ、ギュレル騎士団本隊と合流する。火傷の者はここで治療を行いながら監視! 残りの者は私に続け!」
ギュレル山は麓から岩場が多い、ギュレル騎士団もすでに出発しているだろう。
自然な形で合流し、先走った傭兵団の暴走で敗走した事としよう。残っている者たちには口裏を合わせるように言い含めてある。
そんな言い訳も、この女を見せればどうでも良いことになるだろう。これには不思議と自信があった。いや、そう思い込みたいと思っているだけかもしれないが。
案の定敗走を伝え渋い顔をしていたソラル殿も、この女を引き渡すと下卑た笑顔を隠そうともせずに縛られたままの女の衣服を剝ごうとした。
これには流石の私もソラル殿を止めて、人質にして蛮族を一網打尽にと説得した。女の衣服が完全に無くなる前に止まって良かったが、止まらなければ危険極まりない蛮族の恨みを買ってしまうところだった。
普段は寡黙な男だというのに戦場に出るたびに暴走する。まったく扱い辛い男だ。
女は一応私が運ぶこととした。
あの男のそばに居れば何をされるか分かったものではない。それに甲冑を着た者と共に乗せるのは馬に負担がかかってしまう。
「先ほどはありがとうございました」
驚く事に蛮族の女が喋りかけてきた。
「感謝されることなどしていない。これから蛮族を襲うのにお前の死体が転がっていたらどうなるか分かったものではないからな」
私は半分見栄を張り、半分は本心でそういった。
「そう、ですか」
女は黙り、はだけた衣服が目に留まる。
いかん、私がこんな小娘に欲情してどうする。くそ、血迷ったか。
私はあのクソガキを殺す為にここにいるのだ。
どんな手を使おうとも必ずあいつを地獄に送りつけてやる。
そう意気込んだものの、統率の取れていないギュレル軍の行軍は遅く、歩兵が遅れ補給部隊が山道を進まずといった形でこんな様子で戦闘が出来るのかと心配になるほどだった。
進軍速度はかなり遅く予定よりも二日も遅れたが、それでもきっちりドンレムに着いた。ギュレル山脈から蛮族の住まう森の間を縫って進む。
蛮族が出てくればそれを打倒し、そうでなければドンレムへの距離が縮まる。
あと少し、といったところで私の馬があばれだした。
どうやら女が何かをしたらしい、女は薄い光に包まれながらドンレム目掛けて逃げ出したのだ。
「女を逃がすな! 撃ち抜けぇ!」
振り向くとソラルの獰猛な笑顔が目に飛び込んできた。
「やめっ?!」
私の制止は間に合わず、ぱしゅんと矢羽根が空気を裂き、女の背中を射貫かんと矢が殺到する。
「何?!」
矢を放った射手は驚きの声を上げていた。それもそのはず、背中に突き刺さると思われた矢は光に触れた瞬間、その軌道を歪めて地面に突き刺さった。
焼けた畑を突き進む女は振り返りもせずに進み、光の壁が次々と矢を撃ち落としていく。
「くそっ! そいつを逃がすな!」
ソラル殿は剣を抜き放ち女に迫る。
弓矢でも止まらなければ直接斬りかかるのか。
その攻撃性は普段の様子からは想像がつかないが、これが彼の本性なのだろう。
「くそがっ」
私もソラルと女を追いかける為に馬の速度を上げる。
「やめるんだ!」
私の叫びはソラルには届かなかった。
ソラルが馬上から剣を振り下ろし、女の首筋に当たったように見えた。
しかし何も起きなかった。何事もなかったかのように女はそのまま走り続ける。
ソラルは剣を振り切り、その勢いのまま落馬していた。
助かった。なんとか蛮族の恨みを買うような事にはならなかった。
そう思いながら気持ちを切り替えソラルを助けるために私は馬から降りた。
引き続き女を攻撃するがそのどれもが当たらず、傷一つ付けれないでいた。
とうとう女は堀の落ちてしまった。
女の行方は分からない。けれどここに来た本来の理由はあのクソガキを殺す為なのだ。
女の尻を追いかけまわす為に来たのではないのだ。
気持ちを切り替えて伝令として活躍しよう。
武勇ではギュレル軍のものどもに劣るだろうが、ここは私の出番だ。
私は腹に力を込めて、名乗りを上げたのだった。




