ジャドの憂鬱 ークーラン領にてー
クーラン城筆頭執事のジャドは焦っていた。
自分が進言したルネの初陣を華々しく飾る為に用意した西の戦場は粛清対象である貴族家はすでに無く、暴徒と化した市民を鎮圧するだけのまさに行って帰ってくるだけの簡単な戦のはずだった。
しかし、現場ではそこにたどり着くまでに兵糧である米、レンズ豆、堅パンを行軍先の村々でルネが配って行き戦場についてからは市民の鎮圧と共に難民の保護を行った為、一気に兵糧がなくなり追加物資がなければ帰れなくなるという本来なら軍法会議で死刑になるような事態が発生していた。
伝令が事実をありのまま報告出来るはずもなく、ジャドに届いた報告では、兵糧が何者かによって奪われ、追加の兵糧は届いておらずこれ以上の進軍が難しいという欺瞞に満ちた報告が届けられた。
一方で南の方で兵糧が足りていないのは急遽決めたルネの進軍に合わせて南に送る物資をルネの居る西に回したからだ。
ライル騎士団長には申し訳ないが、兵糧の管理不足ということで南のアヴィニョンに一撃加えた後に撤退してもらおう。このままでは南も西も両軍とも末端の兵から順に野盗に早変わりだ。
ライル率いる騎士団を南から領都へ戻し、西の軍を早急に王都に進ませ、ルネだけでも必ず王都に届け報告を行うように調整が必要だ。領内で横領、山賊がでているのであれば早馬と斥候を出して確認しなければ。
ジャドは頭を抱えた。この調子だと食料がいくら合っても足りない。米はネルン湿地帯の物がいくらかあるが、貴重品であるし調理に時間がかかる為兵糧としてはあまり好ましくない。小麦があればクラッカーや堅パンにして兵糧に回せるが今年の蓄えはほとんど使ってしまった。
クーラン全体での税率をあげなければならないだろう。それでも賄えない分は現地で調達せざるを得まい。この場合は占領統治するのではなく、皆殺しにした後に領地だけ取り上げる形になる。接収する領地をもう一度考え治すためにジャドの頭は煙を上げかねない程回転させてるのだった。
領内の戦況に頭を悩ませながら減らない書類に目を通していく。
土地を管理しきれないだの、作物が病害にあって思う様に食料が確保出来ていないだの。農民の弱音とも取れなくもない嘆願書や減税を求める書状ばかりだった。
本当にこんな量の事務仕事をルネはやってのけていたのだろうか。疑問が浮かんでは消える中、ルネが戻るまでの間だと言い聞かせて書類の山に取りかかっていく。
しかし到底一人で捌ける量では無かったため、何とか事務仕事を片付けられるように王都勤めだった事務官を前倒しで呼び寄せた。
「なんですかこの書類の山は?」
執務室に通された王都勤めの事務官、エレインは驚いた。彼女の目には幻でも映っているのではないかと掛けていた眼鏡を外したり掛けなおしたりして確かめたくらいには。だが彼女の努力も報われず書類の山は微動だにしなかった。
「ここに詰んである分がクーラン領の村からの納税報告になる。そしてこっちは減税に関する書状、最後はそれ以外の嘆願書だ。」
王都で勤めて書類の山を幾度となく見ていた彼女もこの惨状には唖然とした。それもそのはず、事務机の上は大量の書類の山、そして乗り切らないものは応接机の上にまで溢れていたのだ。
目を通すだけでもかなりの時間がかかってしまいそうな量だ。
「ジャド殿、冗談でしょう? 確かに私はそれなりに仕事は出来る方だとは自負しております。ですが、着任して領内の状況も把握できていないのにこの書類の決済を任せるとは、貴方はこのクーラン領を潰したいのですか?」
「一体何を言い出すのだ、このくらいの書類の山なぞ15歳になったばかりのルネ様なら一日二日で全てこなされていたのだぞ?」
エレインは微妙な顔をしてジャドの言葉を引き継いだ。
「ルネ様ですか……確かに何度かご一緒したことがありますが、彼一人ではこれほどの量の仕事はこなせていなかったでしょう。彼は兄が居たはずです。王都でも一部の者達からは無名の天才、無欲の麒麟児と呼ばれていた彼が側にいたからこそルネ様の実力が評価されたのでしょう。私は、あの方の元で仕事が出来ると思い、ここに来たのです。あの方は今どちらにいるのですか? 無名の天才、ジル・ド・クーラン殿は」
ジャドはエレインの言葉の途中から苦々しい顔をしていたが名前を聞いたタイミングで明確に不快な表情となった。
「そんな奴は居ない。」
「居ない? そんな訳無いでしょう。彼はつい最近新しい農耕法をクーラン領にもたらしたそうではないですか、それを各地に伝えて渡り歩いているのではないのですか?」
ジャドはこの女が早く黙ればいいと思い事実を応えた。
「奴はドンレムだ。」
「ドンレム?! 不毛な湿地と北の蛮族しか存在しないあんな場所へ何用で向かっているのですか? まさか不毛の地を開拓する術を確立されたのですか?!」
エレインはジルを褒め湛えるような言葉を繰り返し、ジャドはその言葉が重ねれらるほどに不快感が濃くなっていった。
「奴はすでにクーラン家ではない。ピエール様がラヴル家を再興させ、ジル・ド・ラヴルとしてドンレムの守護を命じたのだ。」
ジャドからジルの不在とその理由を聞かされたエレインは話が違うとジャドに抗議をしたが、何一つ受け入れて貰えなかった。その代わりに任期を短縮すること、この部屋の書類を空にすることで、ラヴル家へ仕官する為の紹介状を書くことを約束させたのだった。
彼女の事務作業はとても手際がよい、実際に決済処理のスピードもそうだが対応策の提示が適格であり、ジルが居なくなったクーラン領の各村の不満が一時的に無くなる程の力があった。彼女の知識も農業や治水、政治に特化していた。
兵站や戦略など戦関連に弱かった為ジャドやピエールはあまり使えない事務官だと評価してしまった。
そして彼女は次々に追加されていく陳情書や嘆願書をものともせずに、1週間後に見事に書類の山を片付けきりジャドやルネそしてピエールが対応出来るように引継ぎ作業も完璧にこなした上で、ラヴル領ドンレムへ向かったのだった。
「あの女が居なくなって執務室もようやく落ち着いたか。それにしても、昨年に引き続き収穫量が横這いだ。どうにか戦が出来るだけため込まなければ」
一度は片付いた嘆願書や減税のお願いなど農民の声は戦から帰ってきたルネが対応することでギリギリ内政が回る事になったが、逆に貴重な軍神の加護持ちが領都を離れなれない状態に陥ってしまったのだった。
そしてこれまで異常に軍拡を進めてきたクーランは次の収穫期が来る夏のまでの間は広げた領地を維持するしかなかったのである。




