08 哀れでかわいそうな子
少女視点です
エレベーターの前まで戻って来た時、私はもう一度冬十郎の首にぎゅっとしがみついた。
降ろされたくなかったし、また別の部屋へ行けと言われたくなかった。
冬十郎は少し笑い、ポンポンと私の背中を叩いた。
「大丈夫だ。もう人任せにはしない」
一緒にエレベーターに乗って、最上階へ向かう。
しがみついたままの私を片手で支え、冬十郎はピッピッピッと何かの機械を操作してドアを開けた。
広い玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩いて、奥のドアを開けるとそこがリビングのようだった。
三十畳ほどの広い部屋に、大きなソファセットと大きなテーブルと大きなテレビと大きな棚がある。なぜか部屋の中に螺旋階段があり、連なっている大きなガラス窓の向こうにはリビングと同じくらい広いテラスが見えた。
モノトーン調の室内を想像していたが、そうではなかった。床も壁も暖かみのある木目調で、ソファも赤みがかった茶色の革張りだ。テレビで見たお金持ちの家のようだったが、絵画や壺などの美術品は一切無く、写真立てやカレンダーのようなものすら置いていなかった。
生活感はまったく無い。
冬十郎は私をそっとソファに降ろした。
「寒くないか?」
言いながら、テーブル上のリモコンを取り、何やら操作する。
明かりがつき、エアコンが動き出し、自動でカーテンが閉まっていく。
「わぁ……」
私がきょろきょろと部屋を見回すと、冬十郎はそのリモコンを私に持たせた。
「これが明かりでこれがカーテン、これがエアコンの操作ボタンだ。使ってみるか?」
「はい」
「これはだいぶ古いタイプらしいが、使い慣れたものが一番良くてな」
面白がってカーテンを開け閉めする私を微笑んで見て、冬十郎はポンと私の頭に手を置いた。
「さて、どうしようか」
「え」
「君を保護したはいいが、私は子供に慣れていない。先ほどの女がああなってしまっては、何をどうしたらよいのやら」
と、少し遠い目をした。
「しばらくここに置くなら、まずは衣食住か……? 子供用の服に、ベッド、あとは寝具を用意させて……それから……ふむ、子供は何を食べる?」
立ったままぶつぶつ言っている冬十郎のスーツの裾をつかむ。
「ん?」
「好き嫌いはありません。何でも食べます」
「そうか」
「私、わがままは言いません。冬十郎様の望む子になります」
「望む子?」
冬十郎は瞬きをして、怪訝そうな顔で私を見下ろした。
「はい。何でも言う通りにします。ちゃんといい子にするので、私を冬十郎様の好きなようにしてください」
冬十郎は、急にストンと私の隣に座った。
私の顔を覗き込むようにじっと見てくる。
「そのようなことを言ってはならない」
「え」
「自分を好きにしろなどと、そのようなことは言ってはいけない」
少し怒っているような声で言われ、私は困惑した。
「でも、今までの『親』達はみんな……」
あ、と思った。
そうだ、冬十郎は『親』ではなかった。
さらったんじゃなくて、『保護』してくれたんだ。
途方に暮れたように、言葉が止まる。
「親達? みんな? みんなとは……?」
「今まで私をさらった人達です。ええと、私の『親』になりたがった人達」
「誘拐されたのは、今日が初めてではないのか?」
私はこくりとうなずいた。
「何度も何度もさらわれました。本当の親が分からなくなるくらい、何度も」
冬十郎はきれいな目を見開いた。
とても驚いたように、そのまま固まっている。
この人は、どんな表情をしてもきれいだと思う。
肌は白くて陶器みたいだし、ほくろもシミも見当たらない。
本当に、見れば見るほど………なんだか作り物めいて見える。
「君は記憶喪失では無かったのか」
形のいい唇が動く。
私はうなずいて、冬十郎を見上げた。
「冬十郎様は私に名前を付けないのですか?」
「名前……? そういえば、あの工場でもそんなことを言っていたな」
「今まで、次から次へ親が変わって、その度に名前が変わりました。私をさらった人は、まず初めに名前を付けるんです。いつでもそうなんです。さっきの女の人だって、私をショウコって呼んでいたでしょう?」
「あ、ああ、そうだったな」
「それから、いつもだったらその人の家に連れていかれて、その人好みの服に着替えさせられて、その人の呼び方を教えられるんです」
「呼び方?」
「はい、パパと呼んでとか、お母様と呼びなさいとか」
「ああ……なるほど」
「それから、一緒に絵本を読んだり、歌を歌ったり、ゲームをしたり、その人が望む子供らしいことをするように言われます。だいたいどの『親』にも似たり寄ったりのことをさせるので、それで特に困ることはありませんでした。髪を切られたり、染められたり、パーマをかけられたりしたこともあるし、一緒に裁縫をしたり、お菓子作りをしたこともあります。ピアノを弾けと言われたことがあって、でたらめに弾いたら相手がちょっと困っていましたけれど……」
もう顔もはっきり思い出せない大勢の『親』達。
冬十郎のきれいな目がじっと見つめてくるので、私はドキドキしていつになくたくさん喋った。
「それで、その人の好みの食事やおやつを与えられるんです。三食全部ケーキの人がいたり、サラダしか出さない人もいたりしたけれど、どの『親』も『これがあなたの大好物よね』って言うので、はいと素直に返事して、どんなものを出されても嬉しそうに食べるようにしていました。新しい『親』に合わせて、私は名前も性格も好物も変えて生きてきたんです。だから……」
私を見る冬十郎の目が少し潤んでいるのに気付いた。
あれ、と思ってよく見ようとすると、冬十郎は目をそらした。
何かいけないことを言っただろうか。
慌てて言いつのる。
「あの、だから、好きとか嫌いとか、私にはありません。冬十郎様の好みの服を着せてください。冬十郎様の食べさせたいものを与えてください。私を冬十郎様の好きなように……」
ふわりと優しく抱き寄せられた。
甘くいい香りが鼻腔をくすぐる。
「違う」
耳元で硬い張りつめた声がする。
「私の望みは、自分の好みを君に押し付けてお人形にすることなどでは、決してない」
怒りを含んだ声音が、私の心臓をどん、と叩いた気がした。
「え…………?」
「そんな奴らと一緒にするでない」
明らかな軽蔑と嫌悪の声。
「でも……」
私は『そんな奴ら』がいたから生きてこられた。
『そんな奴ら』に縋って生きてきた。
それが私の日常、私の常識。
冬十郎は私を抱く手に力を込めた。
「今まで、つらかったな……」
憐憫のこもった声音に、心の奥が震え始める。
今まで、別につらくなんてなかった。
つらさも苦しさも何も感じなかった……はずなのに。
「かわいそうに……」
かわいそう?
待って、よく、分からない……。
動揺と羞恥で胸が苦しくなってくる。
私はそんなにかわいそうなの……?
そんなに痛ましい子供なの……?
冬十郎の寄越す憐れみに、ぐらぐらと眩暈がしてくる。
「私は、君が望むものを与えたい」
私が望むもの……?
「君の望みを教えてくれ」
私の望み……?
それはまるで、とどめを刺す一言だった。
私の望みなど、他の誰が聞いただろうか?
胸の中が渦巻くように狂おしく、轟々と荒れ始める。
自分で自分を支えていられなくて、震える指で冬十郎にぎゅっとしがみつく。
冬十郎が私の顔を覗き込むようにするので、私はうつむいて、髪で顔を隠した。
冬十郎は、私を哀れでかわいそうな子供だと思っている。
次から次へとさらわれて、お人形にされて、そうしなければ生きては来られなかったのだから、実際に哀れでかわいそうな子供なのだろう。
「欲しいもの、何かないのか?」
囁くような問いに対する正解が分からない。
望むもの……?
欲しいもの…………?
そんなこと考えたことが無いから、なんだかすごく混乱して、逃げ出したくなってくる。
でも、冬十郎の匂いも体温もすごく心地よくて。
聞こえてくる規則正しい鼓動は、すごく安心する音で。
冬十郎の甘い匂いを胸いっぱいに吸い込む。
気持ちが良くて、ふわふわしてくる。
ああ、もういいや……。
もう、考えるのはやめた。
冬十郎がかわいそうと言っているのなら、私はかわいそうな子になろう。
弱々しく震えてみせて、憐れんでもらって、優しくしてもらって……。
こうやって、ずっと、抱きしめていてもらえたら……。
もう、それでいい、それでいいや……。
「私、甘えたい……」
「ん?」
「冬十郎様に、甘えたい、です……」
演技ではなく、声がかすれてしまった。
冬十郎はすぐに返事をしなかった。
わがままだったろうか?
気に入らない答えだっただろうか?
「あの、ごめんなさい、私……」
不安で本当に体が震えてきた。
冬十郎が私を見ている。
私も必死にその目を見返す。
お願い、冬十郎、私を拒まないで。
お願い。
「……ああ、分かった」
大きな手が、少しぎこちなく私の髪を撫でた。
「好きなだけ、甘えるとよいぞ」
読んでくださってありがとうございます。
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登場人物の中で一番純粋なのは実は冬十郎かも?