06 しょうこちゃん
冬十郎視点です
11階の最上階には、私の自室一室しかない。専用エレベーターはほかの階には止まらず、まっすぐ最上階へ昇っていく。
しょうこちゃん、と聞こえたのは何だったのだろうか。
あの子は自分の名前すら憶えていない。
佐藤の言い間違いか、私の聞き間違いか。
チン、と少し古風な音でエレベーターが到着を知らせると、ゆっくりとドアが開いた。
そこはすぐに玄関ホールになっていて、扉についている物々しい装置に暗証番号を打ち込んで開錠するようになっている。
中に入り、明かりをつけ、ウォークインクローゼットへ向かいながら黒いネクタイを緩める。
背広を脱ごうとボタンをはずしたところで、私はふーっと息を吐き、くるりと踵を返した。
―……呼ばれている。
何かが聞こえるわけではない。
テレパシーのように名前を呼ばれたり、助けを求められたりするわけでもない。
……でも、感じる。
あの子に呼ばれている。
じりじりする思いで部屋を出て、またエレベーターに乗り、一階に降りる。
102号室に向かい、勢いよくドアを開く。
「ご当代様」
七瀬が当惑したように立っていた。
その手に、少女の肩にかけていた私のコートがある。
「あの子は?」
「着替えをするというので席を外したんですが、その数分でいなくなってしまって。佐藤さんも一緒なので、買い物にでも行ったんでしょうか?」
弾かれたようにそこから飛び出す。
マンションの正面玄関から走り出し、はたと立ち止まる。
どちらへ行くべきか。
葬儀の後、あの廃工場へ入ったのは偶然ではなかった。
呼ばれる様な不思議な感覚に興味を覚え、好奇心で向かってみたのだ。
だが、その感覚の先にあの子はいた。
襲われて、震えながら、私を待っていた。
今もあの子が私を呼んでいるなら、きっと辿りつけるはずだ。
目を閉じて、感覚を研ぎ澄ます。
どこから呼んでいる。
君はどこで震えている。
角を二回曲がっただけで、あっけなく私はその姿をとらえた。
まだ距離があるが、佐藤に手を引かれて歩いている姿が小さく見える。
呼びかけようとして、名前が分からないことに、一瞬、躊躇する。
「しょうこちゃん」
佐藤の声が聞こえた。
「ハンバーグ大好物でしょう? 帰ったらすぐ作るからね」
「はい、分かりました……」
「お母さんだよ、しょうこちゃん」
「はい、お母さん……」
足が止まった。
少女は破れたドレスの上に佐藤の上着を着ている。
二人は、何の変哲もない親子のように、手をつないで歩いていく。
小さなアタッシュケースを下げた男や、買い物袋を下げた女が擦れ違っていく。
夕焼け空に、長く伸びた影。
普通の平日の帰宅時間の風景。
遠くて表情は見えないが、少女に抵抗する素振りはない。
『しょうこちゃん』と佐藤は呼んだ。
それが本当の名前なのか?
その女が本当の母親なのか?
大きな違和感と混乱。
そして、『呼ばれているような感覚』は依然として消えていない。
目の前の君が私を呼んでいるのか……?
「姫……」
私は名前の分からない彼女をそう呼んだ。
「姫」
決して大きくはない私の呼びかけに、少女は気付いた。
振り返り、私を見ると、佐藤の手を振り払った。
「とうじゅ……」
黒い手袋が少女の口をふさいだ。
さっき擦れ違った男が、少女を片腕で抱き寄せていた。
「なにするの! しょうこちゃ……きゃぁ!」
男がアタッシュケースを振り回す。
ガツンと鈍い音とともに、佐藤が倒れる。
男はアタッシュケースを放り出し、少女を両腕に抱きかかえて走り出した。
反射的に追いかける。
「冬十郎様!」
少女が私の名を叫ぶ。
体温が一気に上昇する。
速度を上げ、追いつき、横の塀を蹴り上げて飛び上がる。
後頭部に蹴りを叩きこみ、崩れる男の手から少女を取り戻す。
一瞬で片が付いた。
男は喧嘩の経験も無いようなただの素人だったようで、泡を吹いて昏倒している。
ほうっと息を吐きだし、少女を下ろそうとすると、少女は私の首に抱きついてきた。
「冬十郎様……!」
耳元で、絞り出すような声がした後、激しい嗚咽が聞こえ始めた。
読んでくださってありがとうございます。
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「ご当代様」という呼び方は便利なのです。先代もいつまでも生きているし、名前も定期的に変わっちゃう方なので。