第02話 突然の腹パンに理不尽を感じた。
闇のプール、それが最初に感じたイメージだった。
呼吸が苦しくないことにはもう驚かないが、粘性のあるダークグレーの水に囚われていることに、不快感を感じる。
衛生的にも大丈夫なのか心配になる。
中途半端な浮力で、泳ぐというよりは、水を掻き分けるようにしか動けない。
不安定な姿勢しか取れないため、全身の力を抜いて漂流していると、水が流れ始めた。
ゆっくりと、ゆっくりと、流されて、渦が起こり、徐々にスピードを増していく。
(ちょ、これはキツイ……、うっ、気持ち悪っ)
目の奥から、耳の奥から、首の後ろから、尋常じゃない痛みが襲ってくる。
嘔吐感がMAXなのに吐くこともできず、関節やら骨の髄が軋み、熱く、だるく、乾き、痛む。
インフルエンザと二日酔いと骨折を足して何倍にもしたような、尋常じゃない苦しみ。
声が出せないくらい頭が痛い。
もう考えることすら億劫になるほど気持ちが悪い。
こんなハードプレイ耐えられるわけがない。
一分なのか、十分なのか、一時間なのか。
どのくらい経ったのか。
失うことを許してくれない意識で感じたのは、トイレを流す時のような激流。
最後は排泄物扱いとか、この苦行はもう二度と味わいたくない。
絶対にだ。……絶対にだぞ!
気が狂いそうな痛みも、脳が沸騰するかのような熱も、二度と立ち上がれないと思えるダルさも、ウソのように消え去った。
最初からそんなものはなかったんじゃないかと思えるほど、少しの残滓も感じなかった。
あまりにもギャップがありすぎて、ふわふわと浮かんでるような錯覚さえ覚える。
覚醒し始めた意識が捉えたのは、ワインレッド一色の絨毯。
ただ、力なく、その場にしゃがみ込んでいた。
「いつも寝てる布団よりも気持ちいいぞ、これ」
指先に柔らかな感触が伝わってくる。
寝ぼけていた頭が少しずつ回転するようになってきた。
周囲を見回すと、とてつもなく広い空間であることがわかった。
黒い大理石で統一されていて、幅は50メートルはあるだろうか。
両脇には規則正しく何本も円柱があるが、10人ぐらいで手を繋いでも届かないほど太い。
天井も恐ろしく高く、5階建てのマンションがすっぽり入りそうだ。
細かな彫刻が描かれている天井からはいくつかのシャンデリア。
一つひとつがあり得ないくらい大きく、緻密で、空間全体を照らす光を放っていた。
歴史的な価値までありそうな美術品であろうことは、芸術にこれっぽっちも興味がなくてもわかった。
くいっとメガネを上げようとすると…
「あれ、メガネがない……、裸眼で見えてる?なんでだ?」
いつもはボヤけているはずの、両手の指紋まではっきり見える。
見えたからこそ、その両手が【自分のものではない】ことがわかった。
指の長さ、大きさ、爪の形…、自分の顔よりもずっと長い間見続けているのだから、この違和感に青ざめた。
視界は鮮明だが、目線の高さが少し低くなっていることに気付いた。
ツーブロックだったヘアスタイルは目に見えて伸びていて、黒々とし、ほんの少しあった白髪はなくなっていた。
それにしてもカラダがとても軽い。
肩凝りとか感じない。
メタボ気味な腹もスッキリしてる。
これはうれしいが、少し悲しくもある。
「これが新しい英雄様のカラダってことかな」
「思ったよりも混乱しておらんようじゃな。聡明な者は好ましいぞ」
背後から聞こえたのは若い男の声。
振り返るとそこには、男と女がいた。
玉座というのはこういうものだろうと思えるほど重厚で、背もたれなんて十メートルくらいある座具に男は足を組んで座っていた。
頬杖をつきながらこちらを睥睨してる姿は、とても様になっている。
黒を基調としたゆったりとした服と、銀の刺繍が施されたローブ、濡れているかのような革製のズボンとブーツ。
作り物のような整った顔立ちに、長い黒髪。
ここまでなら人間と思えたが、尖った耳と、黄金の瞳―――瞳孔は猫よりも細く、心の底まで見透かされそうなほどの深みを感じる―――が、彼を異質なものであると実感させた。
急に声を掛けられたことよりも、その瞳と目が合ったことのほうが、よほどドキリとした。
その横には凛とした姿勢で上品に佇んでいる美女。
司祭服に身を包み、長い銀の髪を撫でおろし、こちらを見下ろしている。
服の上からでもわかる大きめのバストに目線を奪われるのが少し悔しかった。
ここが神殿であったなら、その服が漆黒でなければ、真紅の瞳をしていなければ、聖女のような出で立ちだった。
「お主の守護を一方的に任されたんじゃが、ふむ。千年ぶりの13英雄か」
イケボなのに爺言葉ってのが引っかかる。
この世界だと気にすることでもないんだろうか。
さっきからめっちゃ睨まれてるけど、断固として自分の意志でここに来たワケじゃないと言いたい!
流されっぱなしな自分も悪いけども、仕方ないじゃないか!
「どれ、その強さのほど、少し見ておくとするかの」
「……は?」
ふらっと立ち上がり、静かに一歩目を踏み出した。
まだ5メートル以上は離れているその男の、無遠慮な二歩目を確認した瞬間、右肩に痛みを覚えた。
黒髪をなびかせた男が肩を掴み、目の前で笑みを浮かべている。
ギョッとした。
筋肉は強張った。
そして、呼吸が……止まった。
緊張からではなく、物理的に止まった。
痛さではなく、苦しさがカラダから自由を奪った。
足が地面から浮き上がるほどの衝撃が伝わり、遅れて痛みが腹部から全身に広がった。
声も出せず、咳き込むこともできず、食道から溢れたものだけが、口からだらしなく流れていた。
もはや痛みが鈍いのか、鋭いのかもわからず、ただただ瞳が潤む。
「……んん?なんじゃ、もしかして強くないのか!?」
「……ケンカも……したこと、ない……っつーの」
ただでさえ、よくわからん状態なのに、生まれて初めて腹パンなんかされて、踏んだり蹴ったりなんてもんじゃないぞ。
殴ったほうが驚いた顔しやがって。
出会って5分も経ってないのに、いきなり殴るか普通?
この脳筋、実は敵なんじゃないか?
苦しみやら痛みやらが、いよいよ脳のリミッターを突破したようで、何だか逆に気持ちよくなってきた。
そしてそのまま気を失った。