2.経大戦と俺のドリブル
我が海凛大学は神奈川県にある。
設立は大正時代と結構古い。
当時の事情から、経済大学として設立された。
同時期に姉妹校として設立されたのが、東京にある修応大学だ。
両校の間には緩い交友関係が今も続いている。
主に学部同士の交流、共同研究、そしてスポーツなどで。
「というわけで年に一度、バスケ部も経大戦ってのをやるわけだ。意義としてはいくつかある。両校の友好関係を深めること。でかい大会が無いこの時期に、チームに目標を持たせること。そして四年生の追い出しだな」
話しているのは三年の島田だ。
俺の後を継いで主将になった。
全体練習の前に、一年に経大戦の説明をしていたのだ。
その説明を聞きながら、俺は体育館の隅の方で練習している。
引退した身なので全体練習には加わらない。
右手の人差し指を天に向け、ボールをその上で回す。
シュルルという回転音と共に、バスケットボールは回っていた。
「よっ」とかけ声をかけ、左手の人差し指にボールを移す。
成功。
ボールは回り続けている。
ちょっとした曲芸のようだが、これもハンドリングの練習だ。
"こいつらとも経大戦でお別れかあ"
練習を見ながら何となく思った。
感慨は特に無い。
部活というのはそういうものだ。
部長として部に残せたものはあっただろうか。
特に無い気もするが、不祥事も残していない。
可も不可も無くというところだろう。
とはいえ、元部長としての想いとは別に。
気持ちの中にわだかまっているものはある。
"去年の経大戦で"
俺は右手首を怪我した。
相手のブロックをかわした時だった。
無様にも滑って、フロアにぶつけてしまったのだ。
診断は重い捻挫。
一ヶ月近く不自由な生活を強いられた。
けれど完治はしたので、特に問題無かった。
そのはずだったが。
"ついてないよなあ"
ボールを両手でホールドする。
スタンディング状態でシュートの構えを取る。
ここまでは問題ない。
だけど、このまま放っても。
腕が伸びる。
手首を返す。
ああ、駄目だ。
変なフォロースルーにしかならない。
不細工なシュートだな、全く。
「これじゃ外れるわな」
右手首をぷらぷらと振る。
全く痛みは無い。
身体的には完治しているから当然だ。
だが俺は病気を患っている。
病名はイップス。
意識と行動が乖離し、思うように身体を動かせないってやつ。
俺の場合はバスケットボールのシュートに限るが、厄介なことには変わらない。
"何でシュートだけなのか"
シュートは諦め、ドリブル練習をすることにした。
ボールをなるべく強く突く。
手とフロアの間をボールが行き来する。
ダム、ダムという音が響く。
徐々に手を低くする。
ボールが速く返ってくる。
音の間隔が狭くなる。
ダム、ダムからダムダムへ。
ダムダムからダムダムダムへ。
ダムダムダムからダムダムダムダムへ。
一気に手を低くすると、音の間隔が無くなった。
ダダダダダダダダッとボールの弾む音が連打する。
"よし"
ウォーミングアップは終わりだ。
この低い姿勢をなるべく保ったまま、左右へと動く。
フロアの上を滑るように、ドリブルで移動。
目の前に敵を想定。
敵の手が伸びてくると仮定。
取られる寸前に右手を返す。
右足首にまとわりつくように、ボールを素早く背後へ持っていく。
自分の身体を盾にしてボールを守る。
この間もドリブルは低く速く。
その方が取られにくい。
"背後からスティールされるかもしれない"
同じ姿勢をキープし続けるのは愚の骨頂だ。
敵のDFのいい的になるだけだ。
時計回りにターン。
ターンに合わせて右手のボールの位置も変わる。
窮屈になったので、両足の間を通す。
レッグスルーと呼ばれるドリブルだ。
これを二回三回と続け、切り返す。
身体のムーブも混ぜるとフェイントになる。
俺がよく使う技だ。
敵の重心を崩し切らなくてもいい。
少しでもずれれば突破口になる。
"ダブルチームの間を割って"
両足のバネを活かした。
低いドリブルのまま、前へと突き進む。
ここは一気に速くだ。
遅いドリブルならあっという間に取られてしまう。
止まった状態からいかに短時間で最高速に達するか。
加速度でバスケは決まる。
"レイアップなら"
ダダダダダとボールが弾む。
ゴール目前で、俺はボールを保持して踏み切った。
右足、左足の順にフロアから離れる。
踏み切りに合わせて、身体を自然と上へと伸ばす。
右手で持ったボールがふわりと浮き、ゴールをくぐった。
これは入る。
セットシュートと違い、ほとんど手先を使わないからだろう。
得点の手段がまったく無い訳じゃない。
ちょっとホッとする。
その時、声が降り注いだ。
「その動きだけ見ていたら、有村先輩まだまだ現役っすね。やっぱ上手いですわ」
「何言ってんだ、島田。お前の方が全然上だろ」
振り返りながら答えた。
少し離れた位置に島田が立っていた。
人懐こい笑みが印象的な男だ。
「や、そんなことないっす。俺、有村先輩のプレー参考にしてましたもん。綺麗なバスケットするなあって」
「そっか」
素っ気ない返事かもしれない。
だが、島田の言葉は俺の痛いところを突いている。
イップスになる前の俺なら、素直に賞賛を受け止められただろうけれど。
俺の複雑な感情に気がついているのかいないのか。
島田は俺と向き合った。
その表情は真剣だ。
「経大戦、出てくれるんですよね。有村先輩」
「一応そのつもり」
「え、テンション低くないっすか。せっかく先輩方を送り出そうとしてるのに」
「そうなんだけどさあ」
ボールを拾う。
話しながらドリブルを開始した。
ダム、ダムという重い音が会話に割り込んでくる。
「俺のプレー、完全に変わっちゃったからな。通用すんのかなってのはある」
「いやいや、いけますよ。ドリブルとパスだけになっても、先輩は先輩ですって。それに上手い下手の問題じゃないでしょ、経大戦は」
「ああ。頭じゃ分かってる。ただ、そうだな、今ひとつ乗り切れないだけだ」
不安要素というか懸念はもう一つある。
俺のイップスに関与したあいつ。
経大戦に出るなら、あいつの顔を見なくてはいけない。
けして悪気は無かったんだろうけど。
それでも少しばかりは憂鬱だ。
俺の表情を見て、島田はピンときたのだろう。
ソロリと彼の名を口にした。
「修応大学バスケ部、垣内誠……でしたっけね。192センチ、ポジションはセンター。でかい割に機動力もあって、かなり上手い」
「よく知ってるじゃん」
「冬のリーグ戦で当たりますからね。これくらいは」
「敵を知るのは大事なことだ」
息を吐いた。
垣内誠。
名前だけは俺も覚えている。
スコアブックか何かで見たんだろう。
顔はおぼろげだ。
あの怪我が無ければ今でも。
彼がブロックにこなければ。
いや、止めよう。
考えても無駄だ。
この一年で嫌と言うほど繰り返してきた。
「ま、相手がどうというよりはさ」と吹っ切るように言った。
「バスケにけじめつけるために、出るだけ出る。いいか悪いかはともかく、そうすべきだと思ってるからな」
「良かったー。ここまできて有村先輩出ないとか言ったら、めっちゃテンション下がってましたよー」
「そうか? お前の出番が増えるから結構なことじゃねえの?」
「そういう寂しいこと言わないでくださいよー。先輩とバスケ出来るの、これが最後なんすから」
「へー、そんなに慕われているとは思わなかったぜ」
軽く笑いつつ、俺は別のことを考えていた。
一緒にバスケするのは最後か。
俺とエージにも当てはまるな。
同じ小学校に通ってミニバス始めて。
中学と高校は別だったけど、何の縁かまた大学で再会して。
二人で勝負決めた試合も、それなりの数になる。
ああ、そうか。
けじめをつける対象が違うんだ。
俺一人のバスケじゃない。
俺とエージ、二人のバスケを終わらせるんだ。
あの約束も果たしてないし。
エージは覚えてないだろうけど。
「腐れ縁には腐れ縁なりの重みがあるってな」
「え、何か言いました?」
「何でもねえ。島田、1on1やろうぜ。どんなもんか俺が診てやる」
「望むところっす。本気で行きますよ!」
ニッ、と島田は笑顔になった。
ボールを渡してやる。
島田がスッと姿勢を低くした。
二人の間の空気が引き締まる。
いいね……こいつが相手なら不足は無い。