1.入らないシュートの行方は
シュートを放つまでは普通だった。
入るか入らないかはともかく、いつもの通りだった。
いけなかったのはその後だ。
相手のブロックを無理にかわして体勢が崩れた。
着地の瞬間、足を滑らせてしまった。
そうだ。
この時、我慢して右肩から落ちれば良かったのかもしれない。
フロアへの激突を恐れて、右手を突き出さなければ良かったのかもしれない。
けれども、もはや分からないことだ。
何が正しい行動で。
何が正しくなかった行動だったかなんて。
分かっていることはただ一つ。
あの日から一年経った今も、俺はシュートタッチを失ったままということだ。
だからほら。
こんな風に。
「全然入らないね」
「面白いほど入らん」
後ろを振り向かないまま、俺は答えた。
答える間にボールは外れた。
リングに当たることもなく、弧を描いて落ちただけ。
バスケットボールの初心者でも、中々ここまでは外さない。
しかも俺、初心者じゃないし。
「いつものことだけど凹むね、こりゃ」
呟き、外れたボールを拾う。
片手で掴めれば格好いい。
だがあいにく俺はそんなに大柄じゃない。
身長175センチ。
一般人としては大きいかもしれない。
けれど大学バスケの世界では普通か、やや小さい方か。
いや、身長のことは今はいいんだ。
俺−−有村穂高の課題はそれじゃない。
「まあ仕方ないじゃん。イップスなってるのは、だいぶ前から分かってたしさ。ほっちゃんはパスさえしてくれたら大丈夫だよ」
「気軽に言うなよ、エージ」
苦笑しつつ相方に答えた。
俺の視線の先で、エージこと白崎栄治が立っている。
短く整えた黒髪といい、186センチの均整とれた身体といい、いかにもバスケットマンって感じだ。
いや、実際そうなんだけど。
「じゃ、重苦しく言おうか? それで事態が好転するならいくらでも言うよ」
「ほんとお前性格いいね。昔っから変わってないよ」
「三つ子の魂百までって言うからね。あ、ボールちょうだい」
エージが手を挙げる。
俺は手元のボールを放ってやった。
ヒュッといい音を立てて、ボールはまっすぐに飛ぶ。
イップスでもパスには支障は無い。
不思議なものだ。
「サンキュー」とエージがボールを受け取る。
間髪入れずにジャンプシュート。
ボールは綺麗な弧を描き、あっさりとゴールを通過した。
ノーマークならこれくらいはやるだろう。
いや、今の俺には無理だが。
「やっぱりパサーに専念か」
頭を掻きつつ、俺はゴールを見た。
そしてフロアに落ちたボールへと視線を移す。
まだ止まりきらず、ボールはころころと転がっていた。
「おっ、ここに来て決心は固まりましたか」
「茶化すな、人が真剣に悩んでるのに」
「……分かってるよ、ほっちゃんが悩んでるのはさ。あの怪我から嫌と言うほど」
エージの声の調子が変わった。
腰をかがめ、ボールを拾う。
手がでかいから片手で掴んでいた。
背を向けているからあいつの顔は見えない。
体育館の窓からは西日が差し込んでいる。
「ほっちゃん、もがいてたし。色んな治療試したり、練習方法工夫したりさ」
「だな」
俺は短く頷いた。
「だから、俺もなんか力になれたらなーって思ってるんだけどね。どうにもならないっぽいけど」
「これは俺の問題だからな。でもありがと。やっぱ持つべきものは悪友だな」
「えっ、そこは親友でしょ!? 小学校以来の友人を悪友呼ばわりするのかよ!」
「腐れ縁が続いてるだけだと思ってる」
「真顔で言うなよ、傷つくぞ俺!」
「でかい身体の割にはハートが脆いね」
「繊細って言ってくれよおー」
あほみたいなやり取りだろ。
でも、これがいつものやり取りだ。
喋りながらも手は止めない。
ボールを片付け、ゴールを元に戻していく。
体育館を後にする頃には、日がほとんど沈んでいた。
秋の日はつるべ落としとはよく言ったもんだ。
「しかし早いもんだな。あと十日か」
体育館を後にしながら、俺は口を開いた。
「経大戦なー」とエージが間延びした声で答える。
俺の方をちらりと見やった。
「あいつ、今年も出てくるのかなあ」
「出てくるだろ、確か去年の時点で三年だったし」
「そっかー。じゃあ今度は勝ちたいね。大学最後の試合だし」
エージの声には暗さは無い。
俺もそれに倣おうとした。
勝っても負けても、これが最後だ。
大学生でバスケは終わりと思っている。
せめて悔いのないように終わりたい。
けど。
「ああ、そうだな」
自分の声が明るかったか、今の俺には自信が持てなかった。
† † †
家に着いた頃には完全に日が暮れていた。
「ただいま」と声をかける。
母の「おかえり」という朗らかな声が帰ってきた。
靴とコートを脱ぐと、何となくホッとした。
「遅かったね」
「ちょっと練習していたから」
「あら、栄治君と? もう引退したのに熱心ねえ」
「公式戦はね。区切りは経大戦だし」
「そうだったわ。最後に一回くらい見に行こうかしら」
おほほと笑いつつ、母がキッチンに立つ。
もう夕食は出来ているらしい。
湯気と一緒にいい匂いが漂ってきた。
「チキンカレー?」
「そっ。今日はお父さん会社の飲み会だから、手抜いちゃった」
「いいんじゃん。俺、カレー好きだし」
「あんた昔からそうよねー。親としては助かるけど」
「そう?」
返事を待たず洗面所で手を洗う。
うがいも忘れない。
風邪は引きたくない。
小さい頃からの習慣だ。
ふと思い出し、口を開いた。
「小学生の時さ、俺ミニバスやってたじゃん。あのチームって今もあるのかな?」
「あるんじゃない、無くなったって話は聞かないし。でも最近は少子化のせいでスポーツも中々難しいらしいねぇ」
「ああ、野球とかサッカーはそうかも。バスケは五人いれば一応出来るからな」
交代要員がいないとツラいけどな。
所属していたミニバスのチームも、人数的にはきついのだろうか。
俺と栄治がいた時は、それでも十人以上はいたけれど。
カレーをよそいながら、母が俺の顔を覗き込む。
「栄治君も次の試合出るんかね?」
「ああ。あいつ得点源だし、出ないと負ける」
「四年生までよく頑張ったわねえ、二人とも」
しんみりした調子に少し思うところはあった。
「ミニバスからだから長い付き合いだよな」と呟いた。
視線をリビングにやる。
小さなトロフィーがピアノの上に飾ってあった。
くすんだ金色が年月を感じさせる。
ミニバスの大会で、俺達が勝ち取ったものだ。
地区大会だからそんな大層なものじゃないけど。
あの時は俺と栄治でチームを引っ張っていた。
今は、どうなんだろう。
最後の試合か。
俺は果たして出られるのだろうか。
そもそも出たいのだろうか。
右手を見る。
ギュッと握り、また開く。
シュートタッチを失ったこの手で試合に出るのか?
親善試合とはいえ、そこそこ本気の試合になるのに?
自分で自分の気持ちが分からないまま、食卓に着く。
とりあえずは晩飯だ。
考えるのは後回しにして手を合わせる。
「いただきます」
「はい、お上がりなさい」
母のカレーはいつもと同じ。
平凡で、温かく優しい味だった。
来春には俺は社会人になる。
そうしたらこのカレーを食べる機会も減るだろう。
「もうちょい辛くてもいいかも」なんて言いつつ、この味で良かったとも思う。