とりあえず我が校について語ろうかな。
文章の上達には何が必要か? 修辞法の勉強、熟語の意味調べ、各分野の名文を分析すること……。まァ、いろいろあるワケですが、一番はとにかく書くことではないでしょうか。
というわけで、とりあえず書くことに慣れること。余裕が出てくれば、細かい表現や語感、感覚にまで勝手に手が伸びていくでしょう。プロットもないし、丁寧に推敲をするわけでもない。でもいいじゃない。そのうち何かが起きるさ。そんなことを思って、今日からエッセイなのか日記なのか自分でも区別がつかない文章をここに置いていくことにする。
じゃあ何の話をしましょうか、と考えて、とりあえず高校生ですから高校の話でもしようかなとありきたりな発想にため息。
私が通っている高校は百年以上前に設立された伝統ある学校である、といえば格好いいのだが、ただ、まァ、こんな言い方どうかと思うが如何せん古臭いのである。机は年代物で汗のかいた腕を乗せると、熟成された焦げ茶色の汁が染み出して、プリントやシャツを汚す。耐震性が足りないというワケで校舎はツギハギだらけ。比較的新しい隣の私立高校が羨ましく、その身にまとったブレザー制服を睨め付けること百回、睨み返され目をそらすことまた百回。
しかし古いということがすべて悪だとも思わない。放課後、校舎の中を夕日が通り抜け、窓枠の影がズラッと並ぶノスタルジー。まるで映画のワンシーンのよう。ふらふらとセピア色の残滓を拾い集めて旧棟の教室に引き寄せられると、一つの椅子に二人の男女が座って、睦言を交わしていた。いや、まさか、本当に映画の世界に入ってしまうとは、いやはや、そして名も知らぬ二人と目が合い、私は急いで走り去るのだった。それにしてもベタすぎる。
良い点を話そうとしたのにいつの間にかマヌケ話をしていた。ネガティブな私の悪い癖である。さあ、良い点である。……蔵書が多く、昔の本も読めるということであろうか。
今日、私は小口の真っ黒な本を一つ手にした。背には『アンナ・カレーニナ』と刷られていた。後ろのほうをペラペラとめくり製本された年月を調べるとなんと五十年以上前の版である。五十年前と云えば、私の父がギリギリ生まれていないくらいである。そういえば父もこの高校に通っていたらしいから、もしかしたら彼の読んだ本を私が知らずに読んでいるのかもしれない。そう思うとなんだか不思議な、時の流れとでもいうのか、奇妙な感覚に包まれた。
ついでとばかりに見返しに挟まれた貸し出しカードを取り出して眺めてみた。現在では貸し出しシステムが全てコンピュータで管理されているというのは司書さんの弁であるが、お役御免となり忘れられてしまったカードに書かれた最後の貸し出しは約三十年以上前のもので、そこにいた顔の知らぬ文学少女は今では細かい字が見えないと嘆くオバサンであることが容易に想像できる。こちらもまたなんだか感慨深い。
私はその図書カードの一番下に自分の名前と今日の日付を書いて、本棚に返しておいた。
令和元年11月1日 過去、ここで学んだ方々を想いながら。