片桐 愛衣
馬術部の部室に入った私を待っていたのは、片桐だけだった。
「他の子は?」
「貴女が来ると言ったら早々に出て行きました」
「そう。好都合か」
「えぇ」
片桐の横に腰掛け、頬杖をつき――体を横に向けて片桐の方に体を向ける。私は部員に良く思われていないから、二人きりになれるとは思っていた。
「お昼はどうでした?」
「一人で食べるよりは楽しかったよ」
「……そうですか」
片桐とは、もう随分と食べていない。片桐の周りには常に人が居るから。今の様に一人で居る事の方が少ないのだ。
「そういえば、君の取り巻き、佐藤と鈴木だけどね」
「そんな方、覚えがありませんわ」
「愛葉に暴力を振るっていた」
「あぁ……。冴条さんと正院さん?」
「あれがそうだったの」
冴条と正院。片桐家の子会社、その社長がそうだったはずだ。なるほど。子供の時から懇意にしておこうという訳か。片桐が突き放せない理由もそれなのだろう。
「お二人が何か?」
「あの二人、片桐の名を随分と有効活用しているようだね」
「二人の時まで皮肉はお止めください」
片桐が困ったような笑みを浮かべる。ついやってしまった。悪い癖だ。片桐の前でまで、皮肉屋で居たくなかったのだが。
「ハハ……すまない。久しぶりだから浮かれているのかもね」
「……っ。はぁ……今日呼んだのは別の」
「君は、嬉しくないのかな?」
言わなくても分かっている。馬術部の試合、その日程や練習の事を話すのだろう。でも、もう少し他愛のない話をしたいと思う。
「……嬉しいに決まっていますわ。片桐である事が嫌になるほどに」
「うん?」
「何でもありません」
(今日は随分と……積極的、ですね)
嬉しいという言葉は、私も嬉しい。しかし、片桐である事が嫌というのは、どういう事だろう。片桐は、片桐家である事に誇りを持っているはずだが。
「それで、冴条さんと正院さんは貴女に何を?」
「ん、ああ。この後、私は体育倉庫に行くことになっているんだ」
「……そういう事ですの?」
「さぁ。穏やかではない事だけは確かだね」
相手の数すら分からない。だけど、最低でも二人だ。
「私も行きます」
「止めた方がいい。私との関係がバレる可能性もあるんだから」
「もはや関係ありません……。友人を守れないなんて、嫌ですから」
片桐の性格なら、そうなると思っていた。
「そうだと思って言う気はなかったんだけど、知らなかった時の方が君は悲しむからね」
「あたりまえです」
片桐に後からバレると、悲しんでしまう。知らない所で私が、自分の取り巻きに呼び出しを受けていたと知ったら、ね。
だから言った。でもそれは、どうにかしてもらおうという訳ではない。最初は止めて貰おうと思ったけれど今は違う。
「知っておきたいんだ。私に何の用があるのかを」
「愛葉さんの事、私を呼び捨てにしている事、私との表の関係。大方その辺りでしょう」
「そうだね。でも、どうせなら本人から聞きたい所だ。怪我して帰って来たときだけ一言頼むよ」
「はぁ……。余りにも酷い時は止めに入ります。なので、着いて行きますから」
肩をすくめ、微笑む。妥協点は、その辺りしかないか。
「分かってると思うけど、私達の関係が片桐のお母上にバレたら、君は怒られる」
「……はい」
「だから、裏の関係だけはバレないように頼むよ。私から友人を奪わないで欲しい」
「……ズルいですわ」
片桐が下唇を小さく噛み、視線を逸らす。
「いつも迷惑をかけるね」
「貴女は、巻き込まれているだけですわ」
片桐が短くため息をつき、私に視線を戻してくれた。
「バレないようにします。私も、奪われたくないので」
「あぁ、ありがとう」
片桐が微笑みをチラッと見せた後、咳払いする。照れ隠しなどいらないのに、可愛らしい事だ。
「それでは、馬術部の話を始めますよ。試合は月末。それまで練習に付き合ってもらいます。貴女の担当は私です」
「よろしく頼むよ。どうにも、君のジェファー以外は私に懐いてくれなくてね」
「ジェファーは賢いですから。私と貴女の関係に気付いています」
「だろうね」
私は思わず笑ってしまう。良く見れば片桐も笑っているようだ。人の機微に敏感なのは、動物の方みたいだからね。
ジェファーは片桐の馬だ。白い毛並みを持った綺麗な子。片桐が生まれた時から、ずっと一緒に居る。大きく逞しい体躯は、私と片桐を乗せていても千里走れそうなほどだ。
「ジェファーは私と貴女しか乗せませんから、練習の時は私がつくと言っておきました」
「出来るなら二人きりで居たいんだけど、無理な話かな」
「貴女を理由にすれば離れた場所で練習出来ます」
「それで構わないよ」
どうせなら、片桐との時間を増やしたいと思っている。せっかく出来たチャンスを無駄にする程、私は怠惰ではない。
「練習するなら、愛葉には断りを入れないといけないかな」
「何か、ありますの?」
「明日の放課後は、寮までだけど一緒に帰ろうと約束しちゃってね」
「そうでしたか……。危なかったですね」
口の中で呟いた片桐の言葉は聞き取れなかったが、ほっとしているのだろうか。
「明日の昼も愛葉さんと?」
「約束はしてないよ」
「そうですか。ではここに来て下さい。空けておきます」
「楽しみにしてるよ」
今日の片桐は一段と積極的だ。でも、嬉しく思う。まるで小等部の時に戻ったようだ。
(あの頃は、片桐と一緒ではない日はなかったというのに)
少なからず感じていた寂寥感が、霧散していくのが分かる。
「あの頃に戻ったみたいで、嬉しいよ」
「……私はもっと、こうしたいんですよ?」
「片桐と九条だから出会えた。でも、片桐と九条だから……会えなくなったのかな?」
「…………!」
(お父様と、お母様さえ……っ!)
片桐は、私の知らない事を知っている。
「教えて欲しいな。君のお母上と、私の母。何があったのか」
「……それは、言えません」
片桐の気持ちは固まっているようだ。
「知らなくても、私達は友人です。この先もずっと」
「……そうだね。気長に待とう。お互い成人すれば、母親達の声の届かない所にいけるだろうからね」
「えぇ……。お母様たちには何も言わせません」
片桐も同じ事を考えていたようで、何かを決意していたみたいだ。
「これから体育倉庫ですの?」
「もう少しここに居たいけどね」
立ち上がり、行く準備をする。お茶を飲む暇がなかったのは残念だ。
「居ても良いんですよ。私の説教が長かったと言えば良いのですから」
「先延ばしにして、愛葉が標的になったら困るから」
「愛葉さんの為、ですの?」
「そうなるかな。まぁ、冴条と正院は元々私が気に入らなかったようだけど」
「そう、ですね。私に馴れ馴れしいと常々言っておりましたから」
馴れ馴れしい、か。
「片桐をなんだと思ってるんだろうね」
「お父様に頭の上がらない両親に教育されているのでしょう。私は何れ、片桐の長ですから」
「子供にまで親の関係を押し付けるなんて、親は何処も一緒かな」
その点九条は楽か。後を継がなくて良いし、親や親の交友関係を気にしなくて良い。
「冴条と正院と話してくるよ」
「遠くから見てますから」
「分かった」
部室を後にし、体育倉庫へ向かう。ここからは少し遠い。だからついでに、馬小屋に行っておこう。
多くの馬が出払っている。遠くのグランドを見ると、何人か乗馬していた。
「ジェファー」
「ヒヒィン」
小屋の奥から白い馬が出てくる。この馬は片桐専用だ。誰も触れない。といより、触らせてくれない。気高さは片桐譲りだろうか。
「明日からしばらく私も乗る事になったよ」
「ブルルルッ」
撫でると嘶き、頬を寄せてくる。了承と受け取っていいだろうか。仕方ないから乗せてやる、という表情にも見える。
「喜んでいるようですね」
「そうなのかな」
「えぇ」
「ヒヒィン!」
片桐を見たジェファーは、顔を上げ喜びの声を上げる。幼き頃より片桐と共に過ごしたジェファーは、片桐とは姉妹みたいなものだ。
片桐も頭を撫でている。遠目に見れば仲良しな二人と一匹だが、見る人が見れば。
「ジェファーを取り合って?」
「片桐様のお馬ですのに、九条様にも懐いてるからって……」
「どうして九条様には懐いているのでしょう」
固定観念とは恐ろしいものだ。どこをどうみればジェファーを取り合っているように見えるのだろう。普段サボっている私が馬を奪うはずがないのだが――私と片桐が居ればそこは、戦場になるようだ。
「はぁ……」
「まぁ、あれのお陰で私達は今の関係を続けられてるんだから」
「前向きに考えるしかなさそうですね」
誰にも見えないように微笑み合い、ジェファーをしばらく撫でることにした。
冴条たちは苛立っているだろうけど、相手の勝手な約束なのだから。待ってもらう事に些かの罪悪感すら湧かない。