学園の日常―登下校―⑯
「……」
「どれも平均よりは高いですが、やはり持久力に難がありますね。体がフラつくから、余計に筋肉を使っているのでしょう」
返事をしたいが、返事が出来ないくらい私は疲れきっている。手を軽く挙げるくらいしか出来ない。
「明日は予定通り、ジェファーやルージュとの交流に充てましょう。明後日はフォームの改善と練習ですね」
一日で治るだろうか。とはいえ、一日も無駄には出来ないのは事実。マッサージとか受けた方が良いのだろうか。明日の状態で決めるとしよう。
「そろそろ帰ってくる頃ですが、玄関で待ちますか?」
「ああ…………いや、初日は愛衣だけで行ってくれ。上手くいったか、愛衣も気になるだろうし。迎えは片桐の方が先に来る」
「夜会の件で、迎えは一時間遅らせていますが……」
「一応、ね」
すぐにでも出迎えたいのは山々だが――過敏になりすぎだろうか。部活動後、友人とメイドが居る私が迎えても問題はないし、生徒会長の愛衣が様子を見に来るのは当然だ。それが自然だろうが、残念ながら私は大人を信用していない。どんな難癖をつけてくるかわからないのだ。
大人の信用とは、お金の繋がりだ。健全なように見えて、裏ではお金の姿が見え隠れしている。それを見せないのがマナーだが、子供に見せない道理はない。家を継ぐなら、そういった面も知るべきだから。
(まぁ、私には関係ないが)
九条を継ぐ必要のない私には関係ない。だが、私は知っている。お金儲けに手段なんて言葉はない。儲けた者勝ちの世界で、道理なんてものは必要ないのだ。
(中学の頃の私なら……桜ちゃんの言は考えすぎと、窘めたでしょう。ですが……私はもう、お母様が何を考えているか、分かりません)
「では、五分程私が時間を頂きます。もし長引いても、咲さんと愛葉さんに伝わるようにはしておきますから」
「ありがとう」
やっぱり私は、愛衣に頼りすぎじゃないだろうか。何かお返しが出来れば良いのだが。
(ああ、そうだ。それが良い)
「明日、昼過ぎもやるのかな」
「ええ、はい。明日は一日かけて、交流しようかと思っています」
「じゃあ、何も作って来なくて良いよ」
「え?」
「あぁ、到着したようだ」
愛衣は首を傾げたが、伝わっているだろう。何というか、少し気恥ずかしい。
(それって、そういう事ですよね。お昼を食べられずに残す事は多々あるので問題はありませんが……)
「で、では。行ってきますから」
「ああ」
秋敷さんが監視しているようだが、あの部屋を使う時が来たようだ。増改築を繰り返した寮は、出入り口も多い。秋敷さんの目を振り切るのも、私達の方が得意だ。問題ない。
愛衣がフラフラとしながら、トレーニグルームから出て行った。何やら上の空だが、大丈夫だろうか。まぁ、一度もなかった事だから驚くのも無理はないが。
そんなに意識されると、私も少しばかり緊張してしまう。
「さて……何をどうやって作ろうか」
問題というのなら私の料理手腕だ。お握りを作れば、食べる直前まで三角を維持しているが口に入れようとすれば崩れ。から揚げは外側だけ完成し、中は火が通っていない。野菜炒めは水っぽくなりすぎ、味がしない。こういった基本的で根本的な部分で致命的なのが私の料理だ。どんなに勉強し、レシピ通り何一つ間違えずに作ってもこうなる。咲と料理長も首を傾げる程だ。
(サンドイッチなら、挟むだけだが――まぁ、何とかなるか。もっと別のお礼も用意しよう)
貰ってばかりだし。土日に愛衣と会うのも、何年ぶりだろうか。
「咲に相談しよう」
残念ながら私は、そういった事に――疎いという言葉で片付けられないくらい酷いのだ。帰りの道で用意出来るプレゼント、か。
(桜ちゃんの手料理……)
思えば、土日に桜ちゃんと会うのは、中学の時以来です。
(中学、ですか)
本当に、あの頃は……お互い、荒れていました。あの頃に比べれば、私達は落ち着いています。ですが――それは、諦念によるものでした。私も桜ちゃんも、諦めている部分があったのです。
それを……愛葉さんが変えてくれました。お互いの距離が離れていた頃に、貴女が現れたのです。だから――。
(私はもう、手放すつもりはありません)
愛葉さんというライバルに、桜ちゃんをそのまま渡すなんて、私ではありません。桜ちゃんを一番理解出来ているのは私。一番幸せに出来るのも、私です。片桐と九条を壊します。
「ん……羽間さんもお出迎えですか」
「ええ、お見送り出来なかったから。あの子は?」
「一応、です」
「そう……。秋敷先生だけど、私じゃ無理ね。学長に止められたわ」
「そうですか……。母が申し訳ございません」
「貴女の所為じゃないわ。本当に……何を考えているのかしら、愛香は……」
学校に関わる事なんて、今まででは考えられないのでしょう。変に関われば、片桐の名を穢すかもしれないというのに……一体何が、お母様をあそこまで、変えてしまったのか……。
(いえ、私は気付いている、はずです)
愛菜さん……。桜ちゃんのお母様……。お母様は、我慢出来ないのです。愛菜さんが、九条なのが。
「……」
「片桐さん」
「はい」
また表情が硬くなりそうになっていました。気をつけましょう。一時間遅らせたからといって、片桐家が見ていない訳ではないのですから。
「おかえりなさい。どうでしたか?」
「えーと……」
将棋部顧問の久氏先生が戸惑っています。何かあったようですね。初日から――とは言いません。私の予感が当たってしまったようです。
「私が少し、会員の方と戦ってしまいました」
「戦ったのは全員ですわ、愛葉さん」
「私があの人を睨んでたから、ちょっかいかけられたんだと思います……」
香月さんと愛葉さんの言葉で全てが分かりました。やはり、愛葉さんの前で桜ちゃんを貶したようですね。この件で分かるのは、愛葉さんは桜ちゃんの過去を少し知ったようです。
羽間さん――いえ、小鞠さん辺りですね。後、咲さんもでしょう。愛葉さんに教えたはずです。ですから、愛葉さんは桜ちゃんへの暴言を我慢出来なかったのでしょう。
(何も知らない人が、と。私であっても、カッとします)
「構いません。被害――というと、語弊がありますね。活動に支障はありますか?」
「その方との確執は出来たかもしれませんけど、将棋部屋で活動する事に問題はありませんわ」
香月さんの言うことなら間違いはないでしょう。この一件では第三者でありながらも、愛葉さんと桜ちゃんの関係を知っている方ですから。
「でしたら、問題ありません。その方と関係修復出来るようでしたら、お願いします。サンマルテは期間限定なのですから、内情に踏み入るのは極力避けて下さい」
「はい……」
「申し訳ございません」
「相手方も短気だったようですし、片桐さん。それくらいで」
愛葉さんも反省していますし、羽間さんに免じてここまでにしておきましょう。私がその場に居て、もし誰も見ていなかったら――分かりませんから。
「分かりました。では、解散します。五月七日さん、ありがとうございました」
「これからよろしくお願いします。明日も活動をなさるのでしょうか」
「はい。日曜くらいは休みでも良いと思いますが」
将棋部囲碁部に視線を送ります。
「大会まで、休みなしでやらせていただけると、嬉しいのですが」
「畏まりました」
「ただ、カフェの方は水曜日に定休日があります。運動部でなくとも、休息は必要ですよ」
「はい」
解散となりますが、私が言うまでもなく愛葉さんは辺りを見渡しています。
「こほんっ」
「っ!?」
「では、咲さん。お疲れ様でした」
「はい。愛衣様も、ありがとうございました」
咳払いを一つ入れ、私はこの場から離れるとしましょう。
「羽間さん。夜会の件で少々」
「ええ。一時間程時間を貰うわね」
「迎えは遅らせているので、ご安心ください」
「流石ね。咲。それじゃまた今度」
「はい。暇があればお茶でも」
「ええ」
門に、車の影はありませんね。桜ちゃんとお母様が会う事はなさそうです。夜会をしっかりと成功させましょう。桜ちゃんも参加するかもしれませんし、少し楽しみですから。
(それが愛葉さんのお陰というのは癪ですが……私も、楽しませていただきます)
恐らく――最初で最後の……私が楽しめる夜会ですから。
そろそろ玄関に行くとしよう。
「ん……」
「あら。何処に行くのかしら」
「玄関ですよ。下校時間ですし」
はぁ。まさか、秋敷さんがこんな所に居るとは。いや、予想できなかった私が悪いのかもしれないが。
「そう。私もちょうど行くところよ」
「そうですか。咲に何か用事でも?」
「いいえ。ある訳ないでしょう」
相変わらず、咲が苦手のようだ。この秋敷さんに苦手意識を持たせるなんて、咲はどうやったのだろうか。
「ぁ」
「……」
そんなに狭い学校ではないのだが。まぁ、私と愛衣の出会いが運命としたなら、私達は出会う運命なのだろう。どんな時であっても。
「九条さん、お帰り?」
「はい、羽間先生。お疲れ様でした」
「ええ。九条さんも。それと――」
「まだ何か?」
「いえ。気をつけて頂ければ幸いと申しました」
羽間さんと秋敷さんの間に何かあったようだ。まぁ、一限目のあれはやりすぎだったから当然か。
「羽間先生。急ぎましょう」
「え、ええ」
「失礼します。羽間先生」
お互い視線すら合わせず、逆方向へ進む。ただ視線が合った事すら、片桐母の神経を逆撫でしそうなのだから、仕方ない。
(全く)
秋敷さんの性格の悪さを上手く使っているようだ。片桐母は。
「同じ部活生なのに、会話すらないのね」
「私は適当に選んだ部活ですし、用がない限りはあんな感じですよ」
「じゃあなんで今更頑張ってるのかしら」
まぁ、そうなるか。
「愛葉――私の友人を、後ろに乗せると約束したので」
「……あ、っそ」
愛葉との約束を理由にするのは憚られるが、少しばかり使わせてもらおう。私は私の平穏を守る為に何でも利用すると決めている。少しばかり良心が痛もうとも、最終的に笑顔で高等部を出られるように、だ。
「用がないなら、私は行かせて貰いますよ」
「玄関に用事があるのよ」
「咲が居ますが」
「咲が居るからって、絶対に避けるとは思わない事ね」
そんな事は分かっている。咲が居ても行かないといけない理由が知りたかっただけだ。
(まぁ、気にしなくて良いか)
早く玄関に向かおう。
「待ちなさい桜」
「何でしょう」
「まさか、そのまま帰るつもり……?」
「ちゃんと着替えますよ」
いくらズボラとはいえ、体操着のまま帰宅というのは流石に、だ。愛葉を送ってから、着替えに戻るとしよう。
「お疲れ様でした。お嬢様」
「咲も、お疲れ様」
咲は出発前と変わらない様子だが、愛葉は少し落ち込んでいる。
「愛葉?」
「は、はいっ」
「向こうで何かあったのかな」
「えっと……」
他の生徒が居れば話を聞けたかもしれないが、既に玄関には咲と愛葉だけになっている。香月くらいしか知り合いが居ないし、愛葉から直接聞きたいから選択肢にないが。
「ちょっと、個人的な理由で対局を」
「ん?」
対局なら、問題という訳ではないのか。負けたからといって、愛葉が落ち込むだろうか。個人的な理由なら、ありえなくはないか。
(ちゃんと理由を言わないといけないんだろうけど……)
「初日から問題起こしちゃって、ごめんなさいっ! でも……譲れない事が……あったんですっ」
愛葉の、譲れない物か。それが何なのか私には察せられないが、問題とはならないはずだ。
(愛葉様、お嬢様にはちゃんと言った方が)
(で、ですけど……訂正を引き出せた訳でもないですし……)
(お嬢様はそれでも喜ぶと思いますよ?)
(ぅ……)
向こうで何かあったのか、愛葉と咲の仲が良くなったようだ。何か問題を起こしてしまったと落ち込んでいるが、二人の仲が良くなった事の方が重要だろう。
「えと……一応、将棋部屋に馴染む事は出来たと思いますっ」
「私が見学に行った時に、一人気になる子が居たけど――大丈夫だったみたいだね」
(多分、その人です……)
問題らしい問題は起きていないようだし、そろそろ愛葉を送ろう。
「愛葉を送って、着替えてから戻ってくるよ」
「畏まりました」
じっとこちらを見ていた秋敷さんは無視し、寮に向かう。咲に用があったのか。送迎の件は秋敷さんに一任されていたのだし、一応見に行くように言われたのか。別の理由か。気にしても仕方ないな。
「――」
「――ッ」
何か言い合っているが、いつも通り秋敷さんが勝手に喚いているだけのようだ。
「桜さん?」
「何でもないよ。カフェはどうだったかな?」
「はい。コーヒーだけですけど、美味しかったです。他の皆も、偶のコーヒーも悪くないと」
「皆紅茶派だからね」
少しばかり慌しい初日だったようだが、結構楽しめたらしい。こう言ってしまうと問題だろうが、部室を取り上げられたいと思う生徒も出てきそうだな。
「愛葉さん、急ぎなさい」
「は、はい! 桜さん、ありがとうございました!」
「私は何もしてないよ」
一応、羽間さんが思いついて秋敷さんに頼んだという事になっている。まぁ、何に対してのお礼なのかなんて、私達以外には分からないだろうけど。
「それでも、ですっ」
「ん。明日も見送りは出来るだろうから」
「はいっ! おやすみなさい、桜さん!」
「おやすみ、愛葉。しっかり休むんだよ」
大きく手を振って、愛葉は寮に入って行った。私も更衣室に向かうとしよう。
愛葉は最近、暇を見つけて仮眠を取っているらしく調子が良いようだ。今くらいの睡眠を取る事が出来れば、体調に問題は出ないのだろう。とはいえ、普通の学校では難しい。やはりサンマルテや、そういった事に理解がある学校に行くしかなかったという事だ。
(今の状態を維持させるか、一度ぐっすり眠る時間を作るか、だな)
土日は何とかなるとして、来週の水曜日は祝日だ。確かカフェも定休日だし、約束通り愛葉と過ごす中で時間を設けよう。
「よし」
着替えも済んだし、戻ろう。
「ん……」
戻って来たものの、タイミングが悪かったようだ。私は元々、タイミングの悪さに定評がある。それを如何なく発揮した結果だろう。
「桜、挨拶なさい」
「……」
一時間遅らせると、愛衣から聞いていた。だからこそ来たという事だろうか。何にしても、鉢合わせてしまうとは。
「お久しぶりです。片桐様」
「ええ、そうね。あの時以来かしら」
「はい」
姿自体はよく見ていたが、目を合わせたのは――愛衣が私を引っ張って行った時以来だ。会話した時となると、入園パーティ以来か。何にしても、お互い顔を合わせたくなかったから、今日まで会わなかった。
「お邪魔だったようですから、私は先に」
「あら、構わないわよ。別に、全くの他人という訳じゃ」
「片桐様。お嬢様は少々疲れていますので、失礼させていただきます」
咲が片桐母の話に割り込み、私を連れ出そうとしている。
秋敷さん以外に、ここまで露骨に割り込む咲を見たのは初めてだ。何か聞かれたくない事があったようだが。
「……そう。また今度会う時は、お母さんと一緒が良いわ」
「今は北海道ですから、難しいかと――」
「その事だけど、桜」
私は別に、察しが良いという訳ではない。だけど――秋敷楓の顔を見ただけで、私は血の気が引くような感覚になってしまった。
「雄吉が少し早く帰ってくるそうよ。愛菜も一緒に」
「……そう、ですか」
辛うじてこれだけ搾り出せたが、それ以上何も言えなかった。別に、何時も通りだ。何も変わっていないし、変える必要もない。だが、今この状況で……しかも予定を繰り上げてまで帰ってくるというのは、不気味という言葉しか出ない。
咲に視線を送ると、驚いた表情をしている。咲が知らなかったという事は、父の独断だろう。
「帰って来たら連絡をください。招待状を送りますから」
「はい」
片桐母と秋敷楓がなにやら話しているが、頭に入ってこない。
「お嬢様……帰りましょう」
「あ、ああ。失礼、します。片桐様」
「ええ」
ここで秋敷楓と何を話していたのか、とか。招待状とか、なぜ今になって両親の帰還を言ってきたのかとか、疑問しかない。
ただただ、思う事がある。今日でなくて良かった、と。
「咲。帰りに寄りたい所があるんだけど」
「畏まりました……」
なに。気にしなくて良い。家に居ても居なくても、交流など一切ないのだ。私が気にするべきは、明日のお昼をしっかりと作れるかどうか。それだけ迷っていれば良い。
それで良いはずだ。
ブクマありがとうございます!




