学園の日常―部活動―⑩
「園芸部って、ここで活動してるんですか?」
「ここはあくまでも小鞠さんの私物だ。園芸部なら、乗馬場の近くで活動してるよ」
愛衣を見たいからと、園芸部の者達が頼み込んだらしい。噂でしかないと切り捨てられないのが、愛衣関連の話だ。彼女が関われば、それくらいしそうと思える。
「完全に秘密の場所だよ」
生徒で知っているのは、私と愛衣、そして愛葉だけだ。教師も小鞠さんしか来ない。偶に軽井さんと羽間さんがやって来るが、事情を知っている三人だから問題ない。
「多少踏み込んだ話をしても良いんだよ」
「桜さん……」
愛葉が気にしているのは知ってる。食事時に重たい話をするのは悪いとは思うが、愛葉が知りたいのなら話そうと思う。
「……」
(私はまだ、浮ついてるんだと思う。桜さんの過去を聞く資格があるのかな……。覚悟が、あるのかな……)
「といっても、愛衣が隠してる事は私も知らないんだけど」
私が話せるのは、私の過去。噂にまでなっている、両親との関係だけだ。
「話せる事は少ない」
「桜さんの……過去……」
(噂じゃない、本当の……)
「聞く?」
私の提案に、愛葉は頷いた。色々と葛藤があるようだが、聞いてくれるらしい。愛葉には知っていて欲しいと思っている。せめて、私という人間がどういう者だったのかを。
「私の一番古い記憶は、三歳だったか四歳だったか。私に向けられた父親の視線だ」
何故曖昧なのか。もっと前の記憶も朧気にあるんじゃないか。そんな疑問もあるだろう。だが、一切ない。両親の記憶は――ないのだ。
あれは、サンマルテの幼稚園に入る少し前。いつもの様にテレビを見ながらぼうっとしてた時だ。
「……」
画面の向こうで動いている、作り物の家族。そこには普通があった。両親から叱られたり、撫でられたり。それこそ、微笑を向けて貰えているだけの、ただの幸せそうな家族。
(家族……)
しかし私にはそれが作り物でしかないと思った。何故なら私の本当は、この家の中だ。画面の家族は歪に見えた。自分に都合の良い言葉をくれる親。自分に都合の良い行動をしてくれる子供。都合の良い展開と、都合の良い世界。
「……」
(親って、何だろ)
親と会話した記憶がない。ほんの三日遡っても、一ヶ月前まで考えても一言もない。
「咲」
「はい。お嬢様」
私の後ろにはいつも、メイドの咲が居る。お金持ちらしい我が家だけど、私にはその実感もない。何故なら私は、この家を出た事がない。欲しい物もなければ、我侭を言う相手も居ない。
そういったお嬢様を、箱入りのお嬢様というらしい。大切に大切に育てているという話だが、私はそうではない。
「父と母は」
「旦那様は執務室。愛菜様は出掛けております」
「そう」
父は職場と家の往復。職場に居る事の方が多いが、今日は居るらしい。母はもっと家に居ない。今日もどうせ、社交パーティだ。両親共働きなんて、このご時勢珍しくもない。だけど、食事くらいは一緒に食べるだろう。休みを出来るだけ取り、子と遊ぶ時間を作ろうとするだろう。作り物でなくても、家族ならそれくらいするはずだ。
(でも、私にはメイドしか居ない)
料理人の作るご飯は美味しい。メイドは身の回りの世話をしてくれるし、何不自由の無い生活というものは、こういうのを言うのだろう。
(親、か)
何を思ったのか、私は父の所に向かった。確かめたかったのだろうか。急に湧いてきた疑問を解決したかったのだと思う。一度も会話をした事が無いのだから、話さないと始まらないと……幼心に思ったのだ。
執務室をノックする。返事はなかったけど、入ってみる。怒られなかったけど、顔をこちらに向けてくれなかった。
「お父、さん」
思えば、呼び方すら知らない。世間ではこれを育児放棄と呼ぶというのは、ニュースで知っている。でも私は不自由の無い生活が出来ている。これを育児放棄と呼んで良いのか怪しい。ただ、私は両親の呼び方すら知らなかったのは事実だ。
「……」
声が届いていなかったのだろうか。これも今気付いたが、私は家の中で殆ど喋らなかったのではないか? だから、声を出しきれていなかったのかもしれない。少し掠れてた気もするし。
「お父さん」
今度は聞こえたと思う。チラっと視線を向けて貰えた。だけど、返事はなかった。
「あの、私は……」
何を聞いたら良いか分からず、声が尻すぼみになっていく。父親と何を話せば良いかすら、分からないのか。本当に私は、この家の――。
「っ……」
父は、そんな私を見ていた。漸く完全に視線が合ったように感じたけど――その視線は氷よりも冷たく、夜よりも暗かった。暗闇はそこに在るのに、何もないと感じてしまう。私に対する感情は何も無かった。邪魔とすら思っていない。
当たり前だ。私が感じるはずもなかった。何故ならその視線は――私ではなく、私の後ろにあった……埃に向いていたのだから。
「埃があるぞ。掃除をしろ」
「……はい。旦那様」
私の後ろに居た咲が、掃除を始めた。父は私が居るなんて、思ってすらいない。埃があって邪魔だったから、視線を向けただけなのだ。
(そっか)
私は漸く分かった。父にとって私は、埃ですらなかったのか、と。
「何で、そこまで……」
「そこは、私にも分からない。一応血の繋がりがあるのは検査済みだ。私はあの二人の実子。でも、あの二人に桜という存在は見えていない」
(桜さんは、それを乗り越え済み……。だからって……そんな、虐げられて良いはずがない……っ)
「…………フッ。気にしなくて良い。私は君達相手に、嘘は言わない。今幸せなのは本当さ」
ずっと昔から私は分かっていたはずだった。テレビでやっていた家族ごっここそが本当で、私の家族が異常な事は。でも、現実だから、本当なのだと思いたかっただけなのだ。
だけど私は、せめて一言、名前を呼んで欲しいと思った。父に対する失望よりも、父の興味を引けない自分に失望した。
その時の私は、受け入れ切れていなかった。自分の娘に興味がない親なんていないと、思いたかったのだ。そう思わないと……自分を保てなかった。父の視線は、私という存在を無にするだけの……絶望感を私に与えたのだから。
だから、父の期待に応えきれていなかったのだろうと、思い続けた。父が片桐を敵視しているのは知っていた。だから、片桐家よりも優秀な子が欲しかったのだろうと、思う事で前を向けた。
勉強を始めた。礼節を学び、少しは社交的な応対が出来るようにと、頑張ってみた。その全てに――意味など、なかったが。何しろ私は無愛想だ。今更表情をどうこう出来そうにはなかった。笑ったことすらないのだから、当然か。
そんな折、サンマルテへの入学が決まった。その最初のパーティに、私も着いていかなければいけなかった。咲からこう言われたのだ。「愛菜様がお嬢様を連れてパーティに参加したいと言っていた」と。父もそうだが、母とはもっと接点がない。だから少し戸惑ったが、パーティに行くのに子が要ると知ったので理由を聞くまでもなかった。
そこで初めて、愛衣に逢った。愛衣から話しかけてきた。誰からも愛され、誰からも話しかけられ、誰からも崇められる彼女からだ。私とは違い、片桐愛衣という少女は居た。
明確な敗北がそこにあったけれど、私に敗北感はなかった。私では……九条では勝てない存在というのを、初めてみた。父の嫉妬や敵対心なんてものは、余りにも矮小すぎる。どこまでいっても、片桐という存在は眩しすぎた。私は諦めるしかなかった。もう、私には何もない。
そんな、何も無い私に、片桐愛香は執着し始めた。何故なのかと思うよりも……片桐愛香の視線に刺されて、何も考えられなくなった。その視線は見覚えがあったからだ。その視線は――父と一緒だった。
私はその場から逃げた。愛衣の待って欲しいという懇願を無視し、咲の制止を振り切り……。その時、母の声を聞いた気がしたけど、母親の声なんて覚えていないのだから、幻聴だろう。
家に帰ってからの私は、抜け殻だった。何もしなかった。それでもサンマルテに登校したのは、家に居たくなかったからだ。その家に『桜』の居場所はない。
人間は一人では生きていけない。私は学校に、居場所を求めた。そこで……愛衣はまた、私を見つけてくれた。話しかけてくれた。何度も手を取ってくれて、何度も笑顔をくれた。
そんな愛衣が、変わった。片桐愛香の所為というのはすぐに分かった。でも、根本は違う。私の所為だ。
「だから、つい先日まで私達は踏み込めなかった」
「それが、あの違和感……ですか?」
「そう。あの時片桐愛香が口出ししなければ、私と愛衣はもっと早くに友人となっていたはずだった」
でも、それはきっと、私達にとって偽りだ。愛衣は私も知らない秘密を知り、決意し、今がある。お互い勘違いしたままだったが、私達はちゃんと向き合えている。だから、その期間も私達にとっては思い出だ。
「私は確かに無関心で、無気力で、怠け者だ。だけど、私にはどうしても我慢出来ない物がある。親に踊らされる事だ」
勝手に踊っていただけだけど、私は親に人生を弄ばれるのが嫌いだ。それを見るのも。だから、つい……色々な理由をつけて口を出してしまう。これはもう、私の心に刻まれたものだ。
でも、それで良い。私はもう自分が分からないが、私を知ってくれている人は居る。そして、一緒に居てくれるのだから。
「他にも色々あるんだけど、これが私の根源。私が私を失い、見つけてもらうまでの話だ」
両親から無視されてたけど、普通の生活は出来ていた。冴条と正院が、何故私が普通で居られるのか、と言っていた。そんなの簡単だ。親から何かをされた訳じゃない。私が勝手に勘違いして、勝手に努力して、勝手に絶望しただけなのだ。
「私は両親から何一つされていない」
だから、普通も何も、私は何もされていない。自滅。そんな私が誰かに当たるなんて、我侭が過ぎるだろう。私はこれ以上、自分の感情で何かをしたくはない。もう、そんな事をしたくない。
「……」
(桜さんの両親……。何でそんな事、出来るの……? 一体何が……理由がないと、そんな事……でも、私に理解出来るはずが無い。私は桜さんの両親とは、全くの真逆なんだから……っ! 私は、桜さんの事、好きなんだから!)
「愛葉。もう一つ気になっているだろう?」
「え――?」
流石に一気に喋りすぎたか。というより、私の過去は、愛葉には重すぎたかもしれない。世の中の不幸に比べれば、普通の生活が出来ているだけ私は幸せの部類なのだが――存在価値すら見出せず、生まれた意味すら知らず、教えてくれる者も居らず、というのは……辛い物である事に変わりないだろう。それを毎日、家に帰る度に見る訳だ。
(だからといって、愛葉まで気を病む必要は無い。私は知って欲しいだけだ。私が立ち直れたのも、幸せなのも、愛衣と咲と――愛葉のお陰なのだと)
だから、愛葉が気になっているもう一つを答えよう。辛気臭いまま昼食を終えるのは、誘ってくれた愛葉に申し訳が立たない。
「何で、私が愛葉に興味を持ったか」
「それ、は……。今は」
「この話込みで私の過去だから、良いんだ。ああ、でも。少し恥ずかしいから今度のも適当に聞いて欲しい」
「は、恥ずかしい?」
(私を気遣ってくれてるんだろうけど……。桜さんの恥ずかしい話も気になるけど……っ! 桜さんが内緒って、唇の前で指を立てるの、凄くドキドキするけどっ! 良いのかな? それって、片桐様も内緒にしたい秘密……。あ、でも……本人から聞くのは良いのかな?)
「教室から、君の寝ている姿が見えた訳だけど――」
この学院で最も自由な存在と、私には映ったのだ。それで、惹かれた。見る事が増えた。視線の端に常に止まるようになった。見ていくうちに、その髪の奥にどんな目があるのかな、とか気になった。声が気になった。
(あ、あわわっ)
「私は、愛葉という存在が気になった。この学院で最も自由で、最も純粋な君が」
私にはない物。普段なら興味すら湧かないのに、何故か知りたくなった。
「今君と、こうやって話せる。これが私の幸せだ」
(だから、今まで何もして来なかった両親達が、いきなり関わってくるのだけは許せない)
偽りの無い幸せがここにある。幻想でも、作り物でもない。本当の幸せだ。
「愛葉」
「は、はいっ」
「色々と話したけど――きみは、私と居て楽しめているかな」
私はつまらない人間だ。そんな私と居て、楽しめているのか疑問だった。
「私は――」
(私は、桜さんと居て楽しめているの、か……?)
愛葉が少し考え込んでいる。それは、私と一緒に居て楽しいか悩んでいるのではなく、今までの事を振り返っているような、アルバムを捲るようなものだ。
「そんなの、楽しいに決まってます! 私だって……学校、楽しめなかった! すぐ寝ちゃうし……。でも、桜さんが引っ張りだしてくれたんです。学校に行く理由も、起きていたいって気持ちも、やっと持てるようになりましたっ」
アルバムを捲る度、愛葉は笑顔になっていった。
「桜さん、私……楽しいです。桜さんと話すのも、逢うだけでも! だから――」
(あ、あ……危ないっ。勢いで、言っちゃうところだったっ! でも、私の気持ちの一部くらいは、言って――いやいや! まだ早いよっ私!)
「うん?」
「え、えと――」
愛葉が段々と顔を紅潮させていく。私の顔をじっと見て、言葉を止めてしまった。
「わ、私――!」
「あら。お邪魔だったかしら」
「っ!?」
こういう、大事なところで邪魔が入るのを何というのだろうか。もう少しで愛葉から言葉が出てきそうだったのだが。
「今回はお邪魔だったかもですね。小鞠さん」
「あら。ごめんなさい。でもそろそろ水遣りしないといけないの」
そういえば、小鞠さんが来る時間だったか。それなら私のミスだな。
「愛葉。続きはまた今度で」
「は、はいっ。あの……私も、桜さんを見つけますから!」
「フフッ……。ああ、頼むよ。私を見つけてくれ」
どんなに迷っても、私が居なくなっても、君達なら見つけてくれると、信じているよ。だから私も、君達との日常を守る為に頑張ろう。
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