九条 桜
「あれって、愛葉さん?」
「何でこの教室に……。というより」
「起きてるところを初めて見ました」
どうやら、彼女は私が思っている以上に有名だったようだ。名前と姿が一致していなかった自分を恥じていると、彼女が私に向かって歩き出した。他には目もくれず、教室の窓際にある私の席まで一直線だ。
「おはようございます。九条さん」
「桜でいいよ。私は名字が好きじゃない」
「ですが、片桐さんは……」
彼女は、私と片桐の関係も知っているらしい。少し目を見開いてしまうが、私はこれでも、ポーカフェイスには自信がある。
「片桐は――良いんだ」
「そう、ですか。では、桜さん。このヘアピン、ありがとうございました」
そういって外そうとする彼女を、私は止める。
「そのまま使って良いよ。君に上げたんだから」
「ですが、それだと桜さんが……」
「私はそこまで長くないから」
黒板が見えなくなる程長い訳ではない。それに、髪留めはまだある。今は外しておきたかっただけだ。
「君の方が良く似合ってるよ。着けておいてほしいな」
「ありがとう、ございます」
少し頬を染めて頭を下げる彼女は――少女漫画のヒロインみたいな愛らしさだった。
「では、こちらを」
「うん?」
手渡されたのは、青いヘアピンだった。新品という訳ではない。少し塗装が剥げている。どうやら私は、余計な事をしてしまったらしい。
「そうか。自分のを持ってきてたんだね」
「はい……。ですが、その……桜さんのを頂けましたから」
にこりと笑い、私の手にヘアピンを置いてくれる。交換という形になってしまったけれど、それはそれで嬉しいものだ。
「ありがとう」
「はいっ」
昨日の寝起きとは違い、今日は少しだけ元気のようだと感じる。もしかしたら、こちらが彼女の普通なのかもしれない。
彼女からもらったヘアピンで、前髪を無造作に左へ流す。黒板さえ見えれば良いといった、お洒落さの欠片もない纏め方だ。
「朝礼に間に合わないよ。自分の教室に戻った方がいい」
「はい。その……」
「ん?」
「後ほど、お会いできませんか?」
彼女の方からお誘いがあるとは思わなかった。私を誘う人間は少ないから、嬉しくはある。しかし――今日は馬術部の集まりがあったはずだ。といっても、幽霊部員みたいなものだから行く必要はないか。馬術部の皆も、私が居ない方が良いだろう。
「良いよ。いつが良い?」
「お昼を、ご一緒に」
「分かった。迎えに行くよ」
待ち合わせた方が目立たないとは思うが、彼女のクラスを見ておきたかった。片桐の取り巻きはどこにでも居る。ちょっかいをかけられていないか確認しておきたい。
「はい。お待ちしてます」
お辞儀をした彼女は、小さい歩幅で教室に帰っていった。そんな彼女をクラスの者達が観察している。この噂も、瞬く間に学院中に広まるのだろう。
この学校は全寮制だ。例外は、片桐と私だけ。故に、眠るまで雑談が捗るようだ。学院内で起きた事なら、翌日には全員が知っている。注目度が高ければ日を跨ぐ必要すらない。言ってしまえば、お嬢様方は暇人なのだ。
そんな暇な学院の寮生活だけど――私は寮が良いと言っていた。だけど親が許してくれなかったのだ。帰りが遅い父、家にも帰らずにパーティーに入り浸る母。家を見る人間が必要だからという、身勝手な理由の所為だ。
使用人達は父と母より私を信頼してくれている。私も両親より、執事やメイド達との方が仲良しだと思う。実際、私を育てたのはメイドの一人だ。
ただ――父や母より信頼されているが、そこに優越感などはない。「ざまぁみろ」と汚く考えてしまった事も昔はあったが……今では、どうでも良い事だ。父も母も本当に、家の事など全く気にしていないと分かってからは、虚しくなっただけだから。
勉強の頑張りも、スポーツの結果も、人からの評価も。私の努力は全て、父と母にはどうでもいい事だった。片桐の様に、それが当たり前として捉えられるならばまだいい。両親にとって私は無価値だから、興味を持たれていないのだ。
(まぁ、両親が興味を持っていないのは――私だけではないのだけど)
父にとっての全ては、会社の拡大。母にとっての全ては、社交界での繋がり。二人の世界はそれだけだ。憑りつかれたように没頭している。つくづく、どうして私を生んだのか理解出来ない。そもそもあの二人の間に愛はあったのだろうか。
そんな家庭に居たからだろう。私の人生は退屈でしかない。それで良いと思っていた。しかしそれも、今日で終わりそうだから――少しだけ、心が躍っている。
(お昼が待ち遠しいな)
そう思えたのは、いつ以来だろう。
二限目が終わり、再び教室が騒がしくなった。
「九条さん」
愛葉に続き、片桐が私を訪ねてやって来たから、仕方ないか。そもそも私に話しかける人自体珍しい。それが渦中の愛葉や片桐なら尚更だろう。
片桐と私の戦いでも起きると思ったのか、クラスメイトは教室から出て行ってしまった。片桐の威圧感の所為か。どこぞの不良ドラマのように、机や椅子が飛び交う事なんてありえないんだけど――好都合だ。
「……君から話し掛けてくれるなんて、嬉しいよ」
「本当にそう思ってますの?」
「これでも傷ついていたよ。君に嫌われたのかと思って」
昔から私の事を知ってくれている片桐は、私にとっては……そうだな、幼馴染か。
「君と争うつもりはなかったんだ。取り巻きの暴力さえなければ、口出しもしなかった」
「それは……。いえ、申し訳ございませんでした。止めなかった事は謝りますわ」
言い訳をしようとしたのだろう。しかし、「王者とは言い訳をしない」とは、片桐の言葉だ。昔から変わらない。私からすれば考えすぎで、抱え込みすぎな、可愛らしい少女のままだ。
「それは愛葉に頼むよ」
「……」
片桐にも譲れない物がある。それが、愛葉との一件なのだろう。
片桐の言葉にも理があった。だから謝るのは取り巻きを止めなかった事だけで、愛葉にかけた言葉を訂正する必要はない。愛葉に関しても、順位で上位をキープ出来ている間は好きにして良いと、私は思っている。
まぁ、成績が良いとは言えない私が上から言って良い問題でもないのだけど。
「それで、用事があったんだろう?」
「はい。どうせ今日も来ないと思いましたから、釘を刺しに」
「馬術部の事かな」
「もちろんです。試合に関わる事ですから、しっかり出てください」
この学院は全寮制に加え、部活動は全員参加だ。部活動やテストの成績上位者には幾つか褒美が与えられる。外出権が一番人気だったか。外に出るのも一苦労という、古めかしい学校だけど、私は嫌いではない。
「すまないね。先約だよ」
「会議の方が先だと思いますけど?」
「今呼ばれたからね。普段は出なくても怒られないから」
「はぁ……。私はいつも怒っています」
「今日だけは、自分の用事を優先させてもらうよ。埋め合わせはする」
「貴女がそんなに執着するなんて……あの子ですの?」
どうやら片桐の中では、私が執着するのは愛葉だけと思われているようだ。
「お昼を一緒にね。昨日のお礼みたいなものだよ」
「……それ」
片桐の手が私の髪に伸びてくる。そしてヘアピンに触れ、撫でた。私のこれを見つけてからずっと、気になっていたのだろう。脈絡も何もない、唐突な行動だった。周りに誰も居なくて良かったと、私は苦笑いを浮かべてしまう。
「あぁ。愛葉から貰ったものだよ」
「前、着けていた物は?」
「愛葉に上げた」
「あれは……!」
片桐の顔が悲壮に染まる。何か勘違いしているようだ。
「君から貰った物はここにあるよ」
「え――」
「いつも持ってる」
片桐が昔、私にくれた物だ。小さいながらも宝石が散りばめられていて、普段使いするには派手すぎる。だから箱に入れたままにして、いつも持ち歩いていた。
「前のは、似せて作った物だよ。宝石部分もガラス」
「な、なんで」
「せっかく貰ったのに着けてないのは失礼だと思ってね。でも、これを普段使いは少し、私には派手すぎる」
それでも偽物を作ってまで付けていたのは、せっかくの贈り物を付けないのは失礼、と考えたから。片桐や愛葉のように綺麗な髪ならまだしも、私の――鈍い金の、質も良くない髪には大仰だと感じていた。
執事に頼んで代替品をまた作って貰っているけれど、愛葉にヘアピンを貰ってしまった上に片桐にはバレてしまった。必要なくなったと連絡しよう。
「っ! そんな事ありません! しっかり自分で――」
片桐がハッとして、咳払いをした。
「とにかく、人に差しあげた訳ではないようで、安心しました」
「君がくれた物を人にあげたりしないよ」
「~~~!」
何か言いたそうにしているが、大きくため息をついて呑み込んだようだ。
「私も……」
「うん?」
「いえ。お昼は諦めますが、放課後は出席願います」
「分かった」
「では」
片桐が教室を出ると、クラスメイト達が入ってくる。口々にヒソヒソと話しているようだ。居心地は悪いが、これもいつもの事だ。
「すごい剣幕で詰め寄ってましたね」
「やはり先日……」
「近々、大きな争いが――」
どうやら、噂に拍車がかかってしまったようだ。周りが勝手に盛り上がっているだけで、実際に抗争など起きはしない。無視で良いだろう。
(……片桐は私を嫌ってないようだし、それで良い)
幼馴染を失くすのは、私でも辛い。
(……幼馴染、か)
小さく、自嘲的な笑いが零れてしまう。
ただの幼馴染。そう言ったが……私にとって片桐は、唯一無二の存在だ。いつも通り、やる気も生気もなく、茫然と生きているように見えるだろうけど――これでも結構、冷や冷やしていたんだが。これは私だけの感情だ。
片桐と出会ったのは、最初で最後の社交パーティに出席した時だ。この学院に入学するに当たって開かれた、交流会。そこでの出来事。
片桐は最初から大勢に囲まれていた。対して私は、部屋の隅で会場を見るだけだった。
母と違い、父の色が濃く出てしまった髪と瞳。親子には見えないだろう。というより母は早々に親同士の交流へ出て行っていて、私は一人。母にしても、私と親子だと思われる心配もない。
ここに来たのも、この会場には子が居なければいけなかったからだ。母のみで良いとなれば、私は家でお留守番だっただろう。
(私みたいな子は、一人も居ない、か)
この時の私はまだ、自分を受け入れきれていなかった。母の愛情を全く感じない日常に。周りはキラキラと、輝かしい将来を思い浮かべた原石達ばかり。そんな中で険しい顔をしていたからなのかは分からないが、私に興味を持った片桐が近づいてきた。
「楽しくありませんか?」
「私には、ここは少し派手すぎる」
私とは全くの正反対。刃物とまで言われる私の目と違い、垂れ目で柔和。虚ろな私の黒い瞳と違い、太陽がそのまま入っているかのような金の瞳。鈍い金と言われ、粗悪品を見るような目で見られた私の髪と違い、光で煌く、最高級の生糸すら安物へと変える程の煌びやかな髪。
何もかもが輝いてみえた。私とは生きる世界が違うのだと、すぐに理解した。
「片桐 愛衣ですわ」
「九条 桜です」
片桐のお嬢様。噂でしか聞いた事なかったが、なるほどと思った。これは、噂になって当然だ。所作の一つをとっても完璧な教育が施されている。今すぐにでも、国王や大統領の前に出しても失礼にはならないだろう。
「九条と言いますと」
「九条家です。片桐家には、いつもお世話になっております」
優雅とは言い難い。ただのビジネス的な礼しか、私には出来ない。誠意もなければ、媚び諂う訳でもない。ただ単に、頭を下げただけ。今思い出しても、苦笑いが出てしまう。
「お世話だなんて……」
この時すでに私は、九条と片桐の格の違いを思い知らされていた。
(父親が、敵視するわけだ)
娘の出来一つですら、九条は片桐には勝てなかったのだから。
「愛衣?」
「お母様。もう挨拶はよろしいのですか?」
「えぇ。その子は?」
片桐の母は、片桐にそっくりだった。私と母とは大違いだ。
「九条 桜です」
「九条……?」
私の名前を聞いた片桐の母は、綺麗な顔を歪めた。
「失礼ですけど、貴女の母の名は?」
「九条 愛菜です」
「そう……。貴女が、ね」
言い方に少し、棘がある気がした。
「お母様。何をそんなに――」
「貴女は黙ってなさい」
良く分からないが、この時私は幼心に――私はここに居てはいけないのだと思った。
「失礼しました」
「あ、お待ちになって!」
片桐の言葉を聞かずに、私は会場を後にした。電話を使い執事を呼び、家まで真っ直ぐに。
片桐と私の、最初の出会いは余り――良好とは言えなかった。