楠は宗家・片桐を尋ねる
「ふむ‥‥珍しい事だな‥‥この茶室に客人を迎えるとはね‥‥いや、喜んでおるのだよ。これでもね」
静かな口調で、片桐は茶を立てている。
対面には、左腕を吊った楠源一郎が座していた。
片桐は五縄流の『宗家』とは言え、決して人望に秀でているわけではない。何しろ桜生の『師匠』である。その傍若無人な戦い振りのせいで『嫌われている』とも言えた。
故に、例え盆正月と云えども片桐の元に客人が来る事は皆無に近かった。
「恐れ入ります‥‥ご無沙汰をしておりまして‥‥」
楠が軽く頭を下げる。
「で‥‥如何だった?桜生との対戦は‥‥?」
無論、『結果』について片桐が知らない筈がない。片桐は『感想』を求めているのだ。
「はい‥‥。事前に栗田先生から『侮るな』とは言われておりましたが‥‥」
自然と、楠の視線が下を向く。
「ふふ‥‥いざ闘ってみると『勝手が違った』か‥‥」
そう語る片桐は、やや楽しそうにも見える。
「で、何か『得る物』はあったかな‥‥?」
すっ‥‥と、片桐が茶碗を楠の前に差し出す。
「この黒椀はな、かの樂家三代・道入の手によるものだと聞いている。名碗だぞ?もっとも『本物』ならば、という注釈はつくがな」
ははは‥‥と、楽しげに片桐が笑う。
「自分は‥‥ここ最近、柔道を『楽しめてなかった』と思います」
唐突に、楠が口を開く。
「ほう‥‥?」
「何と言うか‥‥『この道も、到達点が見えた』という気がしておりまして」
楠は、そっと右手で茶碗を抱えた。
或いは、それは天才の名を欲しいままにした者ゆえの苦悩とでも言うべきか。
「ですが、桜生君と相まみえて、それが『全くの思い上がり』であったと思い知らされました」
「桜生の『あれ』は柔道とは違うがな‥‥片手では勝手も悪かろうが、一口飲んで行くとよい」
片桐はそう言って茶を勧める。
「いえ‥‥自分は、知らない内に『自分の枠』に嵌っておりました。しかしながら例え柔道であっても、世界ではポイントを獲るために『何でもあり』の攻防があります。
それは、我々の目指す『武道』とはまた違うものではありますが、それでもボク達は『それ』を相手に勝つ道を目指さなくてはなりません。そういう意味では勝負の『厳しさ』というか‥‥『生き残る事の純粋さ』を学びました」
楠は茶碗を持ち上げ、中身を飲み干した。
「はは‥‥そうか、そうか。栗田先生が聞いたら、さぞ喜ばれることだろうて」
「あの‥‥ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか?」
「何だね?」
「一部の報道でも出ておりましたので、すでにご存知の事とは思いますが‥‥実はあの時、道場でボクの先輩に当たる山下巡査が桜生君に発砲しています」
楠としては、どうしても『それ』だけは知りたかった事だ。どうして、桜生は銃弾を受けて尚、平然としていられたのであろうか。
「聞いている。まぁ‥‥別に『そういう事』もあるだろう。何しろ五縄流には『暗術』もあることだしな」
片桐の口調はまるで「何を当然の事を」と言わんばかりである。
「う‥‥っ」
楠が言葉に詰まる。
そうか‥‥確かにそうだ。
考えるまでもなく、五縄流とは『そういう流派』だった。
武術は手段であって目的ではない。例え銃器を用いても勝てばよいのだ。
ならば、『それ』に備えるのもまた必然と言えよう。
であれば、それが何なのかはわからないが、最初から『何らかの対策』がしてあったとしても不思議ではない。暗くてよく分からなかったが、例えば『防弾チョッキ』のような‥‥
『用心』とは其処までに至るものかと、楠は舌を巻いた。
「で‥‥楠君は『それ』を知りたくて此処に?」
「え‥‥いやまぁ、それもありますが‥‥実はボクは彼の連絡先を知りません。まさか、あの体でSNSをやっているとも思えませんしね‥‥それで、僭越には存じますが、伝言をお願い出来ないものかと」
少し恥ずかしげに、楠が小首を傾げる。
「ほう‥‥何と伝えおけば?」
「はい。『近い内に必ずリベンジを果たしてみせる』と。『次こそは必ずや、そのニヤけた面を地面に叩きつけてくれる』と、お伝え頂ければ」
「ははは‥‥『地面に叩きつける』か。それはまた、楽しみな事だな」
片桐は闊達に笑っていた。
楠は『畳』ではなく『地面』と言った。
それは即ち、場所を選ばぬ果たし合いをも辞さぬ覚悟を意味していた。
「‥‥先ほど、病院に出向いて後輩達に頭を下げて来ました。『不覚をとって仇を打ち漏らしたが、このまま黙って引き下るつもりはない。必ずや凱歌を挙げて見せる』と。それが、後輩との約束ですので」
そう言って、楠は大きく頭を下げた。
「どうもご馳走様でした。では、これにて失礼します。何しろ、栗田先生が道場にて待っておられますので」