道場は静かに対決の時を待つ
地元の警察には、山下という楠の3つ上に当たる先輩が居る。
その山下が今回の事件を担当することになり、楠は山下の計らいによって本来は立入禁止になっている柔道場の中に居た。
時刻はすでに夜半を過ぎ、そろそろ日付変更線を越えんとする頃合いである。
道場は、あの昼間の大騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
「おい‥‥楠よ。そのヨタ話が何処までホントなのか知らんがよ‥‥本当にその『桜生』とやらはやって来るのか?」
月明かりだけが差し込む道場には、山下と楠だけが残っている。
「‥‥来ますよ、まず間違いなくね‥‥そのために、これだけ『煽って』来たんでしょうから‥‥」
楠は警戒を怠っていない。
「つーかよ‥‥此処の部員、34人からの『総掛かり』だったてんだろ?‥‥それを一人でなんて‥‥とても信じられんよ。全員、素人じゃねーンだからさ・・・」
なおも、山下は信じられないようだ。
「病院送りにされた連中はまだ、ロクに話が出来る状態じゃねぇっつーし、逃げ延びた連中の話もなぁ‥‥どうも支離滅裂でよく分からんのだよ。ホントに相手は単独犯なのか‥‥」
夜風が道場に吹き込んで来る。
玄関の戸板は外され、全ての窓も窓枠から外してある。
「ええ‥‥単独犯ですよ。この場合、人数は問題になりません。強い・弱いではなく『相性が悪い』という事です。何しろ、相手は最初から『殺人上等』で掛かってくるのですから。心構えというか‥‥『違う世界の住人』なんですよ、彼は」
「よく分からんな‥‥この現代によ‥‥」
ザザザ‥‥と、風が木々を揺らす音がする。
「『殺人上等』か‥‥流石に『死人』は出なかったみてーだが、『一歩手前』のヤツが6人も居るって、さっき病院から連絡が来たよ。医者も商売繁盛だな‥‥」
こうして待っていると、何処からともなく相手が襲ってくるような、そんな薄ら恐ろしい気もしてくる。
「‥‥気配がありますね‥‥近いですよ?」
楠が辺りを伺う。
「ん‥‥?何か、見えるのか?」
「いえ‥‥姿はありませんが‥‥気配がします。中の様子を伺っているのかも知れません。山下さん、巻き添え食らわしても申し訳ないですから引き上げて貰って結構ですよ」
楠の言い分は、まるで熊か虎のような野生動物を相手にした狩人のようであった。
「いや‥‥オレは残るよ‥‥。お前らが『これ』を決闘ではなく『申し合い』だと主張するってンなら、何かあった時にオレが証言しないとな‥‥」
山下はそう言うが、本心は別のところにあった。
『暴れる相手を制圧するのであれば、発砲もやむ無し』である。
大怪我をさせられた柔道部員達は、山下にとっても可愛い後輩である。冷静さを装ってはいるものの、腹の底は煮えくり返っていた。
仮に楠がその『桜生』とやらを『申し合い』で半殺しにでもしてくれるのであれば、それで良いとしても。
仮に少しでも手こずるようであれば、銃弾の餌食にしてやろうと目論んでいたのだ。如何に鍛えた身体であろうと、鉛玉相手にはそれこそ『相性が悪い』というものだ。
窓を外してあるのは楠の仕業である。
そうしておく事で、視界を広く確保するためだ。
或いは何らかの方法で窓を割り、その衝撃にこちらの眼が集まった瞬間を背後から狙うという手も、充分に有り得ると楠は読んでいた。何しろ『五縄流』とはそういう流派なのだ。
「居るな‥‥」
楠の声にピンとした張りがある。
ザザザ‥‥ザザザ‥‥と木々が風を切る音が激しくうなる。
「マジかよ‥‥」
山下が息を飲む。
「クソったれめ‥‥『居る』ってんなら、隠れてねーで、とっとと出て来やがれってんだぜ!」
思わず、山下が大声を上げた時だった。
「‥‥オレなら此処にいるぞ‥‥最前からな‥‥」
道場の片隅から、不気味な声がした。
「何っ!」
楠と山下が、その声に反応して同時に振り向く。
闇に眼をこらして見ると、確かに其処には桜生が立っていた。
「くっ‥‥!い、‥‥いつの間に‥‥」
その人相風体は、まさに部員達に聞いていた通りである。
「‥‥なるほどね‥‥『それ』は極めると其処まで出来るのか‥‥」
楠は内心、舌を巻いた。
『自分の気配を消す』これは、殺人術にとって初歩と言っていい。
打つにしろ絞めるにしろ、相手に気取られてしまえば仕留められる可能性は大いに下がり、逃げられる危険が増すのだ。
確実に相手を『仕留める』のであれば、己の気配を殺す技の習得は必須と言えよう。
無論、その技術は楠とて心得はある。
だが、柔道の試合であれば相手から隠れるという状況はないし、姿を隠す意味もない。
相手に自分の繰り出す技を気取られない程度に発揮できれば、それで充分であった。
だが、桜生は違う。
養父・片桐の薫陶を受け、只管に術の完成へ邁進してきたのだ。それは、時として師匠ですら欺けるほどであった。
「‥‥何て野郎だ‥‥全く気が付かなかった‥‥」
山下は自分が震えている事に気づいた。眼の前に居る『それ』は、明らかに自分達とは異質な『何か』だった。人間よりもむしろ『獣』に近い雰囲気と言っていい。
『何をしてくるのか』が全く読めないのだ。
ふと、山下は以前に聞いた羆専門の猟師の話を思い出した。
羆は狡猾な獣である。如何に自分が強くても、猟銃相手には分が無い事を知っている。だからマタギが来るとすぐに姿を消すし、万が一接近を許したとしても『完全に気配を消す』という芸当が出来るのだ。
老獪な羆ともなると、ベテランのマタギが1m以内に接近しても、その存在が分からないという。
コイツは‥‥人間じゃぁねぇ‥‥
今、眼の前に居るのは『そういう種類の獣』なのだ、と山下は理解した。




