手負いし獣の、手負いたる意味の
『正面から来る事はない』
それが山下の『読み』だ。
見るからに痛々しいあの怪我を押して、正面から来るのは無謀とも言えるだろう。
いくらこっちの得物が射程の短いテイザー・ガンとは言え、それでも『手足』よりは遥かに遠い。
濃硫酸弾で、思い知ったろーが。いくら桜生でも『飛び道具』にゃぁ勝てんぞ‥‥?
此処で時間を消費することは、桜生にとっても本意ではあるまい。
だとすれば、上手く山下を捌いて別の手から校舎に侵入する方が間違いないと言える。少なくとも自分なら『そうする』だろう。
蛍光灯に照らし出される桜生の顔に、大学の道場で見た時のような『侮蔑的なまでの余裕』は残っていない。彼を獣に例えるとすれば、まさにそれは『手負い』という言葉が適していると言えるだろう。
くそったれがよ‥‥
アザミから『リベンジのチャンス』と誘われた時には『これぞ千載一遇』と快諾してしまったが、この状況下では逆に何か『弱い者いじめ』のようで気が引けないでもない。
出来ることなら、このまま引いてくれた方が‥‥
「‥‥うん?」
その時、山下はある事に気がついた。
桜生が『止まった』のだ。
顔から、表情が消える。
身体から、力感が無くなる。
滴っていた汗が、引いていく。
先程までの燃え上がるような殺気が、今は種火ほども感じられない。
『そこ』に居るのは本当に生きた人間なのか?と疑いたくなるほどに『生命感』が薄れていく。
もはや、その存在は『居る』というより『有る』という表現が似つかわしいほどだ。
まるでオブジェのように、唯そこに『置いてある』だけとでも言おうか。
山下は自分の眼を疑った。
そうか‥‥『これ』が『気配を消す』という技術なのか‥‥
全身に鳥肌が立つのが分かる。
眼の前で見せられて、初めて理解出来た。
なるほど‥‥これじゃぁ、気取られねぇハズだぜ‥‥
じっと見ていると、それは向こう側の景色が透けて見えるのではと錯覚するほどの『存在感』‥‥?
「うっ!」
我に返った瞬間には、もう遅かった。
気がついた時には桜生は山下の背後に回り込んでいた。
テイザーガンを持つ右手は桜生に握りこまれ、その首には桜生の手首が掛かっていた。
しまった‥‥!『これ』は‥‥!
更に足をフックされ、そのまま左に回転させられながらコンクリートの床目掛けて山下の身体が叩き付けられる。
「ぐぉ‥‥っ!」
山下は意識を失い、力なく其の場に倒れた。
「はぁ‥‥はぁ‥‥」
桜生は呼吸を整える。
山下とて柔道では黒帯を締める身である。
されば通常の投げ技ならば、苦もなく受け身を取れたであろう。
だが。
柔道には『危険が過ぎる』として禁じ手に封じられる技が存在する。
その一つが、桜生の放った『河津投げ』である。
こうした技は使い手も居ないため、その『受け』を体得する機会もまた無いと言える。
更に、桜生の『五縄流の河津投げ』は相手の襟を『引く』のではなく『首を前から押す』のだ。
これによって相手のダメージはより深刻になり、反対に自分への負担を減らす事が出来た。
山下も河津投げに気付いたものの、対処には至らなかった。
桜生の胸は相変わらず激しく痛む。
笹川の刀だけではない。山下から受けた銃弾の衝撃も、脇腹に残っていた。
「ふぅ‥‥」
大きく息をして、桜生は階段へと向かった。
タン‥‥タン‥‥
暗い階段を、一歩づつ慎重に昇っていく。
アザミが何時どういう『仕掛け』をしてくるか見当が付かない以上、ここは拙速には動けなかった。
踊り場を抜けて、2階の床に上がる。
辺りを見渡して、危険が無いか確認‥‥
するまでもなかった。
2階の壁にもたれ掛かって、その男は立っていた。
「来たか‥‥まぁ、山下に桜生の足止めが出来るとは思って無かったがな‥‥」
その巨躯には見覚えがある。
「貴様‥‥何しに来た‥‥?」
「ふん、まぁそう言うなよ」
そこに居たのは『当身術』の柏木重道だった。




