進みゆく野山は平坦にのみ非ずして
結局、桜生が険しい崖を下って小川へ辿り着くまでに1時間以上を要する事になってしまった。
桜生は少し休憩して呼吸を整えてから、川沿いに前進を開始する。
その様子を。
アザミは目的地となる中学校の中で、モニター越しに眺めていた。
「ふふ‥‥結構、『お疲れ』のようね」
「‥‥楽しそうだな‥‥随分と」
アザミの背後から声がする。
「そりゃぁね。折角の機会だもの、思う存分に楽しまないと!」
アザミのワクワクしている様子が声にも出ている。
「何故、桜生が『疲れている』と分かるんだ?」
背後からの声のヌシが尋ねる。
「だってホラ、桜生君ったら『フード』を被ってるでしょ?それにサングラスも。サングラスは多分、太陽光の反射で水中が見にくくなるのを防ぐための『偏光グラス』だろうからイイとして‥‥何で『フード』だと思う?」
「さぁ‥‥な。アイツは常識の外に居るからな、分からんよ」
「だったら『教えアゲル』わ。アレはね、『表情を読み取られないようにする』ためのものよ?」
アザミが背後を振り返る。
「表情?」
「ええ。フードって意外に顔が隠れるのよ。だからね」
なおも、背後の人間には『その意図』が計りかねるようだった。
「顔を隠すことに‥‥何の意味があるんだ?」
「アラ‥‥『敵』と闘うのに、自分の弱点を教えるのは馬鹿のする事よ?特に格闘技の世界では、相手の怪我を攻めるのは『むしろ、やるべき事』なんだし」
モニターの向こう側では、トラップに注意しながら桜生が一歩づつ前に進んでいるのが見える。
「‥‥『弱点』だと?桜生に弱点とか‥‥あるのか?」
声のヌシは興味を引かれたようだった。
「あるわよ?というか『出来た』というかネ」
意味深に、アザミが嗤う。
「‥‥意味が分からんな」
背後の声には理解出来ていないようだ。
「ふふ‥‥少し考えれば分かるわ。誰にだってね‥‥いくら桜生君が宗家の秘蔵っ子とは言え、人間であることに違いは無いんだもの」
アザミに『正解』を詳しく教えるつもりは無いようだ。
「ふん‥‥まぁいい。とりあえず、お手並拝見といくよ‥‥こんな廃村ではスマホどころかラジオも入らん。他に『娯楽』は無いからな‥‥」
声のヌシはそういって、引き下がっていった。
アザミはモニターを凝視している。
「さぁ‥‥そろそろアザミ特製、恐怖のトラップが始まるわよ‥‥」
その顔には恍惚とした表情が浮かんでいた。
桜生が川べりを歩く事を決断したのは、アザミが仕掛けたであろう『トラップ』から身を守り易いという理由が一番である。
だが、このルートにも不安が無いワケではない。
『それ』に細心の注意を計りながら進む必要があると、桜生は考えていた。
『野生動物』である。
ここ暫くの間、この一帯に雨は降っていない。
そのため水分を求めて小動物が川に降りてくる可能性が高い。ウサギとか、ネズミとか。
すると、今度はそれらを狙って捕食動物が現れる可能性が高くなる。
ヘビの類でも、アオダイショウやシマヘビならば無毒なので『まだ良い』としても、マムシやヤマカガシの毒は致死性だ。特にマムシは小型で発見がそれだけ困難になる。
天然のそれらに遭遇する可能性は低いかも知れないが、相手は『あの』アザミなのだ。何を仕組んでいたとしても不思議ではない。
更に、だ。
それよりも恐ろしい相手が、この山には居る。
そう、『熊』だ。
ここは本州だからヒグマこそ居ないが、それでも『ツキノワグマ』とて油断出来る相手ではない。
ツキノワグマは雑食性で、時としてシカなどを襲って食べる事が最近の調査で明らかになっている。
本来であれば人間を襲うような事は稀だが、それでも喰殺事件は実際に発生しているのだ。
実は。
この村が廃村になった理由のひとつが『それ』なのだ。
昔の炭鉱は設備も不十分で、落盤による死傷者が出ることもあった。
そうした死者達を埋葬した墓地が『荒らされる』被害が出たのだ。犯人は、ツキノワグマだった。
一度『人間』を食べたツキノワグマは、その次から人間を襲うことに躊躇しなくなると言われる。何しろ、猟銃でもなければ相手は遥かに無力なのだから。
炭鉱が廃山となった後、残された村人の間に『被害』が出るようになり、結局は村そのものを捨てざるを得なくなったのだ。
ザワザワ‥‥
川面に冷たい風が走る。
桜生の足が、止まった。




