『その男』はまるで獣の如き異質さで
楠源一郎は師匠である栗田から急遽呼び出しを受け、道場に顔を出していた。
「‥‥そうですか、よりにもよって『最初』がボクですか‥‥随分とナメられたものですね」
楠はそう言って苦笑いを浮かべた。
「17歳でしたっけ?桜生君は?ボクより4つ下ですか‥‥まぁ、歳はともかくとして『汲みやすし』と思われたのなら、それは少々心外ですね」
「あまり‥‥桜生君を軽く考え無い方が良いぞ?何しろ『あの』宗家・片桐先生の秘蔵子だからな」
栗田が楠を嗜める。
「‥‥御心配を頂く程の事はありませんよ。何、ボクは宗家の跡目争いなんぞに興味はありませんから。適当にあしらって‥‥『負けた』という事にしておいてあげますよ、それで良いでしょ?」
そう語る楠に気負った感は無い。あるのは『絶対の自信』なのである。
「そうか‥‥ま、お前の腕なら遅れを取る事も無いと思うが‥‥」
何しろ『欲』がない、栗田は己の愛弟子をそう見ていた。これだけの才能の持ち主である。もっと欲があれば更なる高みとて夢ではないと思うと、栗田としては残念でならないのだ。
「宗家を目指そうとは‥‥思わないのか?五縄流の真髄を極めようとは考えんか」
「はは‥‥どうでしょうか?ボクは大学柔道の方でも全日本選手権が近いですし‥‥今はまぁ、『それ』を目指す理由もありませんね。‥‥ま、相手がどうしても『真剣勝負で』と絡んで来るのなら、そのまま蹴散らすまでですが」
すっくと、楠が立ち上がる。
「では、これで。大学の後輩を稽古場に待たせておりますので」
軽く一礼をすると、楠は栗田の道場を後にした。
楠の通う至秀館大学の柔道場は、正門から少々奥にあるプレハブの建物だ。
それは午後三時を少し回った頃合いだったと、後に警察の事情聴取に対して部員が答えている。
ガラリ、と部室の引き戸が開いた。
「‥‥うん?何者ンじゃ、アイツ‥‥?」
最初に気づいたのは、部長の大繁だった。
道場の入り口に体格の良い不気味な男が立っている。
一瞬、入部の申し込みか?と思わなくもなかったが、それにしては雰囲気がおかしい。男から漂ってくる殺気が只事では無かった。
大繁の背中に寒気が走った。
‥‥コイツ‥‥まさか、道場破りとかか‥‥?
男は、じっと中の様子を伺っていた。
「‥‥おい、何じゃお前!」
副部長の木暮が声を掛ける。
「黙っとられても分からんわ、用件を言わんかい」
道場の部員34名が一斉に稽古の手を止めて、その男‥‥桜生を睨みつける。
「‥‥楠源一郎、という男に会いに来た‥‥此処に来れば『居る』と聞いたが‥‥居ないようだな」
桜生が辺りを見渡す。
「楠か?アイツは今、用事があって出かけとる。何ぞ用事か?」
ずい、と大繁が前に出る。
大事な大会前だ。主力選手をあまりおかしな人間と絡ませる訳にも行かないのだ。
「用事‥‥?お前には関係ない事だ」
フン、と桜生が鼻で笑う。
やはり、コイツはヤバい奴だ‥‥
大繁は「楠に合う前に、此処で止めておくべき」と考えたという。ある意味、その直感は当っていたと言える。
「お前‥‥楠と『構えよう』ってんじゃねぇよな?楠は大会を控えて大事な身だ。稽古相手を探してるってんなら、オレが相手してやるぞ?」
クク‥‥と、桜生が嗤った。
「やめとけ。お前如きでは練習台にもならん。怪我をしてもつまらんぞ?」
「ンだと‥‥この野郎、良いだろう。チト、こっちに来い。揉んでやっからよ」
大繁が道場の中央を指さした。
『安い挑発』という言葉がある。たやすく相手を煽ることだ。
大繁としては此処は大人の態度として『受け流す』という選択肢が妥当であるのかも知れなかったが、何しろあまりに舐めた態度であった故に、易々とそれに乗ってしまったのだ。
或いは人数の圧倒的な差が、大繁の心を大きくしてしまったのかも知れないが。
周りの部員が固唾をのんで見守る中、大繁と桜生が向かい合う。
「‥‥行くぞ、オラ!」
グイっ‥‥と、大繁の左手が桜生の着ているシャツの首元を掴み取る。
大繁の得意は、並外れた握力にあった。一度掴んだ道着は絶対に外れないと評判である。そして、一度掴まれてしまえば、後は道場の畳に全力で叩きつけられるだけだ。
だが、桜生は全く動じていなかった。
次の瞬間。
それはまるで『猫のようであった』と。『人の動きに無いものであった』と、部員達は感じたという。
首元を掴まれたまま、桜生の身体がまるで水の如くに大繁の足元へ滑り込んだのだ。
「う‥‥っ!」
体勢を崩されて前のめりになり掛かり、大繁は慌てて掴んだシャツを離そうとするが、どういう訳かシャツが指に食い込んで『抜けない』のだ。
何‥‥これは!
『ワザと掴まされたのだ』と気づいた時には、もう遅かった。
桜生に背後へ回り込まれ、そのまま足を取れられて仰向けに畳へ叩きつけられてしまった。
「うぐっ‥‥!」
周囲が驚く中、瞬時にして右足首を絡め取った桜生の『次の行動』に一切の躊躇はなかった。
グキッ‥‥!
道場に聞き覚えのない異様な鈍い音が響く。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
大繁が足首を押さえて悲鳴を上げる。
「‥‥っ!コイツ‥‥部長の足首を‥‥お、折りやがった!」
道場の空気が瞬時にして凍りつく。
『近代武道』は‥‥いや、現代は格闘技全般にしてからが、相手を『壊す』ことを意図していない。『その一歩手前』で止めるのが『通すべき筋』なのだ。
だが、この男は何の躊躇もなく、その『暗黙の了解』を破って見せた。
「コイツ‥‥何者なんだよ‥‥」
部員達に戦慄が走る。
「‥‥だから言ったのだ‥‥怪我をするから止めておけと‥‥。で、次は誰だ?」
ゆっくりと、まるで獲物を品定めするかように、桜生が部員達を見渡した。