高めた純度の、更にその先の
いつの間にか陽は西に傾き、二人の居る校舎の裏に夕闇が迫っていた。
「‥‥。」
両者ともに、じっと黙っている。
二人の間合いは少しづつだが、確実に狭まっていた。
いや、より正確に表現するならば鏑の構える左の掌は、すでに桜生の構える掌と重なる位置にまで達しているのだ。
鏑は内心、焦りを感じていた。
何を考えている‥‥
この距離ならば突くにしろ掴むにしろ、もはや十分すぎるほど接近していると言えるのに。
それなのに桜生は『何も仕掛けようとはしてこない』のだ。
‥‥恐らく合気の投げを使うつもりだろう、と鏑は睨んでいる。これだけ脱力が進むと『戻す』にも一瞬という訳には行かないからだ。力の無い状態では突きや蹴りは有効打になりえない。
『身体に、力の芯だけを残す』
鏑はイメージしていた。
余分な力を削ぎ落とし、身体の軸となる芯だけを残す。
更にその芯すらも、まるで鉋がけをするかのように薄く薄く、何処までも薄く、純度を高めていくのだ。
雑念を捨てる。
鏑は考える事をやめた。この間合いでは頭で何かを考える暇は無いからだ。長年の稽古と、己の身体に刻み込まれた本能による脊髄反射で無意識に応撃する方が間違いない。
二人の間隔は、もはや肘と肘とが重なるほどに迫っていた。
勝負を分けたのは、その時である。
校舎の反対側、土手の方角から一陣の風が吹いてきた。
それは微風でこそなかったが、それでも普通であれば『少し強い程度』だ。
無論のこと、その程度の風によって人間の体勢に影響を及ぼすなど、通常であれば考えもつかない事だ。
だが、この時ばかりは話が違った。そう、二人の『力』は極限にまで研ぎ澄まされ、削ぎ落とされていたのだ。
「うっ‥‥!」
二人は、同時に大きく体勢を崩した。
背中向きに倒れ込む桜生に、鏑の体が被さるような格好だ。
体勢を立て直すか‥‥?
鏑は、桜生の顔色を伺った。
くそ‥‥だめか‥‥
桜生の表情は、まるで追い詰めたネズミを伺う猫のように残酷な笑みを湛えていた。
そう。この僅かな一瞬でさえ、桜生は鏑の『隙』を突こうとしているのだ‥‥と、鏑は解釈した。
であれば『力』を戻すことなぞ出来ようも無かった。
後に、この瞬間について鏑はこう語った。
『自分は肝心な事を忘れていた』と。
『五縄流の合気においては、それが技であれ、目線であれ、言葉であれ、相手の気を逸らすのが要諦であった』と。
桜生は、まさに『それ』を実践してみせたのだ。
己の目線と表情で、鏑を『釣った』のだ。
そして鏑がそれに釣られ、『気』に一瞬の迷いが生じたのを桜生は見逃さなかった。
桜生の腕と足に残された『僅かな力』。
それが、まるで天使の羽がそよぐように優しく、柔らかく、鏑の背後に回り込んでいく。
その優雅さに、鏑の身体は一切の『警報』を発する事が出来なかった。
自分が王手に入ったのを悟ったとき、鏑の身体はすでに桜生の手足によって絡め取られていたのだ。
ダン!と、地面に二人の身体が叩きつけられる音が響く。
鏑の身体はうつ伏せに抑え込まれている。
その左手は桜生によって大きく背中側に引き絞られていた。
くっ‥‥!
鏑は、足を使って素早くこれを脱出しようと試みたが‥‥、その肝心な右足は、桜生の左足によって完璧にフックされているではないか。
‥‥っ!!
マズイ、と思った時には全てが終わっていた。
こうなってしまえば完全に『力勝負』だ。剛力をもってなす桜生の前に、華奢な鏑は為す術も無かった。
バキバキ‥‥!
鏑が朦朧とする意識の中で最後に記憶しているのは、自身の肋骨が異様な音を立てて軋む音だった。