鏑は『その世界』に足を踏み入れた
「やれやれ‥‥ボクも帰るとするか」
溜息を吐きながら、鏑はカバンを手にとった。
そして、歩きだそうとして‥‥ふと立ち止まった。
やはり、何かがおかしい。
先程は『アザミのせいか』と思っていたが、どうもそれだけでは無いようだ。
意識を集中させて、周囲の気配を探る。
アザミは去ったというのに、重苦しい空気感は拭えていない。むしろ、さっきよりも増したくらいだ。
不意に、自分の『一歩前』の足元に眼が行った。
「うっ!」
思わず、鏑が唸る。
よく見ると、眼の前の地面が不自然に荒らされているではないか。
多少それらしく整地はしてあるが、明らかに何かが埋められた『痕跡』である。
「‥‥。」
鏑は黙って、その『痕跡』にカバンを投げ落としてみた。
その瞬間。
バン!
鋭い音とともに、何かが地面から飛び出してきた。
ビン‥‥ビン‥‥
衝撃でゆらめきながら空中にぶら下がっている『それ』はロープだった。
「ふっー‥やるねぇ。あと一歩、前に出ていたら此のまま『罠』を踏んで、そのまま空中に吊し上げられる算段ってワケか」
鏑は額の汗を拭いた。
無論、こんな真似をするであろう人間はひとりしか心当たりはない。
「吊るしておいて『刻もう』って言うのかい?頼むよ‥‥ボクはアンコウじゃないんだからさ」
危なかった。
もしも先ほどアザミが自分を足止めしてくれていなかったら。
多分、何の迷いも躊躇もなく自分はその『罠』を踏んでいたことだろう。
もしかすると、アザミはそれを見抜いていて‥‥?
ゾッ‥‥とする感覚を鏑は覚えた。
「そういう世界ってワケかよ‥‥」
思い返してみれば、だ。ここ最近の自分は桜生を避ける目的で、ずっとこのルートで隠れるように帰宅していたと思う。
人間はどうしても無意識に同じ場所を選んで歩く習性があるから、相手は『それ』を観察して夜間にでも『罠』を張った可能性が高い。
まさに、『暗術』だ。
ジリ‥‥
周囲に目を配りながら、鏑が後ずさりをする。
人間、どうしたって背後は見えない。このままでは、さっきのアザミ同様に苦もなく背後を取られる危険がある。
尚も鏑は後退を続け、校舎の壁にピタリと自分の背中をつけた。
とりあえず、これで背後を気にする必要は‥‥
いやっ!もしかして『それ』すらも桜生の『狙い』だとしたら?
思わず、鏑は前方に飛び出して位置を変えた。
傍目から見れば『それ』は、まるで鏑の一人相撲に見えた事だろう。『考え過ぎ』という懸念も無くはなかった。
だが、その『警戒』はムダに終わらずに済んだ。
先程まで鏑が立っていた筈の場所に、いつの間にやら何の音もさせずに『何か』大きな塊があるではないか。
そして、その塊がゆっくりと立ち上がった。
「クク‥‥。よく‥‥気付いたな」
ニヤリ、と嗤うその表情には何処かアザミに通じるものがある。
そう、『いかれてる』というヤツだ。とても普通の人間が発する空気感でない。
というより、もう此処までのレベルに来ると人間かどうかすら怪しいものだと思う。
凄いな‥‥これが『片桐桜生』か‥‥
心臓の鼓動が早くなるのが自分でも分かる。
桜生は『何処から現れた』のか。
無論、如何に桜生とは言え、壁をすり抜ける事が出来る訳ではない。
『上』から降りてきたのだ。
それがどういう技術なのか鏑には理解が及ばないが、恐らくは4階の屋上付近に隠れていて、そこから一気に降下してきたのだ。
多分、ロープかワイヤーを使って‥‥
二人の間は今、それほど遠くない。せいぜいが5mとか、その程度だろう。
桜生にその気があるとすれば、一気に詰められる間合いである。
だが、桜生は安易に飛び込んで来る気配はない。むしろ、やや出方を伺っているきらいすらある。
『合気』の真骨頂は、その返し技の妙にこそ有ると言って過言ではない。であれば、例え桜生といえども柏木の時のような訳にはいかないのだ。
だが、だからと言って全くの何の対策とて無いとも言えないだろう。これだけ周到に準備をしてくる男だ。
よし‥‥
鏑は『こちらから』仕掛ける事にした。
「ちょっ‥‥、ちょっと待ってよ!」
左手で、桜生を制する。
「あのさ、話は聞いてるけどボクは『跡目争い』とか『宗家』とか、全くキョーミ無いんだよ!だからホラ、『闘う』なんて考えてないし!アレでしょ?『負け』をボクが認めれば良いんでしょ?!」
だが、桜生はその言葉にピクリとも反応しなかった。
「フン‥‥ほざけ。言葉は兎も角、『腰』が逃げておらんぞ‥‥?その手には乗らん‥‥」
主人公を「柔道」「空手」「合気道」「剣道」「暗殺術」の5つの武術と戦わせよう、という構想は割と早く出来ましたし、そう躓くこともなく話が出来るだろうと「軽く」考えていました。
ところが。
他は兎も角「合気」をどうするかで完全に煮詰まってしまい‥‥
何しろ、世間で言う所の『合気』は決して評価が高いワケではないのです。MMAではサッパリですし。どうしてもリアリティの表現が難しい。
さらにもうひとつ。
ここに来て「物語が単調になる恐れ」が出てきたのです。
困った‥‥どう処理するか‥‥
転機になったのが、「なりた」という方の書かれた「ミコガミ神妙録」という合気道の物語です。
これに、偶然出会ったことで。
「そうか、もっと自由にしていいんだ!」
という天啓を得たのです。
そして生まれたのが『黒壇アザミ』というキャラクターでした。
ここから先、物語は彼女という視点が加わることで大きく幅が広がります(作者の個人的感想)
お楽しみをいただければ、幸いに存じます。