片桐清三は弟子の出立を静かに見守る
五縄流柔術の現宗家、片桐清三の家宅は人里離れた竹林の中にある。
元々は昭和の初期に孟宗竹を切って生業としていた屋敷だったが外国産に押されて廃業したのを期に、片桐が『この風情や尚良し』と気に入り、そのまま買い取って移り住んだのだ。
木漏れ陽に隠れる庭の外れには、小さな納屋がある。
片桐は此処を改装し、床を拵えて茶室として使っている。
なるほど外面は唯の古びた納屋候ではあるが、中はそれでも素人仕事とも思えぬ茶室の風情に仕上げてあった。
茶の趣味人ともなると最後は茶室を持つの夢とされるが、その点で言えば片桐は『夢を叶えた』と言えるのかも知れない。
さて、本日は珍しくもその茶室に客人を招いている。
無骨で如何にも武術家の風情を漂わせるが、まだ歳の若い男である。
客人は先程より、じっと目を閉じて茶釜より滲み出るフツフツと湯を沸かす音に耳を傾けていた。
特に何をするでもないし、手に得物がある訳でもない。
だが、それでもなお見る者に『隙あらば牙を突き立てられかねん』と恐れを抱かせるだけの気配がある。
『虎』は座して動かずとも『虎』か‥‥
片桐は男を一瞥すると、フフ‥‥と口の端で笑う。
「怪我は‥‥もう、いいのか?先生は何と?」
片桐が問いかける。
「‥‥問題ありません。藤井先生も『お前は普通ではないから』と言っておられました」
男は片桐の養子で、名を『桜生』と号する。
元々、桜生は片桐にとって甥に当たるのだが、幼少のみぎりに片桐がこれを見るなり『蛇は寸にしてその気を表すと言うが、まさにその才気が溢れて出ておる』と看破して養子に迎えたのだ。
五縄流の柔術は剣道や柔道と言った『武道』とは一線を画している。
一筋の曇りもなく『殺人術』である。
其処には、人格の形成や人間性の成長といった邪念は無い。唯只管に『相手を殺す』事に特化した生粋の『武術』であった。
「ふむ‥‥そうか。まぁ、最後はお前が決める事だ。お前が此のタイミングで『良し』とするのなら、それで良かろう」
茶筅の先で碗の底を摺る音が、茶室にたなびく。
五縄流の柔術は宗家以外に5つの分派によって構成されている。すなわち『組討術』『当身術』『合気術』『剣術』『暗術』の五派である。
習わしにより、宗家と各流派は時期が来ると高弟を各1名づつ選出する事になっている。その上で自分以外の残り5名に『全勝』した時に、その人物が『次の宗家』として分派から独立して一門を束ねるのだ。
現宗家の片桐が『宗家』を襲名したのが35歳の時であった事を考えれば、桜生の齢17歳というのは些かにして若すぎると思わなくもないが、前回の宗家交代から30年という間隔を考えると、あまり安閑ともしてられない状況でもある。
「なぁ‥‥桜生よ」
片桐が漆黒の茶碗を桜生の前に置く。
ゴツゴツとしたブ厚い掌と太い指で、桜生がその茶碗をそっと手に取る。
「‥‥はい」
「お前に問おうか。この現代にあって、我が五縄流が生きていく意味とはなんぞや?と」
「意味、ですか?」
桜生が怪訝な顔をする。
「うむ、意味だ。何しろ、考えても見るがいい。結局のところ柔術は白兵戦術だ。無人戦闘機が誘導ミサイルを撃つような現代にあって、このような『生身の戦術』を修める事に如何なる価値があろうものなのか‥‥とな」
ズズ‥‥
微かな音を立てて、桜生が茶を啜る。
「‥‥さて、私にはその問は少々難題にございます」
桜生が静かに茶碗を膝に置いた。
「『分からん』とな?」
片桐が問い直す。
「如何にも。『現代』において意味をなさぬモノが、『未来』においても意味をなさぬと言い切れるものでありましょうか?私には遠い未来を予見する能力はありませぬ故、その現代における価値についても知りようが無いかと存じます」
ふっ‥‥と片桐が肩をすぼめる。
「なるほど、そうか。それがお前の答えだと申すなら、それで良い。何しろ『迷い』は最大の敵だからな‥‥。それで、まずは『何処から』と決めておるのか?」
「‥‥はい。まず手始めは、古からの習慣に従い『組討術』の楠源一郎から挑みたいと考えております」
桜生は、空いた茶碗をそっと片桐の方に押し戻した。
「うむ‥‥暫く顔を見ては居ないが、楠君は今や柔道でも全日本の強化指定選手だと聞き及ぶが‥‥」
片桐が茶碗を受け取り手元に引き寄せる。
「中々の強者だぞ‥‥? 何か手は‥‥」
言い掛けてふと前を見ると、其処に桜生の姿はすでに無かった。
「はは‥‥この私を出し抜くとはね‥‥全く、恐れ入るな」
苦笑いをすると、片桐は懐中から携帯電話を取り出した。
「‥‥栗田先生ですかな?ご無沙汰しております、片桐です。‥‥ええ、最初はお宅の楠君だと‥‥」